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映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」~”嘉義についたら起こしてくれ”

2015-02-19 | 映画

以前、予告編をここでアップしたことのある

「KANO 1931 海の向こうの甲子園」

を観てきました。

日清戦争の後の下関条約によって日本が清国より割譲したのが1895年。

この時から台湾の日本による支配が始まりました。
条約によって正式に割譲されたのですから決して「武力支配」ではありませんが、
台湾に対してなぜか「支配してすまないと思う」日本人が今現在もいるようです。

わたしにいわせると、すむもすまないも条約だろ?の一言で終わる話ですし、
そもそもこんなことを言う人に限って条約のことを知らなかったりします。

おそらく割譲後に起きた
台湾人の抵抗運動と、それを武力で日本政府が抑えたことで、
日本が台湾を武力で押さえつけて支配したと思い込んでいるのでしょう。

蜂起したのは決して台湾の「一般人」ましてや「良民」ではなかった、という、
(つまり現地を牛耳ってそこから利益を得ていた地元ヤクザのようなもの)

なぜか語られない実態を考慮せずに、支配の構図だけを見て結論を出しているのです。

が、(笑)このことについては
以前後後藤新平について書いた項で縷々お話ししましたので、今日は割愛します。

このお話は、そういった騒乱がひと段落したころの1931年の台湾を舞台に、
ダメダメチームだった嘉義農林高校ナインの前にある日突如現れた
凄腕監督と、 選手たちの歩んだ「甲子園への道」を描きます。

ストーリーは、史実の通り、嘉義農林がその年の甲子園で準優勝するまでで、
彼らが地元で一度も勝てなかった相手を下して以降、
監督の厳しい指導のもと、球児たちが力をつけて強くなっていく過程がコアとなっている、
つまり単純なものですが、だからこそ見ていて裏切られることのない爽快感があります。


そして、この映画は、わたしの好きな映画の条件、すなわち

「男たちが」「皆で何か一つのことをやり遂げる」「実話ベースの物語」

を満たしています。
わたしがこの最初に自分のこの傾向に気づいたのは「炎のランナー」でした。
「炎のランナー」でパリ・オリンピックに出場した実在のアスリートが主人公だったように、
当映画は野球で、実際に戦後日本の球界で活躍した選手が何人かいます。


しかも、わたしが訪れたことのある台南が舞台であり、これも実際に訪れた、
八田ダムを作った嘉南大洲の父、技術者八田與一が出てくるというではありませんか。

台湾という国には、金美齢さんとの出会いもあって個人的に大変な親近感を持っていますし、
地震の後の支援によって「雨天の友」であることがわかった今となっては
日本と台湾は「相思相愛」の国同士といってもいいくらいの「ラブラブ」
(金美齢さんが自分と安倍総理とのことをこう言っていた)でもあると思っています。



かつて台湾が「日本」であったころ、そこで「普通の」人々はどう生きていたのか。

そのとき日本は台湾をどう遇したのか。
そんなことが実話ベースのストーリーから読み取れるかもしれないという期待をもって
この映画を見てみました。

というわけで。

野球好きはもちろん、野球に興味のない人にもぜひ見ていただきたい映画です。
皆さん、まだお住まいの地方で上映をしていたら、ぜひ映画館で観てください。

DVDでも決して後悔しないと思いますが、特に甲子園球場での試合のシーンは、
大スクリーンで観るのがオススメです。


さて、というわけで今日はまだ見ていない方のためにストーリーについては触れませんが、
この映画に登場した実在の人物についてです。


 

監督 近藤兵太郎

早稲田大学卒。
コーチとして出身校の松山商業をベスト8へと導く。
台湾の嘉義農林高校で簿記を教えていたが、3年後野球部の監督となり、
その年、1931年の甲子園大会で嘉義農林を準優勝まで導いた。


松山商業時代の教え子に、東京巨人軍、大阪/阪神タイガースの監督であった藤本定義、 
大洋ホエールズの監督を務めた森茂雄などがいます。

近藤監督を演じる永瀬正敏が好演です。
永瀬の演技は台湾でも絶賛され、6部門で台湾の映画賞にノミネートされましたが、
審査員に反日スピーチで有名なジョアン・チェンがいたせいで(と言われている)
無冠に終わりました。

