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『みちしるべ』 by 阪神間道路問題ネットワーク

1999年9月創刊。≪阪神道路問題ネット≫交流誌のブログ版。『目次』のカテゴリーからの検索が便利。お知らせなども掲載。

『みちしるべ』**兵庫県空気の汚れ調査結果報告①**<2017.7.&9.&11. Vol.98>

2017年11月19日 | 山川泰宏

兵庫県空気の汚れ調査結果報告①

 甲陽線地下化を考える市民ネットワーク(通称=甲ネット)
事務局長 山川 泰宏

 2015年度 測定期間 : 2015(平成27)年6月11日(木)~12日(金)24時間

カプセル
番号

NO2濃度
(ppb)

  測定場所

備考

C-6

1

15

西宮市名次町5-22 建石線交差点FM前

 

C-6

2

27

西宮市結善町1-24 山本清記念館前

 

C-6

3

16

西宮市甲陽園日ノ出町6-56マンションクオリス

 

C-6

4

9

西宮市北名次町 夙川夢保育園前

 

C-6

5

16

阪急苦楽園駅前西出口 FUKUI酒店前 

 

C-6

6

12

西宮市北名次町2 岩野宅前

 

C-6

7

38

西宮市北名次町8 苦楽園橋東南の信号機

 

C-6

8

15

北夙川橋東南 街路灯

 

C-6

9

16

西宮市甲陽園山王町1番地 丹兵橋

 

C-6

10

9

西宮市甲陽園山王町太子道交差点

 

C-6

11

9

西宮市名次町 名次神社前

 

C-6

12

10

西宮市神原4番地神原小学校校門前

 

C-6

13

16

西宮市甲陽園本庄町 大池公園北時計台

 

C-6

14

20

広田神社前 バス停

 

C-6

15

9

西宮市満知谷 ニテコ池北

 

C-6

16

8

西宮市甲陽園本庄町2 大池南公園前

 

C-6

17

12

西宮市甲陽園本庄町4 碧ハイツ前

 

C-6

18

20

西宮市甲陽園本庄町  日商岩井マンション前

 

C-6

19

18

西宮市甲陽園本庄町 甲陽園小正門前

 

C-6

20

17

西宮市甲陽園本庄町 甲陽園幼稚園

 

C-6

21

8

西宮市甲陽園若江町5

 

C-6

22

9

西宮市甲陽園本庄町 阪急甲陽園駅前

 

C-6

23

8

西宮市甲陽園若江町 赤松ダンス教室前

 

C-6

24

10

西宮市甲陽園若江町 阪急水道路踏切

 

C-6

25

23

西宮市都市計画道路 夙川学園正門前

 

C-6

26

13

西宮市神園町1番地

 

C-6

27

20

西宮市阪急甲陽園線六甲道踏切

 

C-6

28

13

西宮市神原 大社中学校正門前バス道

 

C-6

29

9

西宮市北名次町11番地なつぎ薬局前

 

C-6

30

10

西宮市北名次町 阪急甲陽道踏切

 

C-6

31

13

西宮市新甲陽町 ナカスミカダン前

 

C-6

32

17

西宮市神原15-57 リバーサイド甲陽園

 

C-6

33

12

西宮市神原14 神原住宅ゴミ置き場

紛失

C-6

34

20

西宮市奥畑8 石常竹田石材店前

 

C-6

35

24

西宮市大社町 関西スーパー大社店

 

C-6

36

14

西宮市新甲陽町9番地

 

C-6

37

13

西宮市西山町 つまがり駐車場前

 

C-6

38

12

西宮市大社町 指月電機社屋前

 

C-6

39

8

西宮市新甲陽町10 反射鏡323番

 

C-6

40

14

西宮市甲陽園本庄町6-50 グランドハイツ甲陽園

 

2016年度はこちら

2017年度はこちら

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『みちしるべ』**お手紙 吉田祥子様へ**<2017.1. Vol.96>

2017年02月24日 | 山川泰宏

お手紙 吉田祥子様へ

2016(平成28)年10月28日

吉田 祥子 様

神戸・心絆(神戸・市民交流会改め)
 会長 山川 泰宏

拝啓 吹き渡る風に冬を思わせる木枯らしの到来を感じる今日この頃です。

 本日はご丁寧なるお手紙と故吉田巧充さんの田圃を引き継いで耕し、美味しいお米をお送りくださりありがとうございます。

 妻泰子が天国に旅立ち、121日目を迎え独り身の寂しさを感じています。

 2015年10月定期的な血液検査CA19-9の異常な値が所見され、20年前の卵巣がん、10年前の乳がんからの転移かと心配しながら兵庫医科大学病院に検査入院、結果は膵臓がんで膵臓の腫瘍は2.0センチ、肝臓に1個の転移が告げられ、ステージⅣbの原発で手術はできませんと医師の冷たく冷酷なる言葉のあと、抗がん剤投与しかないと告げられました。

