伝統


 前のエントリーの最後、ちょっと断言し過ぎの感がありますが、去年読んだ本のなかでいちばん感心したもののひとつ、堀井憲一郎氏の『若者殺しの時代』の結論部を意識しているんです。

 この著者はご存知の通り『週刊文春』でコラムを書いておられる人ですが、最初のうちわたしはこれを読んで「またなんとしょおもないことばかりスカスカの文体で書けるものだなあ」と呆れてたのです。

 ところがあるとき「おや?」と思いました。この人はテレビのワイド番組に誰が出てたとか、ディズニーランドの待ち時間が何分だったとか、ほんとどうでもよさそうなことについて十年以上も遡るデータを駆使して書いてる。こんなデータ、テレビ局やディズニーランドが残しているとも思えないので、なんか明確な目的があって自分で記録しているに違いない。それにしても大変な努力だ。これを支えるのは、どういう目的意識だろう?・・・

 この本を読んで真意を理解しました。感服いたしました。
 いや、失礼つかまつりました。 m(_ _)m

 遊郭で遊びまわっているころの内蔵助が胸のうちに秘めていた志のごときものを推し量れなかった、という忸怩たる思いをもちますね(ボルへスのサムライは墓前で切腹したのだったかな?)。

 この本は、ぜひお読みになって下さい。

 結局堀井氏は本の最後で、いまの若い人たち(ということは将来日本人の全体になるべき人たち、ということですね)には、なんらかの意味での「逃亡」が必要だけど、それは非常に難しい。外に逃げられないなら内に逃げるのはどうか、と言います。つまり:

 「文化を徹底してカラダで身につけること。それが、逃げるひとつの道である」

と結論するのです(ここで氏が「文化」と言っているのは「伝統文化」の意味と言っていいと思います)。

 じつはこれ、わたしがいつも思っていたことと同じなんです。伝統文化を身につけるということは「自分であろうとする」ということであって、「自分」というものはけっして交換価値が云々できないものだから、ですね。


 ところで堀井氏は「文化」の例として、たとえば古いもので「都々逸、古武道、落語」、新しいもので「美容師、ラーメン職人、蕎麦打ち」とあげていきます。
 ここまでは分かるんだけど、最後の「文化」はわたしの理解をこえてました。

 「歌謡曲司会」

 なんじゃこれは? f(?_?;) 司会って、あの、玉置宏(古い!)がやってたような、あれ?

 堀井師はときに難解なことをおっしゃる・・・
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