ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

戦艦「伊勢」乗組員のアルバム

2015-02-21 | 海軍

年末に参加した護衛艦「いせ」艦上での戦艦「伊勢」慰霊祭。
この日「いせ」には少ないながら一般の参加者が乗り込んだのですが、
いわゆる「体験航海」といっても一般に募集されたものではなく、「伊勢」の遺族、
「いせ」の後援会、そしてその人たちが「厳選して呼んだ知人」といった陣容でした。


この参加者に、お祖父さんが「伊勢」に乗っていたという方がいました。
「伊勢」という名前はそのお宅では普通に馴染みの深いもので、
特に戦艦や護衛艦にさして興味のない彼女でも
「いせ」という「おじいちゃんのフネと同じ名前」の護衛艦を知ったときは
「大変興味を持った」ということでした。

そして幾つかの偶然があり、彼女は今回「いせ」で行われる「伊勢慰霊式」に、
遺族としてではなく、誘われたという
立場で参加することになったということです。

ホテルのロビーでグループが集合したとき、早速彼女は祖父愛蔵貴重なアルバムを
そこで立ったまま開き、そこにいたヲタ達は
貴重な写真に騒然となったわけですが、
その後「いせ」に乗艦し、士官室で出航を待ったりしているときにも
アルバムは皆に興味深く回覧され、その中には「いせ」の乗員もいました。

わたしも皆がそうしたようにアルバムの写真を撮らせていただきましたが、
今日はその中から、おそらく彼女のお爺さんが購入したのではないかと
思われる写真を、ご本人の許可のもとにご紹介させていただきます。


冒頭写真は観艦式における受閲部隊を「伊勢」の主砲の間から撮ったものです。

「これはいったいどこに立って写しているんでしょう」


わたしが呟くと、近くにいた人が

「それはここだよここ、来てごらん」

と模型の前に連れて行かれました(笑)



「伊勢の主砲はこことここにあってね・・」
 
主砲がどこにあるかくらいはわたしにもわかります。
「どこに立っている」というのは筒の上なのか他の場所なのかという程度の意味だったのですが、
まあいいや(笑) 

ところで冒頭写真、「伊勢」の後ろを航行しているのはなんでしょうか。
この写真がいつのものかなどは一切わからないので、もしこれが

1927(昭和2年)の大演習観艦式ならそれは「日向」、
1930(昭和5年)の特別大演習であれば「長門」、
1933(昭和8年)なら「足柄」、
紀元2600年の帝国海軍最後の観艦式となった特別大演習なら「山城」。

観艦式の資料によるとこういう絞り込みが出来ます。
この間には「火垂るの墓」で描かれた神戸での観閲式などもありますが、
伊勢が参加した大規模なものとなるとこの4隻のどれかということになります。

それから艦隊の上を飛んでいるのが90式艦上戦闘機のようにも見えるので、
だとしたら時期的に昭和5年以降ということは確かです。


先日購入したばかりの(笑)「写真・太平洋戦争の日本軍艦 大型艦」を見ると、
どうもこのシルエットは「山城」に思われるのですが、いかがなものでしょうか。

 

水兵服が見えることから海軍陸戦隊ですが、小官恥ずかしながら、
銃火器の種類はさっぱりというか、あまり調べる気がないので
なんなのか全くわかりません。


「中国大陸ですか」

とアルバムの主に聞いてみたのですが、どうやら違うとのこと。
国内で演習でもした時のものでしょうか。



これはどうやらお祖父さんが航空訓練を受けていた時のもののようです。

練習機だと思うのですが機種が判然としません。

複葉機ではありませんが、足の間につっかえ棒みたいなのが見えますし・・・。
どなたかお分かりの方おられますか?



ここからの一連の写真は皆靖国神社で撮られています。
おそらく例大祭などの時ではないかと思われますが、
そのすべてに説明が全くないので、この人物も名前がわかりません。

陸軍軍人であった皇族のどなたかであると思われるのですが、
何しろ陸軍に籍を置かれた皇族の方々は昭和天皇を始め28人もおられたので・・。



靖国神社拝殿の階段をお降りになる天皇陛下。
後ろに陸海軍軍人が一人ずつ付き添っていますが、左側は南雲忠一・・ですよね?