 妻と二人で医師の告知を受け、余命3ケ月から1年半と告げられ信じられない状況でした。抗がん剤投与の兵庫医科大学通院治療を経て、第8クール直前の5月31日、腹痛を訴へかかりつけ医の紹介状をもって、自宅によらず病院からタクシーで急遽、兵庫医科大学病院に再検査入院でした。その入院から31日目6月22日に急激に病変悪化し、主治医から近しい人に連絡を告げられ苦しみながらも長男、長女そして私に看取られての、78歳の早い生涯を閉じたのは、6月30日(木)午前9時54分痛みから解放され発症から8ケ月で神のそばに旅立ちました。豊中教会の主管牧師竹元芳則先生に連絡するも、10時50頃病院に到着、臨終の時間に間に合いませんでしたが、臨終の祈りを捧げていただき感謝です。

 葬儀は泰子の奏楽者として奉仕の信仰する日本福音ルーテル豊中教会で執行手続きをしました。主日礼拝の関係もあり、自宅マンションに遺体を30日から7月3日まで4日間安置、自宅で多くの人たちのお別れをしていただき、自分の終の棲家で荼毘の日まで腹を痛めた子供たちに囲まれた最後を送る幸せをかみしめながらの時を過ごしたと信じます。

 神戸・市民交流会の南野、呉の助け人もすい臓がんで見送り、故大嶋会長も癌でなくなり、巧充さんを病床に見舞いした南野も同じ膵癌でした。

 昨年10月泰子の膵癌で1月17日の追悼行事から少し手控えますと誓い、神戸・市民交流会の解散を決断し、妻、泰子と余生を楽しもうと考えましたが夢のまた夢でした。

 思えば膵癌に罹り2016年8月の宮城県名取市閖上地区の愛島東部住宅への追悼行事へは心の中で辞退すると泰子に伝えていました。しかし、思えば19年間のボランティア活動を共に裏方で支えてくれた愛しき泰子は6月30日の逝去は彼女の最後の優しさであったのかと涙が溢れてしまいます。

 2017年1月17日東遊園地で開催の「1.17つどい」での23年目の竹灯籠の追悼行事は神戸・心絆が引き継ぎ、多くの仲間たち、地域の支援者たちのやりがいの為、引き続き関わり、東遊園地のあの場所を聖地と願う市民の心の拠り所、そして希望の灯りを一人一人の胸に灯す活動をすることで、亡き泰子に伝えるつもりです。

 長くなりましたが、最後に京丹後の皆様一人一人や多くの支援の一人一人に感謝します。皆々様のご健康とご多幸をお祈りしつつお礼の言葉とさせていただきます。

 主イエス・キリストの恵みと平安を祈ります。アーメン!                               

在主平安 山川泰宏・泰子

敬具

注) 本文中のお名前は、筆者と奥様のみ実名で、他の方々は総て仮名とさせて頂きました。《編集者;合掌》

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『みちしるべ』**東日本大震災支援バスによる 名取市閖上地区 愛島東部団地訪問記**<2016.11. Vol.95>

2016年11月01日 | 山川泰宏

東日本大震災支援バスによる名取市閖上(ゆりあげ)地区愛島(めでしま)東部団地訪問記

2016(平成28)年8月20日

神戸・心絆(ここな) 会長 山川泰宏

 東日本大震災から5年5ヶ月の歳月が過ぎ、愛島東部団地 全理事会長 遠藤一雄さんとの約束でした、3月・8月の心の支援の時が再び訪れました。本来ならば、震災から5年5ヶ月が過ぎ、仮設住宅解消のニュースが聞こえるはずでした。名取市閖上地区の多くの被災者が暮らす、東部仮設団地や箱崎団地などでは、いまだ解消の目途さえ立ち行かない状況でした。

 神戸・市民交流会の事務局長として、初めて閖上地区の閖上中学校に「神戸の1.17の竹灯籠」を持ち込んで、追悼行事に参加させていただいたのは、2012年3月11日でした。春、未だ遠い季節、雪、霙(みぞれ)交じりの悪天候の中、閖上中学校のグランドは津波の持ち込んだヘドロ状況のまま。そして津波に流された漁船が2隻横たわり、周辺はまだ瓦礫の山が彼方此方に山となす。人々の暮らしていた住居は土台のみ、残る家々も廃墟のまま。多くの他県応援市民ボランティアの皆様とともに、開催できた第1回目の追悼行事でした。