まあ、中国にとっては実に面白くないストーリーでしょうね(笑)





呉明捷( ご・めいしょう)中央


本編の主人公。
ピッチャーで4番打者、甲子園では完全試合、全試合完投を成し遂げ、
その圧倒的な投球から「麒麟児」とよばれた。

映画ではスラリと背の高いハンサムな曹佑寧くんが演じていますが、
この写真を見る限り、当時の呉選手に似ています。
監督のウェイ・ダーションは

「呉明捷と蘇正生がこの映画のポイントなので、似た俳優を選んだ」

と言っています。
ただし、

 

30年後にはこうなってしまったようで(T_T)
(近藤監督は右から2番目、呉明捷は一番左)

この映画で呉選手を演じた俳優のツァオ・ヨウニンは実は俳優ではなく、大学野球の選手。
キャストは一般公募されたのですが、条件が

「野球歴5年以上」

確かに、野球をするシーンが皆、さまになっているせいで、
の映画には
説得力というか引き込む力があります。
彼は一年間大学を休学して撮影に臨んだそうで、学校に戻った今では大人気で
追っかけのファンが
彼の出る大学野球を観に押しかけるのだとか。 

 


呉波(呉昌征・石井昌征)

映画で、近藤監督に無視されても

「手伝わせてください」

と頼み込んで、グラウンドの整備をしたり球拾いをしたりする少年がいます。
嘉義農林の生徒ではありませんが、野球部に憧れ、絶対に生徒になる、と決めて
入学するまで毎日ボールボーイのようなことをしていたこの少年は、
その後嘉義農林の選手として甲子園に出場することができました。

そして21歳で東京巨人軍に入団。

俊足、強肩の外野手として活躍し、「人間機関車」と呼ばれる名選手になりました。

1942年、43年には2年連続首位打者となり、その後阪神でプレー。
他の選手が

「外野からあれだけ正確なバックホームができるなら投手もできるだろう」

といったことから(おいおい(⌒-⌒; ))投手としても登板するようになります。
そして戦後初のノーヒットノーランを達成しました。
登板のない日は打者として1番・センターを務めていたという怪物でした。

巨人と阪神、ライバル球団のどちらもで主力選手として活躍した例は珍しく、
巨人対阪神のOB戦では川上哲治や藤村富美男など両軍の選手たちから

「君はこっちだ」

とからかわれていたそうです。
そして、1995年、本人が亡くなって8年後に、彼の名は野球殿堂入りしました。

戦争が始まった時、呉は阪神タイガースにいましたが、プロ野球は中断となり、
甲子園球場のグラウンドは芋畑にされていました。
そこで昔取った杵柄(笑)、呉はかつて嘉義農林学校に学んでいた経験から、
耕作指導員として(甲子園の土の)土壌改良に取り組んだそうです。

かつての憧れの甲子園で、将来芋を作ることに学校時代の勉強が役に立つとは
本人は夢にも思ってもいなかったに違いありません。

映画で呉波少年を演じているのは台南市出身のウェイ・チーアン。
ローラーブレードの選手で、プロデューサーの甥だそうです。





蘇正生(そ しょうせい)

映画では、テニス部の彼がラケットで流れ球を打ち返したことで、
近藤監督にその肩を買われて野球部入りをします。

近藤監督は実際、監督に就任してから台湾全島を歩き回り、
有望な選手を探し出して嘉義農林にスカウトするということをしています。
コーチの仕方ももちろん良かったのですが、それだけでは
就任した年に甲子園で準優勝することはできなかったでしょう。

蘇選手は卒業後横浜専門学校(現:神奈川大学)でプレイした後、
台湾の野球発展に尽くし、

「台湾野球界の国宝」

と呼ばれていたそうです。
本作品製作にあたってはまだ存命だった(2008年に死去)ため、
映画スタッフが聞き取ったエピソードが取り入れられました。


錠者博美 (札幌商業高校投手)


この映画は甲子園大会から13年後の1944年から始まります。
台湾を通過して戦地に赴く汽車に乗り込んでいく帝国陸軍の軍人たち。
その中に、甲子園で嘉義農林と戦った札幌商業高校の投手であった
錠者博美選手の13年後の姿があります、