これはわかります。近衛文麿公ですね。
どう見ても総理大臣としての参拝です。

これが第一次内閣が成立後に行われた公式参拝
だとすれば、
間も無く起こった盧溝橋事件を受けて、
中国との間に戦闘が起こることになり、
これが日本の運命を大きく変えていくことになるのですが・・・。 


近衛の後ろを歩いている人物は牛場友彦

東京帝国大学、オックスフォード大学を卒業した近衛の秘書官です。
日本輸出入銀行幹事、アラスカパルプ副社長、日本不動産銀行顧問を務めるなど
財界の大物になり、弟の牛場信彦は白洲次郎の伝記にも登場していた外交官です。

このとき1901年生まれの牛場はおそらく36~7歳だったはずですが、
年より若く見え、いかにも切れ者のような怜悧な眼の光をしています。

インターネットで牛場友彦の写真はどこをどう検索しても出てこないため、
もしかしたらこれは貴重な一枚なのかもしれません。



この人物は荒木貞夫のようも見えますがいかがでしょうか。
陸軍人であるのにもかかわらず軍服を着ていませんが、もし荒木だとしたら
第一次近衛内閣では文相を指名されたときの参拝なのでつじつまが合います。




わたしが士官室でビデオを見たりおしゃべりしていると、
アルバムを見ている一団からこちらに来るようにと声がかかりました。
行ってみるとこの写真のあるページを指し示し、

「山本五十六がどこにいるかわかる?」

わたしが0.1秒の速さで左側を指差すと、

「わかる人がもう一人いた~」

と周りの皆さんが盛り上がっています。
どうやらそこにいた人々(アルバムの所持者含め)の中で
山本五十六の顔を知っているのは一人だけだったようです。

山本五十六の顔がわからない人なんているの?などと今なら思いますが、
よく考えたら、それもこれだけ4年半の間ほぼ毎日のように海軍のことを考えて
生きてきたからこそ当然のように思えるだけで、もしかしたらわたしも
5年前ならわからないうちの一人だったのかもしれません。

さて、この写真ですが、上のものとは同じではなさそうです。
というのも靖国神社の鳥居をくぐってくるのが海軍軍人ばかりで、
天皇陛下のご列席があったとしたらこんなラフな感じで参拝しないだろうからです。

皆さんはこれ、なんだと思いますか?

あくまでも推理なのですが、ヒントは五十六の右の人物。
これ、嶋田繁太郎ですよね?

嶋田と山本五十六は兵学校32期の同級生。
そして1940(昭和15)年11月15日、この二人、全く同じ日に

海軍大将に進級

しているのです。
海軍において大将に進級した時に靖国を参拝するかについては、
詳しいことはわかりませんでしたが、もしこの写真が進級の後
靖国にそれを報告するような形で参拝したときのものであれば、
嶋田と五十六の二人が仲良く並んで歩いて行くのも納得できます。

実はめっぽう仲が悪いと評判の二人だったのですが。

ところで海軍兵学校32期の中で、この二人だけが大将になったわけですが、
山本五十六の卒業時のハンモックナンバーは11番、嶋田は27番(192名中)です。

二人とも恩賜の短剣には無縁だったわけですが、それでもここまで出世したわけで、よく

「海軍はハンモックナンバー偏重」

と言われるわりにはこういう人事もあるのだということです。
もっともこの学年のクラスヘッドだった堀悌吉は、

「神様の傑作、堀の頭脳」

と言われるほどの伝説の秀才だったのですが、大角人事
予備役に追いやられ、すなわち海軍をクビになってしまったという、
いわば変則的な学年であったと言えないこともありません。

嶋田繁太郎は同じクラスの堀のことを大変評価していたため、戦後

「堀が開戦前に海軍大臣であれば、もっと適切に時局に対処できたのではないか」

と言っていたことがあるそうです。 
確か自分も海軍大臣だったわけだけど、そのことはどうなのかな(笑)

