『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

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『みちしるべ』赤い夕陽(3)**青い表紙の文庫本**<2012.9. Vol.74>

2012年09月03日 | 赤い夕陽

青い表紙の文庫本(赤い夕陽 3)

三橋雅子

 1945年8月。日本は戦争に負けた。当時、旧満州の首都・新京(現・長春)にいた者にとって、この、日本の生命線と言われた満州が今や戦勝国の手中にあって、どんな扱いを受けるのかさっぱり分からなかったに違いない。頼みの綱であった「最強」の関東軍は、9日のソ連の宣戦布告後、無条件降伏の敗戦宣言を待たずに同胞を棄民してこっそり逃げてしまった。戦勝国ソ連とは、一体どんな格好で進駐してきて、どんなことをするのだろう?「負けたことがない日本」はまったく分からない。恐怖と、好奇心が拮抗していたようである。

 その進駐の様子で真っ先に驚いたのは、ソ連兵が真夏とはいえ肌が見える、軍服とはいえないぼろぼろの、ほとんど裸に近いナリだったこと。その、垂れ下がるぼろの軍服の破片が何色だったかは覚えがない。日本のそれのカ-キー色ではなく、グリーン系であったように思うが、それもダークだか、ライトだか汚れきってぶら下がっているのだから、そもそも元を知れるわけはない。記憶はあいまいなもの、特に色の記憶は、と言われるし。

 彼らはドイツ戦線からその年5月のドイツ敗北後、駐留軍として留まり、そのまま帰国途上、満州に寄らされた部隊だという。もう身も心も着る物も、ただただボロボロだったらしい。あれが戦勝国?とその恰好はなんとも滑稽な風景だったと大人たちは笑った。

 先ず最初に現れたのは囚人部隊。傀儡国家、満州国の首都、新京に進駐して来るには、どんな応戦が待っているか?「泣く子も黙る」関東軍が、それなりの抵抗を試みることが予想されたのかもしれない(現に北満では些細ながら交戦があった)。サッサと逃げてくれたのが、新京を戦禍に巻き込まなかった、という結果をもって、関東軍は賢かった、という人がいるが、私は許さない。そういう意図があったなら、なぜ我々をだまし討ち同然の態で混乱のるつぼに放り出し、こそこそと自分たちの保全だけを図り、しかも自分らの財産の守りだけはしっかりやって、同胞を棄民したのか、許せない。

 その「戦勝国」ソ連の、裸同然の部隊が瞬く間にバリッとしたぴかぴかの軍服姿に変わった。何となく袖もズボンもツンツルテンでおかしいのは、日本の関東軍被服庫ですべてを賄ったらしいと、大人たちは笑った。しかしそんな風景を笑っていられたのはつかの間のこと。前にも挙げた半藤一利の『ソ連が満州に侵攻した夏』に「戦争史上稀にみる残忍非道な戦勝国の暴虐」と書かれている情景がまもなく繰り広げられる。

 始めは街頭で追剥に遭うくらいのものだった。散歩好きで何かと外の様子を見に出かける父は、始終身ぐるみ剥がれてステテコ一枚で帰ってきた。知人は娘を連れて行くと良いと言う。剥がれそうになったら娘がギャーッと泣く、イッパツでロスケは解放してくれるよ、と。子供には弱いのだ。4年生の私は、そのお嬢さんより小さいからもってこいだ、と外出のお供をすることになった。向こうから何か物色しながらソ連兵が近づいてきて、指をヒコヒコさせると、父のポケットをまさぐり始める。今だ、と思うが私は泣き声が出なかった。恐怖でではない。なんだ、無礼なやつ!と思い切り蹴飛ばしたくなるが、ウェーンと嘘泣きをすることができない。今度は演技ができるかな?と数回試みたが、どうしても私は泣いて「こわいよー」という振りをしたり、慈悲を乞うことができなかった。しかし一人の時より明らかに凶暴さが違うらしくて、父はこれでいいんだ、いいんだ、と言って相変わらず私を外出のお供にした。命には別条なくても、被害は受けるのである。子供ごころに不甲斐なかった。

 ふと、書庫の隅から、兄が使ったのか、青い表紙の「ロシヤ語会話」と言う本を見つけた。めくってみると、さっぱり見たこともない、おかしな形のロシア文字らしいが、いちいち片仮名が振ってある。これだ!と嬉しくなって、外出のお供にした。向こうからソ連兵が、きょろきょろと物欲しげな視線を泳がせて近づいてくる。父に向かい合った時、今だ!と私は「こんにちは」のところに書いてある「ズドラーストヴイチェ」を、一音づつ区切るように声に出した。聞いたこともない言葉である。片仮名の通り読むしかない。ソ連兵は戸惑った風に、ちょっと怪訝な面持ちをしたが、すぐに「ダ、ダ(yes,yes)、ズドラースチェ」と軽やかに言って、にっこり笑いそのまま立ち去った。なるほど、そういう風に発音するんだな、と私は「役に立った」ことより、「通じた」こと、こちらの発信に何らかの反応を示してくれた、と言うことが嬉しくて嬉しくて「ズドラースチェ」を真似して繰り返した。それからは「楽しい散歩」である。出かけるたびに私は、「ズドラースチェ」で相手をにっこりさせ、「スパシーボ」「ダ・スビダーニヤ」と新しい単語を試してみた。スパシーボは、何も被害を受けなかったことへのお礼のつもりのthank you。ダ・スビダーニヤは、つかの間の接触とはいえ手を振って、「またね」とは決して思わないけどgood-bye。効果の程は、ほぼばっちり、向こうも正々堂々でやっている行為ではない、出鼻をくじかれると、大体は未遂の放免だった。こちらがかなわないのは、たいていは喜んで抱き上げられ、やたらその辺にキスをされて顔中べとべとになることだったが、この位なら我慢できる範囲だ。泣き真似よりましだった。まして、私のロシヤ語まがいの前で追剥が展開されることはなかった。かくて、この青い表紙の文庫版の冊子は、後々まで私の肌身離さずの貴重品となる。

 この時期あたりまでは、まだまだ「戦争史上稀にみる残忍非道な戦勝国の暴虐」には至らなかった。大人たちが抱える「この先どうなる?」の不安はひしひしと伝わってはきたが、まだ、沈んでいく真っ赤な太陽を屈託なく眺めることができた。

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