ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

カフェ

2006年10月05日 | Weblog
以前にも登場したが、お気に入りのカフェが松本にあ
る。
目の前にセーヌ川(実際は女鳥羽川、メトバ川という
ちょっと風情のある名前の川)が流れていて、テラス
でまったりには最適のカフェ。
ただ、このカフェの名前があまりに難しい(日本人に
は)。
「Au crieur de vin」
これを見ただけで、すんなり読める人が一体どれほど
いるだろうか。
日本語表記は、オ.クリヨー.ド.ヴァン。
やはり、難しい。
意味は、「ワイン売りへ」なのか「の」なのか、今ひ
とつ分からない。
Auをどういう風に訳せば良いのか(Qさんお願いし
ます)。

そんな、純フレンチスタイルのカフェが、こういう場
所にあること事体が不思議なのだが(こちらとしては
喜ばしい)、地元に根付くかどうかが興味のあるとこ
ろだ。

フランスなんかでは、カフェ文化というものがしっか
り根付いている。
日々の暮らしの中に、カフェで一杯というのが組み込
まれている。
そこは、コミュニケーションの場であり、くつろぎの
場だ。
そして、日本とは大きく違うのがテラスの存在。
このテラスがあるのと無いのでは、カフェの意味合い
も大きく変わる。

内と外の境界線が消滅する場所がテラスだ。
つまり、内であり外であるテラスがあることによって、
カフェそのものが開かれたものになり、自由な交流の
場となる。
日本の場合だと、喫茶店、純喫茶、どれも閉じた空間
というイメージだ。
最近の、アメリカ風のカフェはそういう閉じた感じは
無いが、効率的なだけで、交流のイメージも無い。
で、結局日本の場合は、常連さんがたむろしている喫
茶店、内内だけで仲良し子よしのスナック文化が中心
となる。

だから、まだまだカフェ文化に慣れてない日本人は、
都会のおしゃれな場所にあるカフェを除いて(ここは
ここでテラスに座って演じようとする人間がいる)、
なかなかテラスに座ろうとしない。
他人の視線が気になるのだ。
田舎ほどそういうものが気になるから、当然と言えば
当然なのだが、考えてみれば日本にも、かつてテラス
に相当する場があった。
縁側だ。
縁側文化とカフェ文化。
誰か、本にしてそうな題材だ。
微かに聞いた事あるような気もする。
縁側の消滅とともに、テラスが増えていく。
新たな交流の場の出現。
どうなんだろうね。
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