扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

百名城43−国宝犬山城

2012年02月21日 | 日本100名城・続100名城

犬山城に行ってみた。

2009年の夏、ふと日本100名城のスタンプ集めを思い立った。
犬山城は当然その中に入っているのだがスタンプを押していなかった。
まあスタンプを押すためだけに行くのも気が萎えるので違った見方をしてみたい。

名鉄電車で犬山公園まで行く。
電車で犬山に行くというのは考えてみれば経験がない。
そもそもクルマを持つ愛知県民には公共交通機関で行楽に行くという発想がないのである。
加えて愛知県民には「我らの地元には他国人に誇れるスポットが少ないのではないか」というやや自虐的な意識がある。
よって国宝犬山城というのは尾張人の大変な誇りであるのは当然といえよう。
尾張人で犬山城に行ったことがないという人を私は知らないし、皆、「最近、行ってないなあ」と思えば義務のように行く。

私が前回行ったのは2009年の4月。
国宝の茶室、如庵の特別公開のついでに寄った。
その時はクルマである。

駅からゆるゆると歩いて行くと天守がみえてくる。
犬山城は木曽川の尾張側、小高い小さな山の上にある。

織田信長が生まれた那古野城からほぼ真北、東に行けばすぐに濃尾平野が果てる。
川を渡れば美濃国。
最初は砦に毛の生えたようなものであったろう。
尾張の戦国というのは高校野球の地方予選のようなもので織田一族が小競り合いをしていたに過ぎない。
尾張の織田一族の抗争を考える時、いつも思うのだが低い丘がうねうねとしている尾張の平野にあって清洲だの守山だの岩倉だの勝幡だのといった館にいると不安でしようがなかったのではと思う。
「今からあやつを成敗に行くぞ」と思えば半刻(約1時間)もあれば夜討ちに駆けていける。
犬山は後を川に山に守られている分、こと尾張の中では気が休まったのではないか。

城ができたのは天文6年(1537)のこと、信長の叔父織田信康による。
信康の死後、跡を継いだその子信清は後堅固の犬山にあって尾張の統一戦に鷹揚としていたのであろう。
犬山は尾張の中でオセロ板の角のようなものである。
ここに石を置けば間が全て獲れる。
信長に適した岩倉城主信安を信康は信長と挟撃して落とす。
すると間が埋まって信長は強気になり、対応を誤った信清は信長に攻められ永禄7年(1564)に落ちる。
信清は甲斐の武田を頼って逃げ犬山鉄斎として余生を過ごしたらしい。

犬山城の後に池田恒興が入った。
まだ天守はない。
信長という男は城造りという視点でいうと実におもしろい。
戦国大名の誰もが生まれた城を後生大事に守っていたのに信長は軽々と城を捨て置いていく。
小牧山、岐阜、安土と前線に本城を移し前へ進むと後には銭を使わない。
尾張の隅の犬山に銭は使わない。

やおら犬山城が戦略上、重要になるのは秀吉と家康の決戦、小牧長久手の戦いの際。
家康と組んだ織田信雄の所領であった犬山城はかつての城主、池田恒興に易々と落とされ秀吉の拠点となる。
木曽川を渡河された信雄・家康連合は小牧山城を本陣として前線を形成することになる。

次の犬山城の危機は関ヶ原。
大垣まで進出した西軍は木曽川を防衛ラインとした。
この時、尾張は福島正則の所領。
もしも石田三成に軍略あり早々に主が留守の尾張を落としておけばせせこましい関ヶ原で難儀することもなく、小牧長久手で再び壮大な野戦が展開されたのかもしれない。

ところが三成は清洲を攻略できずに正則が大軍と共に帰ってきてしまう。
せっかく抱き込んだ犬山城も諸将がびびって木曽川の向こうに引いてしまった。

こう考えるとどうも犬山城は運がない。
どうみても易々と落とせる縄張ではないのに常に城主は負け組である。
ただしその城が今に残ってしまうというのがおもしろくはある。

江戸の犬山城は尾張藩の付家老成瀬家の持ち城として大事に使われた。
よって愛知県民の矜恃に役立っているのである。

いつもは大手の方から登っていくのだが今日は木曽川河畔の小道を通って西側から行く。
もちろん戦国時代に道はない。
見上げるとかすかに天守台の石垣がみえているがこれは登れまい。
されば大手からゆくしかなかろう。

まわりこんで大手まで来るとかつての空堀、それらしい遺構がある。
天守がある本丸までは一本道、よく言われるように安土城の大手道のような雰囲気はある。
左右にこの大手道を守るように桐の丸(現針綱神社)、樅の丸、杉の丸が配され本丸の一番高いところに天守台。

本丸に入る門はかつて鉄門であった。
本丸に踏み込むと国宝天守が溌剌としている。
野面積の天守台、望楼型天守はいい。
犬山城の天守は長いこと、日本最古の天守と喧伝されていた。
しかし、最近の研究では望楼部分が上がったのは成瀬氏時代の慶長年間ということになっている。
外から見れば二階建ての入母屋がまずあり、上に後付けで二階建ての望楼を載せたのだろうということは想像できる。
元々眺望のよい山の上にあるのだから高くする必要は薄い。
巨城名古屋城の竣工なってから支城に軍事的要素も家老風情の威厳もないようなものだが、よくぞ造ってくれたと思わざるを得ない。

最上部の高欄にも登ってみた。
犬山城に来る人の目当てはまずこの眺望である。
天下を獲った気になれる岐阜城の眺望もいいが犬山城のそれもいい。

夕暮れのことでさすがに靄にかすんでいるが、小牧山城のいかがわしい天守も岐阜城の模擬天守もみえている。
はるかに御嶽が雪をかぶっている。

愛知県に生まれ育った身としては遺してくれてありがたいという他ない。

帰りは木曽川を渡り、川越しに天守を眺めてみた。
犬山城を荻生徂徠は唐の白帝城になぞらえた。
元祖を私は知らないが「幽玄とはこうだ」といえるだろう。
また、木曽川のこのあたりは「日本ライン」という。
元祖はドイツのライン川。
こちらの方は私はクルマで走ってもらったことがある。
いくぶんダウンサイズではあるがライン川を見おろす古城の風格としては似ている。

こうして歩いて犬山城を眺めたのは初めてであった。
城の育ちとしてはいまひとつ感じいるものがないがこの眺めは日本の城の中で一番といいたい。
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