陸軍大尉として台湾経由でフィリピン戦線にこれから向かう彼は、
汽車に乗り込んだとき、こう言って眠りにつくのです。

「嘉義についたら起こしてくれ」

この言葉は、台湾を経由する日本兵の一種の「流行り言葉」であったと言われています。
敗戦色が濃厚となった大東亜戦争末期、生きて帰れないかもしれないという状況で
台湾を通過していく日本兵、あの1931年の甲子園を覚えている日本兵たちは、
どんな状況下でも、決して諦めなかった、あの嘉義農林の球児たちを育んだ土地を一目見たい
と願ったということらしいのです。

そしてその通り、錠者選手、いや今では錠者大尉は、一人嘉義の町を歩き、
今では人気のなくなったかつての嘉義農林のグラウンドに立つのでした。

錠者博美という選手は実際に札幌商業高校の選手でしたが、フィリピン戦線ではなく、
中国大陸に出征し、終戦まで生き延びたものの、戦後はイルクーツクの収容所に収監され、
そこで亡くなっています。

マー・ジーシアン監督は、日本兵の間で交わされた「嘉義についたら起こしてくれ」
という言葉を映画に取り入れるために、錠者博美を日本兵の象徴として描いたのでしょう。


そして1931年に甲子園に出場した日本人選手のうち、傷ついた手で投げ続ける呉投手に

「打たせればいい、俺たちが絶対にとってみせる」

という「鉄壁のトライアングル」、セカンドの河原信男、ライトの福島又男は、
どちらも招集されて出征し、戦死しています。


甲子園に来た嘉義農林ナインに、嫌な質問をする記者がいます。

「漢人、蕃人、日本人、そんな寄せ集めで野球ができるの?」

実に嫌な言い方で、ちょっとした映画の「憎まれ役」といったところ。

「漢人は打撃が強く、蕃人は足が速い、日本人は守備に長けていて最高のチームだ」

と近藤監督に言い返されて、試合では大敗したらコケにしてやろうと
手ぐすね引きつつ観戦するのですが、彼らの活躍に次第にファンになり、最後には

「天下の嘉農」

というタイトルで記事を書くに至ります。
この「天下の嘉農」は何を隠そう、あの菊池寛が大阪朝日新聞に寄稿した観戦記の中で

「僕はすっかり嘉農びいきになってしまった 」

と絶賛したことから、各新聞が嘉義農林のキャッチフレーズにした言葉でした。
嘉義農林の活躍は当時一種の社会現象となるほど騒がれたため、13年経った後に、
このときの熱狂を、戦地に向かうため台湾を通過する日本人たちが思い出したとしても
全く不思議ではなかったということになります。


八田與一

さて、そしてこの映画で出番は少なくても強烈な印象を放っているのが、
大沢たかお演じる烏山島ダムを作った八田與一でした。

映画では烏山島ダム完成の放水の様子が再現されています。
実際に放水が最初に行われたところを見たわたしには全く完璧に再現されていると思われました。
もしかしたら本当に烏山島ダムで撮られたのかと思ったくらいです。


それから、この映画をすでに見られたという方、甲子園出場が決まった後に
嘉義の町で行われたパレードで部員の一人、

上松耕一(プユマ族出身、本名:アジワツ、台湾名:陳耕元)

が目を止める「お嬢様」がいたのを覚えておられますか?

彼女は
蔡招招という嘉義女子中学の学生で、後に上松の妻になったそうです。
上松選手はスカウトされてきて、甲子園出場の時には史上最年長の27歳だったので、
おそらく
実際に結婚した時には彼女と13~4歳は年の差があったと思われます。
 




ところでわたしは台南に旅行をした時、台南駅前のシャングリラホテルの
コンシェルジュである若い女性と観光案内の件で話をしていて、
烏山島ダムを作った技術者が八田與一という日本人であることをいうと、
彼女はこの地方の出身ではないのか(台南地方の出身者は学校で習う)
日本人がダムを作ったという話は初めて聞いた、と語りました。