 震災から3年目、2013年3月11日の命日はすさまじい強風。多くのボランティアが並べた絵灯篭や竹灯籠で作る【絆】は、予定したグランドから撤退を余儀なくされ、風よけした校舎入り口の時計台のある場所で小さな灯りが灯されました。

 折からこの場所に見えた遠藤自治会長と、初対面の山川が神戸の竹灯籠とローソクを遠藤氏に手渡したのが、愛島東部住宅との竹灯籠の交流の始まりでした。2013年8月のお盆追悼行事に初めて竹灯籠を持参するにあたり、愛島東部住宅関係での犠牲者のご尊名を書いた竹灯籠を持参させてくださいと申し入れました。その際、遠藤自治会長や橋渡ししてくださった、故喜多山了さんとの交わり。それが、明日への希望と勇気につながる追悼行事の産声の始まりだと私は信じています。

 毎年、ボランティア活動に参加しながら、齢78歳の老人になりました。仮設の皆様も年老いてゆく中で、兵庫の地から参加させていただく私たちと、心からの強い絆がまかれているように感じます。ボランティアとは、多くの市民に力を貸す作業をするのが生業です。愛島東部住宅で開催する交流会も、忘れてはならないひと時の時間の流れが、そこに存在しています。

 今回の訪問で、取材したテレビ放映が交流会の中に流れた時、この人たちと共に分ち合ってできた体験が、主催者や参加者に、多くの素晴らしい希望の灯りと、心の繫がりが芽生えたと信じています。

 今回、5年5ヶ月の名取市閖上地区復興状況の説明を受けました。東日本大震災で岩手県、宮城県、福島県(原発事故の地域を除く)の、被災地の復興状況には温度差を著しく感じます。閖上地区においては前名取市長と住民間の話し合いがこじれ、復興住宅への完全移行はあと数年かかるようです。

 一部、愛島東部住宅の住民の復興住宅への転居が済んだ方もいるが、遅々として進まない復興住宅問題。目に見えないところで、東京オリンピックの誘致に伴う、建設資材の高騰、建設労務者の人手不足、そしてオリンピック誘致の建設業者の東京中心等々。政権の「復興を加速します」との甘言が、絵に描いた餅のように感じるのは自分だけでしょうか?

 テレビや新聞報道は、被災地のすべてを網羅して、国民に知らせているとは信じないほうが良いです。今、報道に必要なのは被災地の5年5ヶ月の遅々として進まぬ現実です。

 津波被害から国民を守りますと、多くの震災防災関係の先生方が決め、東日本に巨大な堤防を構築し、挙句の果て、人間生活を断念させたような巨大堤防。大手建設業者は一人勝ちで被災地を離れます。残された多くの被災者や市民はどうなるのでしょう?広大な太平洋の恩恵を、人は受け入れ海の幸を生活の糧としています。津波が怖いのは事実です。しかし、自然に逆らわずに生活するすべを、もっと大切にした国づくりこそ、今求められているのではないでしょうか?

 今、東日本被災地の美しい海岸線が、人の命を守るといわれる定義で自然破壊をしつつある現状を見ると何故か悲しく、あの砂浜の一つ一つが鳴き声を上げているように感じます。

 津波は恐ろしい自然災害です。しかし、人間の勝手で自然の恐ろしさを受け入れなかった人々や、もっと思慮深く考える学者と呼ばれる人たちに、思案してもらいたかったと思います。

∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵

 宮城県名取市閖上地区 愛島東部住宅への訪問への活動は、「ひょうごボランタリープラザ」(主催)、「神戸(こうべ)・心(ここ)絆(な)(旧 神戸市民交流会を山川泰宏が引き継いで開催)」(協賛)で行っています。

 参加者は、「ひょうごボランタリープラザ」から鬼本所長・市橋副部長・遠藤・川上・高橋の各氏。「神戸・心絆」から山川他8名。一般募集ボランティアは40名(17歳~78歳)。

 東日本大震災支援バス(観光バス2台)2016年8月14~17日の予定を以下に示します。

第1日 2016年8月14日(日)

17:30 神戸クリスタルタワー出発
18:00 摩耶埠頭公園<竹灯籠・ローソクの積み込み> 一路宮城県名取市へ

第2日 2016年8月15日(月)

07:00 宮城県菅生PA到着 各自朝食 対応
08:30 名取市閖上地区 日和山公園 語り部
10:00 名取市「愛島東部住宅」到着 宮城県名取市愛島笠島西小泉68