映画「聯合艦隊司令長官山本五十六~太平洋戦争70年目の真実~」
(長いんだよこのタイトル) でも縷々描かれていたように、
堀は”戦争自体は悪である”との考えを持っており、堀と親友でもあった
同期の山本五十六もまた戦争には最後まで反対であったとされます。

これらのほかにもアルバムの写真には米内光政など海軍の高級将官
の写真が数多くありました。 


「こんな写真、どうやって撮ったんでしょうね」

「撮ったんじゃなくて売ってたんじゃないかな」

海軍内でもしかしたらこれらは販売されていたのかもしれません。
というかアルバムには一切覚書などのメモすらなく、何の説明もつけられていません。
どうやらお祖父さんはあまりそういう方面にマメではなかったようです。

ページをさらに繰って行くと、どこかはわからない水辺に、まるで
丸太をくり抜いたような船が浮かべてある写真がありました。

うーん・・・・どこかでこういう船のことを調べたことがあるぞ。

「あ、これ、サバニ船っていうんじゃなかったですか」

一同、返事がありません。

「あの久松五勇士が乗っていたという・・・」

それをわたしが言った途端、そこにいた男性二人が

「ちょっとなんでそんなことまで知ってるの」
「女の人の口から久松五勇士という言葉を聞こうとは思わなかった」

と口々におっしゃいました。

女が久松五勇士を知っていたっていいじゃないか ヲタだもの みつを



ところでつい最近、わたしの言論について


「女の人でそれだけ考えをまとめて話せる人は見たことがない」

とある知人から言われたということがあったのですが、あくまでも数の問題で、
男性は左脳型の人が多く、女性は右脳型の人が多いという程度の違いではないですかね。

ちなみにわたしは左脳優位か右脳か、というテストをしたら

「右左脳」(直感的に捉え論理的に分析して処理)

であるという結果が出ます。


閑話休題、久松五勇士で驚かれてしまったわたしですが、
その後少しだけそれらの話に三人で花を咲かせました。

「8時間船を(サバ二船ね)こぎ続けて八重山についてから、
郵便局は島の反対側にあったんですよね」

「そこから休まず走り続けてねえ」

「あの僻地みたいなところの住人が、ロシア艦隊を
日本が血眼で探しているってことを知っていたんだからすごいですよ。
新聞も来ていなかったというのに」

「いや、やっぱり日本人として今は国難の時と思ってたんでしょうね」


初めて会う人たちなのにどうしてこんなに話がはずむのかしら。
それはやっぱり同好の士というかヲタ同士だから?
オタクは国境も超えるのだから、年齢性別などさらになんの障害にもなりません。

「それにしても、このアルバムもったいないねえ」

お一人がアルバムの主に言い出すと、

「これ、売ったらすごいお金になるよ」

と別の人。
彼女は

「これは絶対に売ったり譲ったりできないんです。
祖父の遺言で・・うちの家宝みたいなものなので」

先代が亡くなって1週間くらいしか経っていないのに、遺品の刀を刀剣の里に持ち込んで
お金に変えようとするような人も世の中にはいたりするわけですが(笑)
彼女のお家は全く逆で、伊勢の乗組員であったお祖父さんを誇りにしており、
それゆえにそのよすがとなるこれらの写真を門外不出にして大事に所蔵し、
ただ家の宝として、これからも子々孫々に譲り伝えていくつもりなのでしょう。

昔靖国神社境内で行われていた古物市で、一人の軍人の名残り、
軍籍簿や写真、書類の一切合財が3万円で売られていたのを見たことがあります。
古物商に

「どうしてこんなものがここで売られているんでしょうか」

と聞くと、

「遺品整理だね」

ということでした。
遺品を売ってなけなしの金額を手にするというのも、なにやら殺伐とした印象があるのですが、
それを管理していた人が孤独死してしまったなど、いろいろな事情もあったのでしょう。

逆に彼女のうちのように、自分の身内の個人史となる写真を、
それがいかに貴重なものかということを全く知らないまま、
家の蔵などにしまいっぱなしのままの家庭というのも、実は
この日本にはたくさんあるのではないかという気がしました。

