ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

目黒・防衛省見学~「天空海闊」鈴木貫太郎

2013-08-15 | 海軍人物伝

防衛省エリアにある海自幹部学校所蔵の書、
鈴木貫太郎の

「天 空 海 闊」

これは、心が広々として度量が大きく 何のわだかまりもないことという意味です。
「海闊」は大海が広々としていることで、「天空」は空がからりと晴れ上がってどこまでも広いこと。
「闊」は「濶」とも書き、「海闊天空かいかつてんくう」とも言います。

鈴木貫太郎の書、というとわたしとしては思い出さずにはいられない話があります。


「鈴木貫太郎と安藤大尉」というエントリで扱った話で、
鈴木の居にしばしの対話を求めて訪れた2・26事件の首魁である安藤輝三大尉が、
鈴木の人格に触れこれに私淑し、所望した鈴木の揮毫を事件の日まで自宅に掛けていた、
というエピソードです。


このときに、鈴木はどのような書を揮毫し安藤大尉に与えたのでしょうか。

それはどこにも伝わっていませんが、安藤大尉が鈴木との面会後に同行者に言ったという

「鈴木閣下は、話に聞いたのと会って見たのとでは、大変な違いだ。
今日は実に愉快に、頭がサッパリした。ちょうど風呂に入って出たときのようだ」
「あの人(鈴木)は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」
(ウィキペディア)

という人物評は、鈴木がこの揮毫の表す文字そのものの人物であったということでもあります。



ところで、鈴木貫太郎についてのウィキペディア記事で、
鈴木が蜂起した陸軍の反乱軍にもう少しで暗殺されそうになった2・26事件の項に、
わたしは決定的な間違い(と思われる記述)を見つけてしまいました。

鈴木は午前5時頃に陸軍大尉・安藤輝三の指揮する一隊に襲撃される。
はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じた。
鈴木は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏した。

1、血の海になった八畳間に安藤が現れると、「中隊長殿、とどめを」と下士官の一人が促した。

2、安藤が軍刀を抜くと

部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかが

「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。

3、どうしても必要というならわたくしが致します


と気丈に言い放った。

4、安藤はうなずいて軍刀を収めると、

「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃(つつ)」と号令した。
そしてたかの前に進み、
「まことにお気の毒なことをいたしました。
われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、
国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、
女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げていった。

以上がウィキペディアの記述です。


わたしがかつてアップしたエントリによると

1.倒れた鈴木の生死の確認をしたのは下士官で、とどめをさしましょうか、
というのも下士官同士の会話である。

2.安藤は全く鈴木の前に姿を見せず、部下が鈴木を襲撃している間女中部屋にいた。

3.たかの証言によると、たかが命乞いをしたのは下士官に対してであって安藤ではない。
 次の間で拘束されていたたかは、その場から「止めはやめてください」と懇願し、
 これを聴いた下士官は対応に困って、初めて安藤を呼びに行っている。

4.安藤大尉は一度も鈴木に向かって刀を抜いていない。
 女中部屋にいて、部下に呼ばれて初めて鈴木の前に立ち、ただ
 「止めは残酷だからやめよ」といって捧げ銃を命じた。


ということになっています。

え?

ウィキペディアより自分のエントリを正しいと言い切るのか、って?
言い切りますともさ。
いや、それどころかどうしてウィキがこのように記述しているのかがまったくわかりません。
わたしは、自分のエントリに書いたこの時系列にかなり自信を持っています。

なぜなら、わたしが参考にした、この事件の模様は、ほかならぬ
鈴木貫太郎自身が、事件後水交会の講演で語ったことそのものであり、
これを文章に聞き書きしたのは、そのときに講演を聴いていた海軍軍人だからです

この文章はそのまま水交会が発行した「海軍の記録」という著書(一般書ではない)として、
図書館などでは見ることもできるはずなのですが・・・。


鈴木に私淑していた安藤大尉が、心ならずもその鈴木の命を取ることになったとき、
いかに逡巡し苦悩したかについてはもう余人の知るところではありません。
しかし、このとき、鈴木の前に姿を見せず、殺戮を部下に任せて自分は女中部屋にいたことを、
わたしはこの苦悩に因果付けて推理をしてみました。