【追悼行事支援活動等】

一部 14:00~15:00(14:46 黙祷 竹灯籠の謂れと発声 山川泰宏)
二部 17:00~18:30(18:00 祈り 東日本大震災津波犠牲者 山川・鬼本・高橋
今回持参した竹灯籠311本 兵庫県佐用町南光竹づくりグループの協力です。

【交 流 会】

18:30~20:00
20:30 宿舎ユニサイト仙台到着 宮城県仙台市青葉区中央4-2-3

第3日目  2016年8月16日(火)

08:45 宿舎出発(仙台市内の観光バスに乗り換え)
09:30 ヨークベニマル若林店 各自 昼食を購入
10:00 仙台市若林区荒浜 東日本大震災若林観音像 黙祷
     若林小学校の廃校校舎見学
10:30 若林区井土地区 講和・復興支援活動・昼食
13:00 若林班 井土地区の農地の瓦礫拾い支援
     愛島班 追悼行事竹灯籠 片付け・持ち帰り 
15:30 3.11せんだいメモリアル交流館 到着 講和・視察
     (場所:宮城県仙台市若林区新井字沓形85-4)
16:30 現地出発
17:00 天然温泉極楽湯 仙台南店 到着 入浴・夕食(各自対応)

神戸行きバス二台に乗り換え (住所:仙台市太白区西多賀5-24-1)
愛島東部住宅関係者、多数の見送り。
懇談をしつつ名残を惜しんで再会を願った。

19:30 現地出発 一路神戸へ

第4日目  2016年8月17日(水)

08:30 摩耶埠頭公園 神戸・心絆 事務所に竹灯籠の残材下し
     (今回、竹炭焼きの焼却のため)
09:00 神戸クリスタルタワーにて 解散 お疲れ様でした。

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『みちしるべ』**神戸と宮城 竹灯籠が結ぶ絆 【毎日新聞】**<2016.5.&9. Vol.94>

2016年08月31日 | 山川泰宏

神戸と宮城 竹灯籠が結ぶ絆

 東日本大震災で被災した宮城県名取市の愛島東部仮設住宅で15日に開かれるお盆の追悼行事に向け、市民団体「神戸・心絆(ここな)」のメンバーらが9日、神戸市東灘区の摩耶埠頭公園で震災犠牲者を追悼する竹灯籠作りをした。

 「心絆」は、阪神大震災の追悼行事で竹灯籠を並べ「1・17」の文字を浮かび上がらせてきた「神戸・市民交流会」=今年3月に解散=のメンバーが中心となり、5月に発足した。交流会が2013年夏から毎年、お盆と東日本大震災が発生した3月に行ってきた竹灯籠の供養を続ける。

 この日は東日本大震災が発生した3月11日にちなみ311本の竹灯籠が用意され、同市東灘区の書家、佐井麗雪さん(58)が、津波の犠牲者らの名前とともに「祈り」「復興」などの言葉を丁寧に書き込んだ。心絆会長の山川泰宏さん(78)は「5年が過ぎても東日本は復興が遅れているが、心の癒しにつなげたい」と話した。

【神足俊輔】

毎日新聞 2016.8.10.

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『みちしるべ』**「1・17希望の灯り」分灯 きょうボランティアら東日本被災地へ 【神戸新聞】**<2016.5.&7. Vol.94>

2016年08月31日 | 山川泰宏

「1・17希望の灯り」分灯
きょうボランティアら東日本被災地へ
宮城の追悼行事 竹灯籠311本ともす

 6度目のお盆を迎えた東日本大震災の被災地を支援しようと、神戸・三宮の東遊園地で13日、阪神・淡路大震災の鎮魂と復興を願うガス灯「1・17希望の灯り」の火を移す分灯式があった。ボランティアら40人が14~17日の日程で宮城県を訪れ、現地の追悼行事で竹灯籠311本に火をともす。

(金 慶順)

 追悼行事は、「1・17のつどい」で竹灯籠を準備してきた「神戸・市民交流会」の流れをくむ市民団体「神戸・心絆(ここな)」と「ひょうごボランタリープラザ」が、同県名取市の愛島東部仮設住宅で開催。2013年から毎年実施しており、ボランティアと共に夏祭りの運営なども手伝う。

 分灯式では「希望の灯り」からろうそくに火を付け、持ち運び用のランタンに着火。心絆の山川泰宏会長(78)は「竹灯籠で被災者の心と心をつなげれば」と願った。

 初めて被災地を訪れる関西大学北陽高校2年の寺坂美桜さん(17)=尼崎市=は「時間がたち、東日本の記憶が薄れているように感じる。被災地を実際に見て、出来ることをしたい」と話した。

神戸新聞 2016.8.14.

