راه(ラーフ)
1979年2月11日。
その日、テヘランの街中は異様な熱気に包まれていた。
イラン最後の王朝が終焉を迎えた日、そしてイスラーム革命が起こった日として人々に記憶される。
度を過ぎた近代化(西洋化)政策を推し進め、独裁制(極端に言えば、アメリカの傀儡政権とも言える)を強いていたイラン最後の王、モハンマド・レザー・パフラヴィーの時代が終わり、ホメイニー氏を最高指導者に掲げ、イスラーム法に基づく統治体制が始まった日である。その日以来、イランはそれまでの中東屈指の近代化路線にストップをかけ、全く別の道(ラーフ)を歩み始める。
今年はそのイラン・イスラーム革命から30年を数える。
その間、イランが国際社会においてどのような道を歩んできたか、対外的に如何なる国と見做されてきたかは、国際報道に敏感な方ならご存知のとおりである。
より良い社会を目指して革命に立ち上がった人々が、現在目の当たりにしている社会は、決して理想通りのものではない。
現在、テヘラン大学が位置するエンゲラーブ通り(革命通り)では、反アメリカ(反イスラエル)を謳い強硬派がデモ行進を繰り返す一方、「自由」を求める学生たちが声を上げる。
テヘランには、イランの近現代史を見守ってきた曰くつきの通りがいくつもあるが、中でもエンゲラーブ通りは、イランの歴史を象徴するとも言える通りである。
実際、テヘランを走る通りの名ほど、時代によって、また政権によって左右されてきたものはない。
上記のエンゲラーブ通りの革命前の名は、パフラヴィー王朝第一代のシャー(王)、レザー・シャーの名を冠していた。同様に、テヘランの南の端から北の端までを縦断しているこの街を象徴する大通りの名は、現在は「ヴァリー・アスル」であるが、革命前は「パフラヴィー」だった。ちなみに「ヴァリー・アスル」とは、「時代の主」の意で、イランの国教12イマーム派の第12代イマーム(現在はお隠れの状態で、救世主として再来すると信じられている)マフディーのことである。この通りは、パフラヴィー通りになる以前は、イランの石油を国有化した、時の首相モサデクの名を冠していた。モハンマド・レザー・シャーに対抗したモサデクは、イギリスとアメリカCIAの干渉により、転覆の運命を辿る。
いずれにしろ20世紀、この大通りは、モサデク→パフラヴィー→ヴァリー・アスルと、目まぐるしく名称を変えていった。
通りの名称変更は、国内だけの問題ではない。
2004年には、エジプトとの国交の回復を狙い、かつてエジプトのサダト大統領を暗殺した人物の名を冠していた「ハレド・イスランブーリ」通りの名を「インティファーダ」に変更することがイラン国会で合議を得、見返りとしてエジプト側も、かつてイスラーム革命時にエジプトに追放されていたシャーに因み付けられたカイロの「パフラヴィー」通りの名称の変更に合意した、というニュースが駆け巡った。
テヘランの街中を歩く時、通りや広場の名称を注意深く観察すると、自ずと時代の足跡が浮かんでくるようでおもしろい。
イランを訪れる機会がある方は、「散歩」の最中にふと立ち止まり、革命の足音、人々のざわめきに耳を澄ましてみてはどうだろうか。形としては現れないイランの現在形が見えてくることだろう。(m)
*沙漠の轍の道アラビア語 ・全ての道はローマへ続くイタリア語 ・「道」と「通り」の違いはペルシャ語と同じ英語 ・マラトンへの伝令の道ギリシャ語 ・花と白壁の小径スペイン語 ・郷愁の路地と宿場街道日本語 ・赤い煉瓦と石畳の小路ポルトガル語
ペルシャ語で、「道」は「ラーフ」、通りは「ヒヤバーン」、路地は「クーチェ」と、それぞれ別の名称が存在します。人との出逢いが旅の醍醐味の私にとってはもちろん、「ヒヤバーン」でなく「クーチェ」歩きがお気に入り。『地球散歩』の途中クーチェに迷った後は、応援クリックをお願いします。
