扶桑往来記

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「南蛮美術の光と影」 -サントリー美術館-

2011年11月24日 | アート・文化

打合せついでにサントリー美術館の「南蛮美術の光と影」展に行った。
六本木に来ると何とはなしに3.11の震災を思い出す。

今回の展示を見に来たのは執筆中の蒲生氏郷関連書籍で彼の南蛮趣味を知る上で重要な絵画が出展されているためである。

「南蛮」という言葉には不思議な力がある。
戦国時代に不思議な彩りを添えたのが南蛮文化であるがそれはわずか100年足らずで歴史から消えた。

南蛮と聞いて思うもののひとつは九州の諸大名、彼等の多くはキリシタンとなることで貿易の果実を得んとした。
いまひとつは織田信長である。
信長はもちろん貿易の利を忘れてはいなかったであろうが南蛮の文物を純粋に愛した。
地球が丸いことを即座に理解したほど聡明な信長自身はキリスト教の教義をも咀嚼できたであろうが改宗しなかった。
おそらく教会という組織自体が信仰という形を利用して人民を籠絡し、異国を侵略するイデオロギーをも包含していることを解読したのではなかろうか。

信長は南蛮人がその魔の手の部分を露わにする前に死んでしまうからそれは定かではない。
が、彼の後継者たる秀吉が見抜き南蛮を排除せんとしそのまた後継者家康と子と孫が完成させた。

というような先入観を持ち、戦国武将がかいだ南蛮文化の匂いを期待したのだが出品物はその部分の期待を裏切った。

メインは屏風であり、日本の工人が西洋の真似をし苦心して造った工芸品である。
教科書にも必ずのるであろう「聖フランシスコ・ザヴィエル像」も出品されている。
この絵は茨木市の旧家に秘匿され続け大正時代にようやく世に出た。
茨木といえば高山右近の所領であったから筋金入りのキリシタンが子々孫々「中に何が入っているかは知らずともよいが決して捨てるな」としたのであろう。
おかげで発色も損なわれず信じがたい保存状態で今日みることができる。

この絵もそうだが日本人の絵師・職人という人々の執念はすさまじい。
西洋の道具、画材、技術で造られた本物を日本のそれらで瞬く間に同じモノを造ってしまう。
この技は日本人にしか持ち得ないものではないか。
そして本場のものをもらっておけばいいものを「造ってやる」と思ってしまうのも日本人のサガであろう。

しばらく日本人が描いた西洋宗教画モドキをいろいろながめておもしろいことに気づいた。
キリスト教の宗教画というものはどうしてそうなるのかいつか知りたいものだが人間の魂が抜けている。
そろいもそろって悪魔に魂を抜かれたように呆けた顔をしているのである。
そして日本の絵師が描く日本人、特に民衆を描いた絵というものは対照的にいつの時代のものもへらへらと笑っている。

日本人が描く南蛮画に登場する人物は本物のように呆けた顔をしているようではあるが魂が入ってしまっているのである。
うまく表現できないが人間としての笑い、感情がにじみ出ているようなのだ。

日本の歴史には「他国に造れてどうして我らが造れないことがあろうか」というリーダーが常にいる。
遠くは奈良の仏教美術があるし後には幕末明治の富国強兵がある。
そして日本人は決して西洋と同じモノをつくらずオリジナリティが出る。

全体としては何ともメッセージ性に欠ける展示で消化不良だったもののそうした職人魂というもののみは心に残った。

ちなみに私が「仕事として」見た「泰西王侯騎馬図屏風」、これは蒲生氏郷が描かせ会津鶴ヶ城に置いたといういわくのものなのだが、氏郷との関わりは一切紹介されていなかった。
ひとつは戊辰戦争の際、前原一誠が持ち帰り神戸美術館にひとつは松平容保経由でサントリー美術館が所蔵することになった。
制作年代からして氏郷が所持した可能性はないとされているが、なぜ会津にあったかという情報くらいは来館者に知らせてもらいたい。

蒲生氏郷という人は義父の織田信長の思想を忠実に受け継いでいる。
ところが彼の生涯を追っていると断片的な情報以外に南蛮文化への意識やキリシタンでありながら信仰心の形跡が見出しにくい。
会津ゆかりの南蛮文化の粋でもみればその辺、感じるものがあろうかと思ってだいぶんねばって会場に居座ったがそれも空振りであった。




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