扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

天下布武を想う城 100名城No.39、稲葉山城・岐阜城

2011年06月24日 | 日本100名城・続100名城

岐阜城に登ることにした。
前回、いつ登ったか思い出せないほど昔のことで、どんな山だったかを再確認するのもよいかと思った。

今日は珍しく同行者がある。
昔、勤めていた会社の上司で物理学の博士号までお持ちなのだが、私のような理数系の思考を持たないものと酔狂にもお付合いただいている。
そのI氏の御自宅で落ち合い、I氏のオープンカーで出発した。

岐阜城は岐阜県岐阜市にある。かつて稲葉山城といった。
おもしろいことに日本全国概ね県庁が戦国時代以来の城跡の近くにあるのが普通であるのに、岐阜県庁も岐阜市役所も岐阜城下にはない。
またJR岐阜駅も新幹線岐阜羽島駅もはるかかなたを走る。こういう町は珍しい。
これは岐阜城が城下を設計した信長自身が岐阜に腰を落ち着けるのをよしとせずにすぐに安土に行ってしまったことに遠因があるだろう。
また江戸時代、美濃の大部分が尾張徳川家の所領となったため、尾張とセットで繁栄せざるを得なかったのかもしれない。
美濃には大垣戸田氏10万石の外に大藩がなく、天領も多かった。形からいうと中央の緩い支配が続いていたということだ。

美濃と尾張の国境には木曽・長良・揖斐の木曽三川が流れ、岐阜城は長良川と木曽川の間、長良川を背負っている。
稲葉山城という堅固な山城から美濃の斎藤家は尾張を睥睨し、織田家は清洲から真北へ向かって駆けていった。

織田信秀やら信長のように尾張からクルマで駆けていくと木曽川を渡る前からすでに稲葉山は大きく見えている。
ほれぼれするようないい山で標高329mと高く四方に峰を伸ばし深い谷を抱えている。
その点、山賊に毛のはえたような国人領主が籠もる山城とは一段二段格が違う。
しかも南側の半分は視界をさえぎるもののない大平野なのである。
眺めはさぞよかろう。

岐阜公園の駐車場に着いたとき、もう16時を過ぎていた。
城山は今は金華山と呼ばれ、ロープウェイが山頂まで通っている。
岐阜の人々の慧眼は城が観光名所になるという将来性に気付いたことである。
何しろ明治43年という時期に木造で模擬天守を上げ観光用に供したというから早い。
この天守は昭和18年に失火で焼け落ちてしまうのだが昭和31年に鉄筋RCで再建されロープウェイを翌年通して観光客を営々と上げ続けている。
もちろん観光用として成り立つのは山頂からの絶景が第一である。

ロープウェイで標高を上げて行くに連れて尾張平野があほらしいほどのだだっ広さで拡がってくる。
この壮大感は日本一といっていいだろう。
眺めのいい城は数あれど水平線まですぽんと見抜ける眺めはそうはない。

ロープウェイを降りて山頂の模擬天守に向かっていくとまた違った感慨が襲ってくる。
眼下の壮大な眺めとは全く異なり哀しいほどにせせこましいのである。

斎藤時代には尾根筋をささやかに削って曲輪を造り柵など設けた。
しかし遺構はわずかな石垣を除いて残っていない。
清洲から美濃攻略のため小牧山に駒を進め、稲葉山城を獲って岐阜と改名して岐阜城として大改修を行った信長は永禄10年(1567)から天正3年(1575)まで岐阜を本拠とした。
信長にとって岐阜城は根拠地ではあったものの攻められることを想定しなかったため山麓の居館はきらきらしいものだったが詰めの城を財を投じて堅固にするという思想はなかったようだ。
この期間、明智光秀がやってきて後の将軍足利義昭とのコネがつき、ルイス・フロイスも岐阜城を訪れている。
フロイスは岐阜城下の繁栄をバビロンに比すると書いている。