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暗殺者の名前からとった道路名が自分の家の住所だったら悲しいですね。国の英雄ですから、名誉なことだという認識になるんでしょうが、死や血をイメージする名称は嫌です。
以前、イラン人に日本の住所の仕組みを訪ねられ、理解してもらうのがほんの少し困難だったことを思い出しました。
暗殺者の名前が自分の住むエリアの名前だったら・・。確かに暗い気持ちになってしまいそうです。何が名誉かという感覚も国によってずいぶんと違うなあと感じる今日この頃。
話はずれますが、本文中には書かなかったことでもうひとつ。イラン革命前には多くの通りや広場にアメリカの大統領等に名前が付いていました。ケネディはその代表なのですが、その名前で親しまれていたため、その後名前を変えて覚えてもらうのが困難だったようです。
とはいっても、ダイヤモンドは最低2カラットはないとダイヤと呼べない、とか革命の際は、家財道具をペルシャ絨毯でくるんで日本に送ったとか、御伽噺のような話ばかりでしたが。
そんな特権階級がいたのが、ほんの30年ほど前というイランという国を理解するのは、一介の日本人旅行者にとってはなかなか難しいですね。
イランの歴史、恥ずかしながら全く知りませんでしたが、少しだけ理解できた気がします。
何が名誉か、何が正義かは、例えばその人の信念や国や生まれた時代によって変容するもの…もっと細かく言えば、個人によって異なるものなのかなって感じています。
そう突き詰めていくと、私たちが共有できることって、意外に最も単純でシンプルなことなのかもしれないなって思います。
お伽話のようで現実の話、それが革命なんだろうなあと思います。Ginaさんが聞かれた話は非現実的でありつつも、とてもイラン的なエピソードですね。
それにしても、彼らにとっては現実世界が一気に180℃変わってしまったわけですから、精神的負担も如何ばかりだったかと・・・。
実際、今自分と近い年齢の人たちが、思春期に革命を経験していて、そういった人たちの話を聞いていると、自分と比べて精神構造が何倍も大人であって驚かされることがあります。ふたつの世界を経験したばかりに背負わされたものも大きく・・・。
旅行からだけでは見えてこないものを幾ばくかでも伝える機会を私自身がもてたらなあと・・・これ、私の小さな野望(笑)です。
まさにyuuさんがおっしゃるとおりなのだと思います。「正義」や正しいとされていることは、時代によってずいぶんと違い、そしてあまりにも個人的なことだと思うのです。その中で、共有できる物事を見つめていくことの困難さを日々感じています。でも、それもyuuさんがおっしゃるとおり案外シンプルなものであるのかもしれませんね。海外に住まれた経験があるyuuさんだからこそ、実感できることがたくさんあるんだろうなと思います。これからも、いろいろヒントをくださいね。
イタリアではどの町にも、イタリア大通り、ヴィットーリオ・エマヌエーレ通り(最後の王)、ガリバルディ通り(革命家)、ローマ通りがありますが、ムッソリーニはない気がします。ファシスト時代の負のイメージはやはり持ちたくないのでしょう。作曲家の名前も一般的で、ナポリには大好きなアレッサンドロ・スカルラッティ(有名なドメニコの父)通りがあり、あそこに住めたらなんて素敵な住所になるのかしら!と思ったりします。
日本の道に人の名前が採用されていたら、どうなっていたでしょうね。
イランにムッソリーニのような人物は近代ではいませんが、もし同じような人物が居たら・・・、その人の名前が通りの名になっていた可能性も十分にあるなあと思ってしまいました。日本の道にはそういえば、不思議なことに人の名前って聞かないですね~。
作曲家の名前が通りにつけられているのも、イタリアらしくて素敵ですね。スカルラッティ通り!そんな場所に住んだら住所を人に教えるのが自慢になりそうです。hyblaさん、いずれそこの住民になれるといいですね(笑)。