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『みちしるべ』**徒然の交流**<2016.1.&3. Vol.92>

2016年03月22日 | 山川泰宏

山川泰宏

 神戸・市民交流会の活動を1998年から市民ボランティアとして関わり、その間には今住んでいる西宮市民としての活動も永年継続していました。

 阪急甲陽線の夙川の地下化問題に関わり、阪神道路問題ネットワークの例会に参加したのは、後期高齢者の前の70代の頃かもしれません。

 神戸・市民交流会の市民活動の団体として解散を決意、その後のボケ防止の中で新しい仲間との復活の歳月を嬉しく思います。

 その仲間から作品展示会の案内を頂き、本日、川西能勢口駅の会場に足を運び、展示会にいたS画伯の作品や多くの作品を鑑賞させていただきました。

 S画伯の作品を初めて鑑賞、正直に言えば、凡人の自分には内容が理解できない作品であるが、しかし、自分の趣味の範疇の中で日々作品制作がS画伯の生きがいと羨ましく思いました。

 展示会の合間に会場の立ち飲み居酒屋でご相伴に与かり心地よい想いで帰宅させていただきました。楽しい交わりの一時感謝申し上げます。

 その展示会の様子を写真で紹介させていただきます。

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『みちしるべ』**21年目を迎えた阪神淡路大震災の記憶**<2016.1.&3. Vol.92>

2016年03月21日 | 山川泰宏

21年目を迎えた阪神淡路大震災の記憶

山川泰宏

 阪神淡路大震災から21年目の前に芦屋市津知町の津知公園を訪れてみました。壊滅的な被害を被った津知公園の住宅地はあの当時の震災の傷跡は何もなく、震災の記憶は一欠けらも無いように見えます。しかし、震災後地域の住民たちが建立された震災モニュメントが公園の片隅にひっそりと佇んで多くの地域の人々に語りかけていました。

碑文に記された文字「絆」

 裏面の説明文には1995年1月17日午前5時46分M7.2で50有余名の貴い命が亡くされたと記載されていました。

 津知公園では父親たちと戯れる幼子たちの嬉々とした声が響き楽しそうな親子の団欒風景が目に入り、家々は震災の記憶など無かったごとく平和な日常が見えています。旧い歴史を刻んだ家々の風景の無い、新しい家並みは震災から20年の新しい人々の暮らす新しい街並みなのかもしれません。

 旧き時代の木造建築物が地域に溶け込んだ風景が好きで、そこに暮らす市井の人々の穏やかな人情が遠い過去に忘れ去られているように感じるのは老人の僻みでしょうか。

 今から15年前、阪神淡路大震災から5周年の記憶が蘇ります。2000年1月16日17:00~阪急夙川駅を出発した、希望の灯り運搬のモニュメント交流ウオークでの、精道保育所、如来寺、津知公園を通じて知り得た人々との15年ぶりの訪問です。阪神淡路大震災21年目の東遊園地に1・17追悼行事で作る竹灯篭。自分でつくり育てた竹文字の追悼とご遺族の20年間の苦悩の歳月。心の拠り所の意義が東遊園地の竹灯篭を通じて心に灯されたことを、ご遺族の今のお姿を知りたかったのです。

 あの当時、訪問する場所での許可などで特に如来寺の住職さんには、本当にお世話になった記憶がまざまざと蘇ります。寒い中参加する私たちの為、集会所での休憩と温かい飲み物の提供など、NHKの生放送取材などに協力は忘れる事の出来ない思い出。そして、敷地内にある地蔵さんの前で震災前遊んでいた幼子が短い命を落とし、混乱の中、葬儀までして上げたとの話を聞かされたのが昨日のように、いや20年の歳月は年老いた自分の今でした。

 遺族にとって、あの災害で失った命の重みは震災から留まったままなのでしょう。歳月は流れても遺族にとっての1・17は忘れたくても忘れられない日であると改めて知ることになりました。

 しかし、私達夫妻は2000年1月14日、父の見舞いで函館に帰郷、病室で長男を待つように息を引き取り91年の生涯を終えたのでした。その為、東遊園地での追悼行事の時、葬儀のため函館に滞在していました。

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『みちしるべ』**戦争の時代と大学**<2016.1&3. Vol.92>

2016年03月21日 | 山川泰宏

戦争の時代と大学
「慶應大阪シテイキャンパス特別企画展」

2016年3月9日

山川泰宏(77歳)

 神戸・市民交流会のボランティアの仲間との交流の中で、多くの市井の人々たちの支援協力が市民活動の原動力になっています。

 事務局長としての役目は小回りの利く中で、いかに多くの仲間が満足するような活動に貢献できるかに関わっていると思います。そして神戸・市民交流会の活動の担い手は、竹灯篭・再生ローソク等に、多くの社会福祉協議会・企業退職団体や個人・宗教法人等々、多くのお一人お一人の忘れられない支援協力の根底に息づいています。