「これ、どこか博物館か資料館みたいなところに出して
ちゃんと管理してもらったほうがいいんじゃないの」

彼女はそういわれて

「そうですか・・・」

と曖昧な表情を浮かべていましたが、もしそうしたときに
二度とこれらの写真が手許に戻ってこないという可能性があるかぎり、
彼女のうちの人々は、今後もそれを決してしないのではないかなあ、
とわたしはその横顔を見ながらそんなふうに思ったものです。



 


 



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8 Comments

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遺品整理 (佳太郎)
2015-02-21 10:26:03
こういうアルバムや書簡等は結構オークションに出てたりするようですね。そういったものを集めている人に聞きました。(直接ではないですが)
割と簡単に手に入るようですね。はたしてそれがよいかよくないかは判断しかねます。高値で取引されるのを良しとしない人もいるでしょうし、ホコリをかぶり朽ち果てていくよりはいいと思う人もいるでしょうね。
因みに私も先日、元軍人さんが所有していたと思われる本を古本のコーナーで買いました。特に何もない本でしたが…名前と階級、許可印が入っているくらいでした。そしてきれいなのでこの本読んだのかな?と思う状態でしたが…何かしら書き込みがあれば面白かったかなと…
まあ家宝であれば大切にしていてもらいたいですよね。
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戦艦と航空機の推定 (お節介船屋)
2015-02-21 14:14:45
伊勢第6主砲塔上から写真(大胆な推定 大正7年に観艦式があったのか探しましたが分かりません)
 本当に伊勢からだと日向(大正7年)。マストの上の通信用マストがもっと長いはずですが?
 山城、扶桑だと後部マストがもっと鮮明に写るはずです。
 右舷の戦艦群が遠くて推定できませんので間違いかもしれません。
 大正6年伊勢、7年日向就役し、扶桑、山城、伊勢、日向で第1戦隊を形成。
 大正8年の演習中「日向」は第3砲塔爆発で大正11年まで修理。前マストが複雑に改造されています。
 長門は大正9年に就役ですが前マストが就役時から複雑です。
 ヤードの位置が扶桑、山城はもう少し下に付いてます。 
 
航空機の機種
 特長のある機首から
  海軍であれば九五式陸上爆撃機
  陸軍であれば九三式重爆撃機または九三式双軽爆撃機と推定。
  海軍に居られたので九五式陸上爆撃機と思いたいですが生産機が8機、またエンジンカウリングが違います。事故で一度に5機失っており有名な九六式が生まれ、早期に引退しています。
 機首座のスリットとエンジンカウリングから九三式双軽爆と推定しますが、車輪の支柱が違うようですので間違っているかもしれません。

あくまでも私の推定ですので勘案下さい。
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古い写真見るの好きです (昭南島太郎)
2015-02-21 17:02:00
エリス中尉

古い写真見るの大好きで、実は毎日新聞社が発刊してました、別冊シリーズを中学か高校時代によく買ってました。
帝国海軍史、帝国陸軍史など色んなの買いました。なのでその当時では右翼少年と言われてましたが、海陸軍歴代大将の写真はよく眺めてましたので、私も大体わかりますよ。
特に故郷広島の生んだ首相で海軍大将の加藤友三郎、学校の先生が「ゆうざぶろう」と言うのを「ともさぶろう」に直したこともありましたね。

陸軍軍服姿の皇族宮ですが、お顔のかたちから三笠宮崇仁親王殿下ではないかと推察致します。
大学時代に小論文書くのに殿下のオリエント史の著書か論文を参考にさせて頂き崇仁親王殿下について興味を持たせて頂いた事があります。当時はグーグル先生もWikiもなく、色んな雑誌や新聞記事を探しまくり殿下の色んなお写真に触れました。

我が家の父方祖父の軍隊時代の写真で印象に残ってるのは京都16師団時代(と本人は言っていた)に背筋を伸ばし左手に軍刀を持って椅子に座っている祖父(しか覚えてない)。まあ、よくあるパターンの写真ですね。