岐阜城は信長にとって天下獲りの双六の4つ目ほどであった。
ここで振ったサイコロの目により安土に進み、京へ上っていく、摂津石山がアガリであったのかもしれないがサイはそこに届かなかった。
信長にとっての岐阜城が天下を狙うターニングポイントであったのと同様に例えば双六をアガリで終えた徳川家康にとってのそれは岡崎城であり浜松城であった。
岡崎も浜松も「出世城」になるが織田家にとって岐阜城はまさに「不幸城」でありその不幸ぶりは見事である。

信長が安土に移って岐阜城主は織田家の人々を転々とする。
まずは信長長男の信忠に、本能寺の後は三男信孝に、豊臣政権下で信孝が滅ぶと信長の側近で大垣城主となった池田恒興の長男池田元助に、次に小牧長久手で父と兄元助を失った池田輝政に、輝政が去ると秀吉の養子秀勝に、秀勝が朝鮮の役で陣没するとかつて秀吉が擁立した三法師秀信にと受け継がれた。
関ヶ原で岐阜城を守った秀信は西軍に付き前哨戦で福島正則、池田輝政等によって瞬く間に落とされ高野山に追われた。
徳川政権になると時代遅れの山城は廃城となり、中山道が通る南の方に加納城を新造して天守などが移築された。
ここに名を挙げた武将の内、まともに死んだのは池田輝政のみという不幸ぶりである。

不幸なのは城主ばかりではなく城そのものも不名誉な歴史を負った。
こうして山頂付近を歩き、谷を覗いてみてもわかるようにこれほど攻めにくい城というのはないだろう。
北は長良川を堀とし、山は断崖である。
であるのに岐阜城はよく落ちた。

斎藤時代を含めて七度落城したのである。
見方によっては岐阜城の歴史というのは「城は運用する城主の力量が第一」ということを示しているともいえる。
道三を葬った斎藤義龍は寡兵の竹中半兵衛に追い落とされ、後に信長によって正攻法でも落とされた。
織田信孝は兄信雄の勢に囲まれて開城し自刃に追い込まれ、信長の嫡孫秀信は前述のように攻城戦により落ちた。
ぼんくらだったのだろう。

どうも輝政あたりが今の模擬天守のモデルとなった天守を上げたらしいが、戦国岐阜城の様子がよくわからないのはこの城が不幸な城であるという史実による。

観光用施設としてはいかにもせまい小道を歩いて行くと天守があり隅櫓のひとつが復興され資料館になっている。
天守の内部は織田家ゆかりのもの、ほとんどが複製であるが展示してある。
じっくり見るには耐えないものではあるので最上層の高欄に登ってみると幼い頃の記憶をはるかに上回る絶景である。
南に木曽川が蛇行する濃尾平野の全てを臨み、西に伊吹山、大垣から関ヶ原までを見通し北に乗鞍が見える。

美濃の物見の場所としてはこれ以上の場所はあるまい。
道三、龍興の頃は織田勢が木曽川に向かって駆けてくる様がありありと見えたであろうし、墨俣で秀吉が柵をこさえる篝火が何とも小癪に感じられたであろう。
「金華山に登ると天下を獲ったような気になれる」というのはよく聞く話だがなるほど自分が大きくなるような気分になる。
古城から旧城下町をながめるときに私はともすれば寂寥感におそわれる。
ところがここばかりは悲哀など微塵も感じることなく戦国の男共が野心満々に駆け回っている姿しか思い浮かばない。

初夏のことで陽が沈むまで眺めるような余裕がないことを残念に感じつつロープウェイで降りた。
気の毒なことにさほど城好きではない同行者のI氏は暑気にあてられてへばっておられた。

話は変わるが、私は京都の東山から市内を眺めながら「この街京都で大学に行こう」と思い、行く道を決めた。
もしもその17、18の頃に一日ここから天下を眺めていればもう少し野心のある人生が送れたであろうかと思ったりした。
 

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天守へ向かう道

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南方面

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名古屋城方面を望遠で

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西は長良川を外堀にした断崖

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北方面



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