 社会人生活の中で過去を振り返ると、多くの人たちがボランティアの共助の精神的境地で活動してくれるのが市民活動の大切な原点であるように感じつつ、長い歳月関わってきました。

 今日、その中の現役世代の仲間に誘われ、東日本被災地支援の旅の合間を選び、折からの雨の中、特別企画展に大阪まで足を運びました。

 日本の歴史で70年前まで、多くの若者たちの青春を、学徒出陣で戦火の中へ。遠い故郷の両親や愛する人たちと別れ、戦死や戦病死となった悲しい歴史でした。神宮外苑で営まれた学徒出陣。20前後の若武者姿の行軍する光景を見て、二度と戦争を起こしてはならないことを誓いながら、重苦しい過去の歴史の現実から目を背けるべきでないことを学びました。

 今日、「戦争の時代と大学」の特別企画展を拝見しました。日章旗に書かれたメッセージ、そして千人針の実物をこの目で確認し、若き学徒が戦火の中で落とした命を愛しんで、学びの機会を持ち得ました。戦後70年の日本が手にした平和、末永く引き継げられるよう祈らざるを得ませんでした。

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『みちしるべ』**父母の残した鴎だより!!**<2015.9.&11. Vol.91>

2015年12月01日 | 山川泰宏

父母の残した鴎だより!!

2015(平成27)年9月3日

山川 泰宏

 昭和40~50年代の冬期、北海道沿岸部の漁業従事者や東北地方の農村部の人々は、関東方面に出稼ぎ(季節労務者)として、建設現場等に長期間、故郷から出ていました。東京オリンピックを控えた建設ラッシュ。影の功労者であったことを忘れないで下さい。昭和50年度、季節労働者の出稼ぎが終焉し繁栄された街が出来たのです。

 正月3ヶ日を故郷で過ごし、青森発上野駅行きの夜行急行列車は、出稼ぎや学生の群れが堅い座席にひしめいて座っています。それぞれが、故郷に家族を残し冬季の厳しい日々を案じながら、日々の糧の為に建設現場へ出かけていました。私も昭和33年から36年は東京の大学へ、青函連絡船と急行列車での函館から上野駅まで、懐かしい学割を使用した両親の住む故郷からの望郷の鉄道の旅でした。

 その時代、私の心の中に残る汽車の中の出来事の一つ。出稼ぎに向かう人々との交わりでした。東京に向かう車中、出稼ぎの人たちが“お母あー”の自慢料理を車内に持ち込み、数ヶ月味わうことのできない故郷の食べ物。素朴で無愛想な中に見せる人懐かしさに、見ず知らずの人との交流が繰り広げられたのです。時折、東北の農村部の人たちが一升瓶に入れて持ち込んだ、どぶろくの美味しさ。知らず知らずのうちに腰を抜かすほど酔い、今では遠い過去の話になります。

 一方、北海道茅部郡南茅部町古部の1月から6月頃まで、若者が出稼ぎに出かけた後の、地元に残る人や子供たちの交流の文集が発行されていました。その『鴎だより』に掲載された、私の父の文章を以下に記します。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

 
【鴎だより】第45号 昭和50年6月10日発行(最終号)

古部出稼援護組合

驚き!ももの木・サンショの木
 ローソクホッケキロ5円!!

出稼援護組合古部支部長 山川善司
函館中部高校32期(昭和5年卒)
[2000年1月14日逝去 享年91歳]

 出稼ぎして働いている皆様にとっては、月日の流れは遅々と感ぜられたでしょうか。留守を預かっている私達(特に私のように老人の部類に入ってる者)には全く早く思われ、かもめ便りも最後の月になってしまいました。

 たびたびお知らせしているように、今年は大雪に見舞われたので、草木はいつになったら萌え出るのかと心配しておりましたが、やはり季節が来ると、様々な山菜が食卓を賑わしてくれました。また、桜も気をもませず、例年の通り花(山桜)が咲きました。ただ、今年は桜が満開だと思ったとたん、強風にやられ、アットいうまに無残に散ってしまい、花見をしたのかどうか、わからぬ状態でした。今は全山きれいな新緑におおわれており、その中に紅の山つつじが美しく初夏の訪れを思わせています。

 婦人部と老人クラブが、それぞれ日本一といわれている青森の古牧温泉に旅行をして、今までの疲れを流し、大変楽しかったと申しております。古部の母ちゃんたちは働き者で、ちょっとの間も惜しんで働き者です。先日もアスパラの働きに出た人がいます。また五月初旬から工事が始まった古部漁港の現場にも、4~5名のお母ちゃんが元気に働いております。

