扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

越前・加賀の城 #6 続100名城No.137、夜の福井城

2011年06月20日 | 日本100名城・続100名城

S氏の職場近くで待ち合わせ、ついでに福井城を外から散策した。

夜のことなのでよくわからないが、本丸は水堀が残っているものの曲輪の中は福井県庁や県警など昭和の建物がそびえていて興ざめ。

本丸には「福の井」という井戸があってこれが福井の語源となっているらしい。

内堀に御本城橋との土橋がかかっていて本丸に行ける。

結城秀康の石像があった。

近年のもののようで何やら中国の武者のようである。

内堀には西側に御廊下橋が復元されていた。

しかしながら本当にやってほしいのは本丸の庁舎群の移転ではなかろうか。

 

夜はS氏と会食、新聞記者をやっていて福井県の事情、特に原発関連の闇のことなど聞いた。

 


越前・加賀の城 #4 100名城No.37 復活の一乗谷城 

2011年06月20日 | 日本100名城・続100名城

一乗寺谷城に来た。

この城は一乗谷川沿いの平地を南北に木戸を設けて封鎖した谷底の町にあった。

一乗谷川は足羽川へと流れ込み、足羽川は九頭竜川に流れ込む。

永平寺は山ひとつ北側にあり、西に行けば福井平野、交通の要衝というよりも山に貼り付いた閉鎖的な地であるといえる。

越前国府は越前市にあったようで福井市よりも同じ平地の南に位置する。

港でもなく古都でもない地に城を構えた朝倉氏、発祥は天皇家の後裔、日下部氏一族といい本貫は但馬国朝倉にあった。

越前守護となった斯波氏の被官となった朝倉氏は福井に土着、一乗谷を拠点にした。

応仁の乱で斯波氏が疲弊すると越前の国衆との抗争の末に国主の座に着いた。

乱を避けて京から逃げてきた文化人を保護して一乗谷は繁栄することになる。

しかし栄華の日は短く信長の侵攻によって一乗谷は城もろとも壊滅、さらに一向一揆でとどめを刺され、福井城が越前松平の政庁となると野に還った。

 

現在の一乗谷は復元が随分進んでおり、城下の屋敷群が建てられている。

庭園も掘り返されていて今後、事業が進んでいけば年々、朝倉時代の景観が現れてくるのであろう。

 

 

 


越前・加賀の城 #3 永平寺

2011年06月20日 | 世界遺産・国宝・重文

そばで満腹になったところで永平寺。

 

永平寺には子供の頃、叔父さんに連れて行ってもらった記憶があるが行ったことしか覚えていない。

永平寺を開いたのはいうまでもなく道元。

道元は京に生まれ、叡山に上った。

僧となって日本臨済禅の祖、すでに入宋していた栄西の弟子、明全と共に貞応2年(1223)宋に渡った。

帰国後、京の仏教界と衝突し、俗世臭の強い京を離れて永平寺を開いた。

没したのは京においてであり、御廟が永平寺の最も奥まったところに鎮座している。

私は歴史上の人物の墓参りが好きで墓の前で手を合わせるととたんに親近感が湧く。

 

開祖や総本山の有様はその宗派の思想を濃厚に表している。

空海と高野山、親鸞と本願寺、日蓮と久遠寺などは象徴的であろう。

私はかつて「宗教の本」「東洋思想の本」を書いたことがあり仏教各宗派について調べるうち、道元についても興味を持った。

日本の禅について聞かれるとき、私は臨済宗は哲学サークル、曹洞宗は体育会と言ったりする。

どちらも禅宗ではあるが素人なりに臨済は考えることが中心にあり思考の一手法に座禅がある。

対して曹洞は「考えるより座れ」であり日常を無で過ごすことを重視する。

よって永平寺とは体育会系のアスリートを輩出する道場であるのだと思っている。

永平寺はとかく「観光地化されている」と揶揄されることもあるが来てみればそこはやはり日常と非日常が見事に重なっている道場であった。

 

永平寺の景観を独特にしているのは回廊。

七堂伽藍が全て屋根付きの回廊で結ばれている。

山門の四天王像は彩色が完璧に表現されていて圧倒的、これだけでも見に来る価値があろう。

今日は訪れる人が少なく、曹洞宗寺院の持つ独特な雰囲気の中、思う存分拝観することができた。