貴重なアルバムですね。個人で保存は難しいのかもしれませんが、家宝として代々引き継いでいって欲しいです。

昭南島太郎
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檣楼(しょうろう) (Unknown)
2015-02-21 20:01:59
日本戦艦独特の前檣楼の言葉が出てこなくて前マストと書いてしまいました。
大正9年就役の長門から段々高く複雑な構造物となっていきました。

射撃指揮所、測距儀等が高い位置へと、アメリカ戦艦の篭マストと双璧をなす独特な構造物になっていきます。金剛型、扶桑型、伊勢型も単純なマストから檣楼へと大正、昭和と順次段々複雑なものへと改造されていきます。

写真の戦艦はまだそのようになっていません。
観艦式は大正8年に実施されている事がwikiで分かりましたが、参加艦艇は詳しくかいてありません。
一般市民が写っているので観艦式かなと思いますが移動式ではないはずなので?です。
観艦式であれば10月28日、「日向」は10月24日教練射撃で、3番砲塔右砲が砲身内から砲塔へ高温ガスが逆流し、砲塔内にあった空砲用弾に引火、爆発24名が殉職しています。(海軍艦艇史Ⅰ戦艦・巡洋戦艦福井静夫KKベストセラーズ)
そのため砲塔天蓋が吹き飛び大被害のため観艦式には参加していないものと思います。
観艦式であれば日向ではないとなります。

大正8年大演習帖等写真が市販されており、当時個人で写真撮影はあまりされていなくて、海軍ご用達の商店が撮影し、許可のうえ発売されていました。

現存する写真も横須賀、呉等で専門の写真商店があり、それらで撮られた写真が多くあります。

右舷側の戦艦群がもう少し鮮明であれば分かるかな?
言い訳です。降参、結論分かりません。
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観艦式ではないような (雷蔵)
2015-02-22 05:57:52
艦尾旗竿に軍艦旗が見えません。自衛隊も艦旗の取り扱いにはうるさいですが、海軍からの伝統なので揚げ忘れとは思えません。メインマスト(戦闘旗)に上がっているはずですが、観艦式は戦闘ではないので、今も昔も必ず艦尾に揚げます。

もう一つ観艦式だとこれはないな~と思ったのは、主砲に砲口栓(筒先のふた)がつけっぱなしです。

当時は何と言ったのかわかりませんが、今で言う「展示訓練」(一般の乗客を乗せた状態で訓練を見せる)のような気がしました。
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ほんとだ!! (エリス中尉)
2015-02-22 11:35:11
いやさすがは雷蔵さんですね。
現場で騒いでいた人たちも、誰一人として軍艦旗がないことに気がつきませんでした。
もちろんわたしもです(-。-;
最初に写真を一緒に見た人たちが「観艦式だよね」と騒いでいたことと、
甲板に一般人らしい人影が見えることからそうだと思い込んでいましたが・・・・。

となると、後ろの軍艦の選択肢は広くなるので、それならシルエットでわかる人もいるかもしれませんね。

それから昭南島太郎さん、三笠宮殿下ですねー。
特定するときに高松宮殿下という名前がまず出たのですが、海軍だし・・、と却下してしまいました。
改めてウィキを見たのですが、殿下は陸軍でコードネーム「若杉参謀」、
終戦前には東条英機暗殺事件にもかかわっていたということがあったようですね。
昭和天皇は戦時中、弟宮たちと実にいろいろな葛藤があったんだなあと改めて思います。
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Maybe (Kate)
2015-02-27 23:06:26
多分お山の大砲は24ミリ榴弾砲だと思います。
あと練習機の方は機首の銃座の形状から陸軍の
九三式一型双軽爆のように思えます。
御参考までに
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kateさま (エリス中尉)
2015-02-28 21:51:06
初めまして。
陸軍の練習機ですか。
お祖父さんという方は海軍の飛行隊でも訓練を受けているのですが、
その時の写真じゃない可能性もあるということでしょうか。
いずれにしてもこういった古い写真をあれこれ鑑定し合うのは楽しいですね。
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