 さて、漁の様子についてお知らせしなければなりません。

 今年のテンテン(鱒の一本釣り)はあまり良い漁がなかったのですが漁場の網(定置網)、特に囲(屋号=カクイ漁業)さんの定置網が建ってから、マスが獲れだし、しばらくぶりでラシャマスの姿も見え、毎日が大漁でした。網起こしのたびに相当の漁獲があり、囲漁業部の漁は木直(キナオシ)の全定置網の2倍以上の漁獲量の成績を上げています。

 マスの他にホッケも獲れたし、毎日何百箱という水揚げでした。でも最初のうちはホッケの値もよかったのですが、大漁ビンボーの名のとおり、最後にはキロ5円まで値下がりし本当にがっかりデス。それでも獲れないより、獲れたほうが活気があっていいので張り切って頑張りました。

 ただの5円という小型ホッケ(通称=ローソクホッケ)の漁獲が薄くなってきたら、囲(カクイ)の小網にマグロが7尾(全部で800キロ)入り、その翌日は大きい定置網で同じくマグロ7本(平均214キロ)の漁獲があり、久しぶりの大漁旗をなびかせ古部漁港は活気づきました。今のところホッケは薄くなっているが、モグリがありますので今後が楽しみです。

 囲漁場は現在、木直管内で一番の漁獲量なのでこれからもなんとか大漁が続き、今年こそ水揚げ億の声を聞きたいものと、強く念願しております。特に今年は前記のようにめずらしく大型のマグロ揚がりましたので何か幸先が良いように思えます。(近年この海域は大間のマグロ、戸井のマグロの漁場=平成年代) 又キ(屋号)齋藤漁場も新しく岡(陸地より)のほうに、ミニ定置網を建てており、又キ・ヤマ三(屋号)浜田漁場ともどもホッケ、モグリ等々相当の漁獲を挙げております。

 皆さん、内地はかなり暑いでしょう。でも今年は時々寒い日が来るようです。風邪は万病の元と申しますから、身体には充分気を付けて働いてください。保育所の子どもたちも毎日元気に通っていますからお母さん、お父さんご安心ください。帰郷時期が近いですから油断しないで働きになり、元気な顔でのお帰りをまっています。

追伸:北海道人(道産子)は津軽海峡から北は外地、津軽海峡から南(本州)を内地と呼びます。屯田兵の厳しい開拓時代を彷彿させているのかもしれません(私の勝手な解釈)

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『みちしるべ』**青函連絡船と青函トンネル**<2015.9.&11. Vol.91>

2015年12月01日 | 山川泰宏

青函連絡船と青函トンネル

2004年9月 山川 泰宏(西宮在住)

 私は当時、函館中部高校1年に在学中でした。洞爺丸台風で函館市立中央中学校の3年の担任恩師(田中幸之丞先生)が洞爺丸に乗船していて亡くなりました。あの時以来、我々の中学校の同窓会は永遠に訪れなくなりました。

 そして、あの時、函館の町で、ひそかにささやかれた言葉がありました。津軽海峡のイカは多くの犠牲者の遺体を食べているので、イカ刺しは食べれないんでない……と。

 青函貨物連絡船の乗務員の多くの犠牲者は津軽海峡の藻くずとなり、海の屍となった悲しみの物語から五十年の歳月が過ぎていました。

 以下、函館新聞(早坂直美記者)の記事。文中敬称略、年齢は当時のもの。

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洞爺丸台風から半世紀・五十年目を迎えて

 北海道道南の災害史上、忘れることのできない洞爺丸台風から半世紀を迎える。海難事故としては、氷山に衝突して沈没したイギリスの豪華客船・タイタニック号に次ぐ、世界第二の大惨事。

その日

 出港わずか二十分後大しけ。「木の葉のように揺れ、今まで体験したことのない大時化でした」――。二等航海士の山田友二は(29)は、当時の船の様子をこう表現する。

 1954(昭和29)年9月26日。台風15号の動向をうかがっていた青函連絡船「洞爺丸」は予定より4時間遅れの午後6時39分、青森へ向けて函館の桟橋を出港した。海上の状況が急変したのは、20分後。強い風と波が船を襲った。洞爺丸は,続航中止を決め、午後7時1分、函館港外に碇を下ろし、しけが収まるのを待った。

 山田はこの時、船内のブリッジにいた。激しい横揺れと縦揺れに加え、船は錨を中心に振り子のように右へ左へと180度近く揺さぶられた。「何かにつかまっていなければ立っていられなかった」。台風15号はこの時、北海道南西海上でさらに発達を続ける一方、進行速度を落としていた。道南一帯では5時間あまり暴風雨が続いた。