「そうだったんですか」

と興味深そうに言っていましたが、この映画は台湾で大ヒットしたので、
もしかしたら彼女は映画を見て、このときの会話を思い出したかもしれません。



それでは最後に、1931年全国高校野球選手権大会の試合結果を貼っておきます。



 

【試合結果】

 

1回戦

 

中京商 4x - 3 早稲田実

 

広陵中 4 - 1 和歌山商

 

秋田中 6 - 0 千葉中

 

平安中 6 - 5 八尾中

 

小倉工 6 - 0 敦賀商

 

長野商 2 - 1 大分商

 

 

 

2回戦

 

中京商 19 - 1 秋田中

 

広陵中 6x - 5 平安中

 

松山商 3 - 0 第一神港商

 

桐生中 2 - 0 福岡中

 

嘉義農林 3 - 0 神奈川商工

 

(札幌商 4 - 2 大連商)(411塁降雨ノーゲーム)

 

札幌商 10x - 9 大連商

 

小倉工 5 - 2 長野商

 

大社中 12 - 11 京城商

 

 

 

準々決勝

 

中京商 5 - 3 広陵中

 

松山商 3 - 0 桐生中

 

嘉義農林 19 - 7 札幌商

 

小倉工 22 - 4 大社中

 

 

 

準決勝

 

中京商 3 - 1 松山商

 

嘉義農林 10 - 2 小倉工

 

 

 

決勝

 

中京商 4 - 0 嘉義農林

 

チーム

1

2

3

4

5

6

7

8

9

R

嘉義農林

0

0

0

0

0

0

0

0

0

0

中京商

0

0

2

2

0

0

0

0

x

4

1.       :  - 

2.       : 吉田 - 桜井

3.      [審判](球)梅田(塁)鶴田・水上・川久保

 



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2 Comments

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甲子園 (昭南島太郎)
2015-02-19 09:35:40
エリス中尉

実はわたし元高校球児でした。
父も戦前甲子園全国制覇した戦艦大和を産んだ街の学校で球児でした。
野球ばかりやって勉強しない本も読まない私に父が初めて買ってくれた本が「熱闘 甲子園物語」でした。
中学時代までなら甲子園春夏優勝準優勝校を全て暗記してました。
(それを勉強で活かせ、みたいな)
今から思うと主催が何で朝○毎○新聞社なんだ、と思いますが。。。

嘉義農林野球部が映画になったとは聞いて、観たいとは思いながらズルズルしてました。8
私自身は怪我で途中退場となりましたが、広島の私の母校も野球やバレーで全国制覇した学校でした。

甲子園を目指す少年(私自身そうでしたが)の心、魅力ってなんだった(なんなんだろ)と思わされる中尉の今日のブログでした。

結論ないままで申し訳ありません。

今日は春節初日、日本でいう元旦の昭南島から。

昭南島太郎
返信する
朝日新聞社 (エリス中尉)
2015-02-19 17:11:42
はい、この映画も協力クレジットにちゃんと名前を連ねていました。「朝日新聞社」。

しかし、野球少年の情熱の方向性恐るべし。
なんで春夏優勝準優秀校を覚えるということになるのか。全くわからないけどとにかく青春だ!

ということは嘉義農林の名前も覚えがあったということですね。
本文では触れませんでしたが、高校野球には台湾代表、中国(つまり満州)代表、そして
朝鮮半島代表が必ず出場していました。
いずれのチームも嘉義農林のように現地民との混成チームであったと思われますが、
統治していた地域の代表を甲子園に出場させるということが普通に行われていた以上、
さらに現在2カ国の言っている「過酷な支配」とやらは信憑性のないものになります。
甲子園球場での試合シーンは、アナウンサーの実況でシーンが進められ、そのなかで
「ごめいしょう君」「そせいせい君」というふうに今と同じ「君付け」で、漢字を日本読みして
選手の名前を呼んでいました。
これは、中国読みではなく日本語読みで日本人が台湾人を読んでいたということになります。
が、これも当時台湾は日本だったということなのです。

元野球少年でしたら、是非是非、機会があれば観られることをお勧めします。
優勝校を覚えた頃の熱い気持ちがきっと蘇ってきますよ。
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