扶桑往来記

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空海と密教美術展2 -空海の深謀-

2011年09月15日 | アート・文化

空海という人の成したことはいろいろあるが、全ての根源は真言密教を唯一大成し、後世に残りうるものとして整えたことにある。
密教は本家インドではヒンドゥー教に吸収されて残らず、日本の真言天台密教とチベット密教にエードスを伝えるのみとなった。
空海は当時ようやく大成しつつあった中国密教の正式な継承者として日本にそれを持ち帰り見事に保護保存したのである。

東洋思想の本を手がけていたとき、この密教という思想の消化には苦労した。
インド密教はもはや仏教といっていいものかというほどに釈迦の存在が薄くなっており教義の上からも原始仏教の面影はない。

釈迦の思想の継承は上座部仏教と大乗仏教に分かれていき西域、中国と渡った大乗仏教は鎮護国家という目的を編み出すことで国家権力と結びつき新たな力を得て生き長らえた。
これが日本では南都六宗となる。
また、仏教は哲学的に進化派生し宗派相互で相反する思想に分裂したため大乗仏教は必然的に混沌としてしまい、それぞれの論点、ひいてはどれが優れているかの研究を行う天台宗なる総合学科を産んだ。
最澄はこれを学びに入唐したのである。

ところが密教はどうもそうした系統がみつかりにくい。
密教が仏教らしくないのは本来、死んでの後に輪廻を逃れる解脱が仏教のゴールであるのに現世利益を追求することにある。
宗教というのは一神教に顕著であるが来世思考が根本にあるのだ。
ところが密教は現世に生きるそのままの人間がいかに個として幸福になりうるかが主目的なのである。
他人や社会というのは本義においてよそ事でしかない。
よって密教はやっかいなのである。

空海は見事に密教を消化し、日本に持ち込み今日なお残る真言宗を立てた。
空海が学んだ中期密教はそもそも哲学仏教が現世利益に配慮したヒンドゥー教の興隆に対抗した思想であるためインド哲学からアプローチした方が理解しやすい。
であるのに空海は日本仏教の延長線上に密教をソフトランディングさせてしまった。
ここがものすごい業績だと私は思っている。

空海は真言密教に「祈祷」を主な仕事として据えた。
これは教義からすればアルバイトといっていい。
密教とはおのれが人間として生きたまま解脱する即身成仏なのであるからおのれさえ幸せになればいいのである。
空海は即身成仏し、生きながらにして大日如来と一体となった。
これは宇宙と一体化、つまり万物の根源とひとつになったわけであるから無敵である。
無敵であるから何でもできる。
この力を利用して衆生の願いを叶えることができる。
不動明王になり怒りの力で敵を倒す。
これが祈祷である。
まだ成仏できぬ衆生を大日如来が(祈願する僧の代わりになって)救ってやるのである。
空海の凄みはこの祈祷を護摩壇の前で火を炊きマントラを唱えるという劇的なシーンを様式化してみせたところにある。
それも日本式にアレンジして。

空海が幸運であったのはこのパフォーマンスが朝廷や富裕層にバカ受けしたことである。
いやむしろバカ受けするように演出したといった方がいいだろう。
雨乞いの祈祷や貴族の病気を治した(かどうかはわからぬが)ことで彼の名声はさらに高まるのである。


対して最澄は密教がもたらすいわば邪道の効果と当時の世情を読めなかった。
そこに最澄の不幸がある。
唐に旅立つ前は最澄は国家が認めたエリート、空海は一留学生であったのだ。
ところが帰ってみれば空海は本場で認められ真言密教の継承者として経典やら法具やらをてんこ盛りで土産にしてきたため立場が逆転し、遂に覆ることはなかった。

こんなことは今日の展示には直接の関係はない。
展示は空海自筆を含めた書画、唐から持ち帰った法具、そして密教世界を具現化する曼荼羅や仏像である。

空海の書はとみに有名であるが私にはどうもうまさがわからない。
むしろ「三筆」の関係の方がおもしろい。
空海と逸勢は遣唐使船に同乗、漂流し、福州の浜にたどりついた。
福州で長安に行く許可をとるため空海は大使に代わって上申書を書き、たちまち許可された。
文章力もあっただろうが書が優れていたというのも大きかろう。
逸勢は「これは空海にはかなわぬ」と思ったはずである。
空海も逸勢も唐で書の名人の名声を得た。

空海と逸勢は共に唐に渡った学友ということになろうが帰国後、「芸友」が増えた。
嵯峨天皇である。
空海が帰国し筑紫にとどめられ沙汰待ちをしているとき桓武帝崩御の報を聞いた。
空海は「これは風向きが悪いか」と思ったろう。
帝位は桓武の長子が継ぎ平城天皇となるが、空海がまだ罪を許されぬ内に弟、嵯峨天皇に譲位された。
この時空海はようやく京へ帰還した。

平城上皇はふたたび帝位を回復し平城京へ遷都せんとして嵯峨天皇と対立する。
この対立は軍事衝突寸前に上皇の負けで収束、これを薬子の変という。
上京まもない空海は嵯峨天皇のために変事の収束のための大祈祷を実践した。
これが空海の政界デビューといえるだろう。
彼の真言密教は教義においてというより余芸で国権に容れられたのである。

空海に東寺を下賜したのも高野山を開く勅許を与えたのも嵯峨天皇である。
ふたりの親睦と絆を深めたのは「書」であったに違いない。
嵯峨天皇は当時の書家と同様に中国の書聖を手本とした。
空海はまさに唐という芸術最先端の現場を見、現場で芸を深めているのである。
これは話が合う。
彼が書に通じていなければあるいは真言密教の行く末は変わっていたであろう。
「芸は身を助ける」ということである。

二次元の美術ということで展示されているのは真言宗の七祖像、恵果像や曼荼羅。
しかし経年変化で詳細はよくみえない。

密教の法具がいくつもおいてある。
5月に讃岐の善通寺に行ったときみられなかった錫杖頭(国宝)があった。
裏表に如来諸天が彫られており実に細かく造型されている。
五鈷鈴や五鈷杵は空海が唐から招来したもので恵果が空海のためのみに新調し「もって行け」と託されたものである。
独鈷杵は今でも触れれば切れそうなほどに鋭い。
バラモン教では雷神インドラの武器ヴァジュラであり、仏教では帝釈天がこれを持つ。

空海が持ってきた、持っていたというだけで私なぞもう泣きそうになってしまう。
時間がどんどん経ってしまった。
この後は仏像が待っている。



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