 洞爺丸は七重浜へと押し流され、沖合に座礁。「砂浜に乗り上げたからもう大丈夫」。ブリッジ内の船員誰もがこう思った直後、船体は急激に傾き、午後10時43分、転覆―――。船がぐぐっと右へ傾斜した時、山田は船体左の窓枠につかまった。船が横転した際、いち早くブリッジの外に出ることができたが、船外は荒れ狂う暗黒の海。すぐさま波に攫われ、海に投げ出された。

 激しい波が次から次へと襲いかかる。海水をガブガブ飲み、頭はパニック状態、自力ではどうすることもできず、波にもまれながらも奇跡的に七重浜に打ち上げられた。小さな明かりを頼りに暗い砂浜を歩き、民家に助けを求めた。生存者や遺体が続々、この浜へ打ち上げられたのは、この直後だった。「浜は真っ暗闇で状況はよく分からなかった。どうも自分が最初に打ち上げられたようでした。最後の力を振り絞り、民家に助けを求めました」と、山田は振り返る。

 洞爺丸の乗員・乗客1334人のうち、1175人が亡くなった。洞爺丸のほか、青函貨物船の第11青函丸、日高丸、北見丸、十勝丸も函館港内で沈没。のちに「洞爺丸台風」と呼ばれる台風15号は、船5隻の乗員・乗客1430人もの命を奪った。

翌日 

海辺に転がる死体の山

 洞爺丸転覆後、上磯町の七重浜には遺体が続々と打ち上げられた。泣き叫ぶ者、悲痛な表情で海を見つめる者、黙って手を合わせる者……。多くの遺族が浜につめかけた。「兄さん、いたの!洞爺丸が大変ですよ」斬波正夫(29)は9月27日早朝、近所の人にたたき起こされた。前日昼まで、無線通信士として洞爺丸に乗船、七重浜にある国鉄宿舎で寝ていた。

 斬波はすぐさま、浜へと走った。海辺には、ゴロゴロと死体が転がっている。「大変なことになった……」。全身に震えが走った。沖合いには、洞爺丸が無残な姿で横たわっていた。海上では潜水夫が船内から遺体を引き揚げていた。斬波は遺体収容作業に加わり、運ばれてくる遺体を見て、「これは○○さん」と係の人に教える役を努めた。「悲しみにくれる暇などなかった」。

 新聞各紙は連日、一面トップ扱いで事故の惨事を伝えた。「夫が私を呼ぶ夢をみました」「家で26日の夜、障子にサチ子の影がうつったきがしました、そのとき死んだのですね」「子供のことを考えると本当にわたくしたちも夫についていきたくなります」。10月2日の函館新聞(当時)には、肉親を亡くした遺族の心の叫びが記されている。

第十一青函丸も沈没

 吉田幸(36)のもとに青函貨物船第十一青函丸沈没の報が入ったのは、27日朝のことだった。夫の虎夫(44)が乗船していた。最初は「何が何だか分からなかった」が、とにかく七重浜に向った。第十一青函丸には、乗員・乗客266人がいたが、全員が帰らぬ人となった。遺体が発見されず「行方不明」とされた人も多かった。「随分探したけど見つからなかった。最初はどこかで生きていると思っていましたが、11月には葬式を出しました」。

 吉田のもとには、4人の子供が残った。末っ子はまだ小学校1年生。無我夢中で子供たちを育ててきたが、9月26日に慰霊碑前に足を運ぶことは欠かさなかった。どんなに悔やんでも悲しんでも夫は戻ってこない。「二度と事故が起きないように」。吉田はこの半世紀願い続けている。

 日本中を震撼させた洞爺丸台風のあと、青函トンネル建設の話がにわかに活気付いた。事故から34年後の1988年、青函トンネルが開通し、青函連絡船は歴史に幕を閉じた。事故の教訓から、気象予報や造船などの技術は進歩を遂げた。だが、たとえ津軽海峡の主役が代わっても、半世紀もの時が経過しても、事故の悲しみは癒えることがない。

水底に貝がら鳴り
 水底に貝がらふるえ
  波の日元気に海峡を渡り
   遂にかえらない
    幾たりかの友だち
 潮流に貝がら流れ
  潮流に貝がら叫び
   暗黒の水底からじっと
    故里を見守る数多くの瞳
  海底から貝がらうもれ
   海底に貝がらむせび
    あヽこれはそも
     唯人の骨片であろうか

北見丸事務掛として遭難した 故 亀谷利博氏の遺稿詩

 

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