扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

続100名城No.126 移動する豊臣都市、石垣山城

2010年05月25日 | 日本100名城・続100名城

石垣山城は小田原城から川ひとつ超えた標高257メートルの山頂に築かれた。
北条氏の堅城小田原城を見下ろす。
天正18年(1590)箱根を超えて来襲した秀吉は80日かけて城を築いた。

西からやってきたのは軍勢だけではない。
豊臣政権の閣僚は全て参陣しているから政庁そのものが移動する。
勅使も来たし利休が来て、能役者も来た。女どもも来た。
石垣を用いた築城は関東以東ではここが初だという。
文明も西から来たわけだ。

秀吉の小田原攻めはこうだ。
小田原城を大軍で囲んで出られなくしてしまう。関東に散らばる支城は余力で閣個撃破する。
北条勢が殻に閉じこもっている限り本軍はやることがないから日々、暇つぶしに余念がない。
戦う方はたまったものではない。
ケンカしていて一番腹が立つのは敵が正々堂々と勝負しないことではないか。
北条5代の戦略とはとにかく城の内側に籠もって我慢し、相手が根を上げるまでじっと待つことしかない。
ただし、秀吉は根を上げなかった。政庁も私生活も娯楽も全て持ってきているわけだから飽くことはない。
商人までが群がって来るわけだから物資補給にも支障はない。

秀吉が箱根早雲寺に到着するのが4月5日、石垣山城が竣工するのが6月27日。
この間、様々なドラマがあった。
利休の弟子、山上宗二が箱根湯本で惨殺され、伊達政宗がぎりぎりで落城に間に合い、間に合わなかったものもいた。
家康は三河を取り上げられ眼下の関東平野に移ることを決断した。

石垣山城は「一夜城」ともいうが一夜でできたわけではない。
北条方からみえる面の天守ができた時、夜間に東面の樹木を伐った。北条からみれば一夜にて白亜の城が出現したようにみえたという。
対峙して3ヵ月、北条の運命を決定づけた一夜であったといえる。

石垣山城は城址公園として整備が進んでおり山城を探検するという感はない。
二の丸跡は一面芝生であるし、本丸・天守台の石垣も城跡というよりは枯山水の石組のようである。
物見台があり小田原の町を見下ろすことができる。
小田原攻めの際には小田原城は位置も北よりで天守もなかった。
おそらく青青と繁った樹木の中に細々とした砦群があり、それを包囲する天下の大軍の旗が無数にはためき武者がたむろっていたのであろう。

豊臣の天下に抗する最後の障害は確かに彼の掌の中にあった。
秀吉着陣の後、10日ほどで北条氏政・氏直親子は観念し開城となる。
激戦の末に勝利したのではなく、どんちゃん騒ぎの中で天下が転がり込んでくるというあたりまことに秀吉らしい。
石垣山が「都」であったのもわずか3月、奥州の仕置に去った後は再び使われることもなく朽ちていく。
史上最もコストパフォーマンスの悪かった建造物のひとつに数えてよい。

肥前名護屋城もそうだが秀吉の痕跡はここでも土の中なのである。
 
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石垣山城の縄張、城域はさほど広くはない

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本丸の石垣跡

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物見台からの眺望

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北西方向、箱根方面

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小田原城天守も木陰からみえる




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