もしウィキに書かれている

「中隊長殿、とどめを」

と下士官が言い、妻が命乞いをしたので安藤は鞘を納めた、というのが本当なら
たかが聞いたという、

「止めは残酷だからやめよ」

という安藤の言葉の意味が全く通らなくなってしまいます。
わたしはやはり、安藤大尉は最後まで鈴木と対峙するのを避けて
最後まで刀を抜くことが無かったとするこの記述が正しいと信じます。

鈴木は事件後、生死の境をさまよいましたが、治癒してこの講演を行うにあたり、
妻のたかからその時の状況を詳しくあらためて聞きだしたでしょう。
「止めは残酷だからやめよ」
という言葉が、間違って妻から伝えられる可能性は全くないのではないでしょうか。


そもそも、下士官たちが最後に安藤にとどめをさせようとした、となっていますが、
実際にそのような立場に追い込まれた安藤が、決行隊の指揮官として
止めをさすことを止めることなど、いくら妻が懇願したからと言ってできるものでしょうか。

実はわたしはこんな推理をしています。

安藤大尉の腹心の部下である下士官が安藤の苦悩を慮って、
自分たちだけで全てを行い安藤大尉の手を汚させまいと決めて決行に臨んだのではないか。
しかし、すべてを済ませたつもりが、とどめをさす段階で妻の命乞いがあった。
このため下士官だけではその後を決定できなくなり、
そこで初めて安藤大尉が呼ばれたのではなかったか。


というようなことですが、もし、ウィキペディアの記述が正しい、という資料をもしご存知の方がいたら、
ぜひご一報いただければ幸いに存じます。



さて。

鈴木はこの襲撃のあと、生死の境を彷徨いました。
タクシーで日本医大に運ばれた鈴木は出血多量で顔面蒼白となり、
意識を喪失し、心臓も一時停止しています。
総力を挙げて蘇生術が施され、その間妻のたかは枕元で鈴木に呼びかけ続けました。
腰、胸、肩(かすっただけ)そして頭に4発の銃弾を受けて、
しかもその頭への一発は頭蓋を貫通して耳の後ろから出ています。
これで死ななかったというのは奇跡以外の何物でもないでしょう。

頭部貫通した銃弾が脳をそれたこと、胸部も銃弾も心臓をわずかに逸れたこと、
このことと、たかの命乞いにより安藤が止めをささなかったことが鈴木を救いました。

ちなみに鈴木の命を救った夫人のたかですが、病死した前妻の後添えで、
乞われて昭和天皇、秩父宮、高松宮の皇孫御用掛(養育係)をしていたという女性です。
鈴木が何より昭和天皇の御信任篤かったのは、このこともあったと言われています。


鈴木貫太郎という人は、その生涯、2・26を含め二回の暗殺から九死に一生を得ています。
二回目が終戦の日、8月15日朝の宮城事件で、陸軍大尉・佐々木武雄を中心とする
国粋主義者達に総理官邸及び小石川の私邸を襲撃され、警護官に間一髪救い出されています。

このほかにも、3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、
海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたり。

もしかしたら、八百万の神はこの人物に、戦争の泥沼に陥った日本国を終戦に導く
役割を与えるために試練を与えては救いたもうたのではないかと思われるほどです。

事実、鈴木は何度も死の淵から帰ってきた自分の人生の最後の奉公として
終戦時の総理大臣を引き受けたと言われ、その就任の辞は

今日(こんにち)、私に大命が降下いたしました以上、
私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、
まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。
国民諸君は、私の屍を踏み越えて、
国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、
謹んで拝受いたしたのであります。

というものでした。

そして国運の打開のために鈴木が選んだ道は「終戦」だったのです。


最後の仕事を終えた鈴木は、戦後公職追放される形で表舞台から姿を消し、
終戦後3年目の昭和23年4月17日、肝臓がんで82歳の生涯を終えています。

日本を終戦に導き、もう戦火にまみえることもなくなった祖国を見届け、
人生最後の瞬間、鈴木の心は、信条たる「天空海闊」の境地にあることができたでしょうか。


死後荼毘にふされた鈴木の遺灰からは、2・26のときに受けた弾丸が出て来たということです。








最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。