先日いつものようにわんこと散歩に出ていると、
とある丁字路の角で、車を止めようとしている人と、近所の人が話をしており、
その時耳に入った言葉に妙に感動した。
それがこれ。
「先日そこに止められたといって警察が来ていたから、
裏の止められる所に止められるといいですよ。」
で、この言葉のどこに感動していたのかといいますと、
これ助動詞、「る」、「られる」の、
「受け身・可能・自発・尊敬」フルコンプやん!♪
というわけ。
(正しくは自発が入っておりませんが。)
そう、学生時代古文で学んだ知識が、はるか時を超え一気に脳内に広がったからなのです。
ですのでその後は先ほどの言葉を自分で口にしたりしてみたりしてにやにや♪
すると今度はこういうことを思うに。
そういや、「ら」抜き言葉を使用してなかったな…
「ら」抜き言葉とは、時折問題視される話し言葉で、
可能の意味に使用する際「ら」を略して発音する言い方で、
具体的には「止められる」なら「止めれる」という風に。
まあ確かにこれは文保的には間違いなんでしょうが、
先ほどのようなケースだと、意味の違う「止められる」が何度も繰り返されるよりも、
むしろ「とめれる」を使う方が、意味的にも、言葉の流れ的にもすっきりして分かり良いのではない?
「先日そこに止められたといって警察が来ていたから、
裏の止めれる所に止められるといいですよ。」
うん、絶対この方がしっくりくるし分かり良い。
そう考えると何かと批判されがちな「ら」抜き言葉も、
実は正当な変化というか進化の流れにある表現の一つなのではないかな?
少なくとも、「ら」抜き言葉の「止めれる」が正当と見なされれば、
その後の学生は「受け身、自発、尊敬」の3つのみを覚えればいいわけで負担が減るよね?
そんなことを考えながらぶらぶらとわんこと歩き、
あ!でも先ほどの言葉の中に「自発」がなかったなと気づいたので、
もし私が相手だったらこう返せば完璧であったな、などと思ったり。
「なるほど、ならばとその場所に止めらるる。」
*止めらるる→止めずにははいられない
とある丁字路の角で、車を止めようとしている人と、近所の人が話をしており、
その時耳に入った言葉に妙に感動した。
それがこれ。
「先日そこに止められたといって警察が来ていたから、
裏の止められる所に止められるといいですよ。」
で、この言葉のどこに感動していたのかといいますと、
これ助動詞、「る」、「られる」の、
「受け身・可能・自発・尊敬」フルコンプやん!♪
というわけ。
(正しくは自発が入っておりませんが。)
そう、学生時代古文で学んだ知識が、はるか時を超え一気に脳内に広がったからなのです。
ですのでその後は先ほどの言葉を自分で口にしたりしてみたりしてにやにや♪
すると今度はこういうことを思うに。
そういや、「ら」抜き言葉を使用してなかったな…
「ら」抜き言葉とは、時折問題視される話し言葉で、
可能の意味に使用する際「ら」を略して発音する言い方で、
具体的には「止められる」なら「止めれる」という風に。
まあ確かにこれは文保的には間違いなんでしょうが、
先ほどのようなケースだと、意味の違う「止められる」が何度も繰り返されるよりも、
むしろ「とめれる」を使う方が、意味的にも、言葉の流れ的にもすっきりして分かり良いのではない?
「先日そこに止められたといって警察が来ていたから、
裏の止めれる所に止められるといいですよ。」
うん、絶対この方がしっくりくるし分かり良い。
そう考えると何かと批判されがちな「ら」抜き言葉も、
実は正当な変化というか進化の流れにある表現の一つなのではないかな?
少なくとも、「ら」抜き言葉の「止めれる」が正当と見なされれば、
その後の学生は「受け身、自発、尊敬」の3つのみを覚えればいいわけで負担が減るよね?
そんなことを考えながらぶらぶらとわんこと歩き、
あ!でも先ほどの言葉の中に「自発」がなかったなと気づいたので、
もし私が相手だったらこう返せば完璧であったな、などと思ったり。
「なるほど、ならばとその場所に止めらるる。」
*止めらるる→止めずにははいられない