というわけで、膝の上で寝ている以蔵を見ると、
「ほんま大きくなって、生まれたときはこんなに小さかったのにな~。」
とつい思ってしまうのですが。
いやいやいや、違う違う!
以蔵の子犬時代なんて私は全く知らない!
だって、うちで生まれたのはぽちとかりんだけで、
他の子たちは皆、大きくなってから、いろんなところから引き取った子ばかり。
以蔵だって思い出せば、うちに来たのは一昨年で、
その時はすでに6歳になっていたから、
それからそんなに大きく成長しているはずがない!
(いや、実は結構ふとましく、ムチムチにはなっておりますが…)
でも、こうして膝に乗っている姿を見たら、つい先ほどのように思ってしまう。
実はこれ以蔵に限らず、ほかのすべての子たちについても同じ。
子犬時代を知るはずもないのに、
つい、「立派になって…。しっかりして…。」と思ってしまう。
なんというのかな?
その、実際にいる時間の長さとは関係なく、
なんだかすごく長く一緒に時を過ごしている気がする。
これは、過去にいた子たちもみな同じだったし、
それどころか、旅立って行ってしまった後ですら、
その時点で時が止まり、まだなんだか一緒にいる気がしていることもよくあるのです。
だから時おり私が、
「○○は本当に可愛かったな~。」
と口に出しているときは、思い出し懐かしがっているだけでなく、
本気で今現在もかわいいと感じているのです。
つまりそれは、今こうして膝に乗っている以蔵や、
家で留守番している、ぽち、かりん、プー、なな、チップ、ポコ、
そして足元に転がっている、ムクやジョイに対して感じているときとまったく変わりはありません。
ということは…
この場合、あの子たちがいなくなっても、こうして感じれるということは、
それはつまり、「一緒にいる」のとほぼ同じと考えてもいいのではないでしょうか?
よく別れの際に、「いつか必ず会えるから、しばらく先に待ってってね。」とは言いますが、
このように感じることができるなら、それまで待たずともすむのではないでしょうか?
つまりそれは、
「いつも一緒、いつまでも一緒。」
ということ。
こう思えれば、本当にそれは幸せなことだろうなと思いませんか?
ただし、今までの話は言い換えれば
「いつもそばにいても、その存在を気にかけないのなら、それはいないのと同じ。」
という風にも言えます。
つまり、今あるその存在のありがたみを感じることができて初めて、
そののちに「一緒という幸せ」を感じれるはずだとも思います。
状況が重要なのではなく、感じ方、考え方こそが重要なんですね。
そういうわけで…
今日家に帰ったら、ぜひ愛犬(猫他すべて・人も含む)の頭をなでてあげてください。
多分それだけで少し得した気分になれるし、
何より相手はすごく嬉しく感じるはずですから。
「だから私も一緒にいますよ。」 ラン
「ほんま大きくなって、生まれたときはこんなに小さかったのにな~。」
とつい思ってしまうのですが。
いやいやいや、違う違う!
以蔵の子犬時代なんて私は全く知らない!
だって、うちで生まれたのはぽちとかりんだけで、
他の子たちは皆、大きくなってから、いろんなところから引き取った子ばかり。
以蔵だって思い出せば、うちに来たのは一昨年で、
その時はすでに6歳になっていたから、
それからそんなに大きく成長しているはずがない!
(いや、実は結構ふとましく、ムチムチにはなっておりますが…)
でも、こうして膝に乗っている姿を見たら、つい先ほどのように思ってしまう。
実はこれ以蔵に限らず、ほかのすべての子たちについても同じ。
子犬時代を知るはずもないのに、
つい、「立派になって…。しっかりして…。」と思ってしまう。
なんというのかな?
その、実際にいる時間の長さとは関係なく、
なんだかすごく長く一緒に時を過ごしている気がする。
これは、過去にいた子たちもみな同じだったし、
それどころか、旅立って行ってしまった後ですら、
その時点で時が止まり、まだなんだか一緒にいる気がしていることもよくあるのです。
だから時おり私が、
「○○は本当に可愛かったな~。」
と口に出しているときは、思い出し懐かしがっているだけでなく、
本気で今現在もかわいいと感じているのです。
つまりそれは、今こうして膝に乗っている以蔵や、
家で留守番している、ぽち、かりん、プー、なな、チップ、ポコ、
そして足元に転がっている、ムクやジョイに対して感じているときとまったく変わりはありません。
ということは…
この場合、あの子たちがいなくなっても、こうして感じれるということは、
それはつまり、「一緒にいる」のとほぼ同じと考えてもいいのではないでしょうか?
よく別れの際に、「いつか必ず会えるから、しばらく先に待ってってね。」とは言いますが、
このように感じることができるなら、それまで待たずともすむのではないでしょうか?
つまりそれは、
「いつも一緒、いつまでも一緒。」
ということ。
こう思えれば、本当にそれは幸せなことだろうなと思いませんか?
ただし、今までの話は言い換えれば
「いつもそばにいても、その存在を気にかけないのなら、それはいないのと同じ。」
という風にも言えます。
つまり、今あるその存在のありがたみを感じることができて初めて、
そののちに「一緒という幸せ」を感じれるはずだとも思います。
状況が重要なのではなく、感じ方、考え方こそが重要なんですね。
そういうわけで…
今日家に帰ったら、ぜひ愛犬(猫他すべて・人も含む)の頭をなでてあげてください。
多分それだけで少し得した気分になれるし、
何より相手はすごく嬉しく感じるはずですから。
「だから私も一緒にいますよ。」 ラン