扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

北関東周遊 #9 HONDAコレクションホール4 四輪市販車フロア

2020年11月05日 | 自動車・自動二輪など

3階の北棟は四輪市販車を展示。

ここも二輪市販車同様に懐かしさいっぱい。

私が四輪の免許を取ったのが1985年の12月、初めて自分のクルマを持ったのが1987年4月。

中古のアコードハッチバックからアコードセダン、USアコードワゴンと3代アコードを乗り継いだ。

80年代〜90年代のHONDAはスポーツカーやらの若者向け車種が異様に充実かつ洗練されていた。

CityやらCivicやらCR-X、PrerudeにIntegra、頂点にNSXがいた。

私はまだバイクを主とし実用としてしか四輪をみていなかったのでそれらは金欠の若者には高価すぎるクルマでもあった。

懐に余裕があればそれらを乗り倒していたのかもしれない。

 

物というものは記憶を呼び覚ますトリガーになる。

30年前のことを思い出し「この頃のクルマはこうだったなあ」などと思いふけっていると時間を忘れる。

なかなか素敵なスポットである。


北関東周遊 #8 HONDAコレクションホール3 二輪レーサーフロア

2020年11月05日 | 自動車・自動二輪など

3Fに上がってみるとHONDAのレーサーが整然と並んでいる。

その全てが伝説を作ったマシン。

HONDAといえばグランプリの雄。

いちいち全部みていると日が暮れてしまいそうである。

お出迎えは「2RC143とNR500」。

2RC143は1961年にマン島TTで初優勝、1〜5位までを独占した。

いわばレースのHONDA、その起源を作ったマシンである。

NRはHONDAの苦難を象徴する不遇のマシン。

世界GPで一勝も上げられずに開発終了した。

惨敗のマシンを玄関に飾るのがHONDAスピリッツ。

本田宗一郎以来、歴代のトップは「新しいことをやれ」「他のマネをするな」を何より大事にした。

あえて4スト楕円ピストンで挑んだのはその精神の呪縛といえる。

NRの遺産はいくつもあって4ストロークV4エンジンは80〜90年代にTT、耐久レースで黄金期を築いた。

また市販マシンにも私などは大型のハイパフォーマンスエンジンはV4とのイメージが一時期はあった。

 

さて1958年にマン島TTに初参戦したHONDA。

第一期のHONDAレーシング最高の年は1966年、50/125/250/350/500CCの全クラスにおいて全37戦29勝。

史上初の全クラスを制覇したメーカーとなった。

1954年に挑戦宣言をしてから12年。

これを長いとみるか短いとみるかは意見が分かれるところであろうが、1945年の敗戦で多くを失った日本、一技術者が這い上がって頂点を極めるまで21年と考える方がいいかもしれない。

二輪GPの歴史を追っていくと「初●●」はHONDAによるものが多い。

実際はSUZUKIがHONDA参戦の翌年、更に翌年にはYAMAHAも参戦した。

Kawasakiは1968年から北米から二輪レースに参加していく。

日本の4大メーカーはどれも栄光の時代を持っているからレース=HONDAでもない。

中でもHONDAらしさは繰り返すと「最新技術・コンセプト」。

125CCに5気筒DOHCをぶちこむなど他のメーカーはまず考えもしない。

しかもそれで結果を出してしまうから当時のHONDAの技術力、情熱はもの凄い。

 

今日最も拝みたかったのが80年代のGP500マシン。

私がバイクに熱中していた頃、世界を駆け回っていたマシンたちである。

同じ世代のバイク野郎はほとんどが同じ気持ちでいるようだが世界GPがまだTVで中継されることがなかった頃、レースの情報はバイク雑誌が最も早く詳しかった。

私が京都に出てバイクに乗るようになり、レースに興味を持ったのが1983年。

この年はGPレースの中で伝説中の伝説の年。

K.ロバーツとF.スペンサーの間で争われ最終戦で勝者が決まった。

HONDAが撤退以来再びタイトルを取ったのがNS500。

そのチャンピオンマシンは残念ながら展示されていないが同型のものがNRの苦闘のマシンと共に置いてある。

 

1983年と共に記憶されているのが1985年、私が限定解除した年のシーズン。

前年の不調から立ち直ったスペンサーが250CCと500CCに参戦、メーカー/ライダータイトルをダブルで獲得。

この栄光のマシンが2つ展示してある。

 

などなど1台1台にドラマがある。

みているだけで当時の記憶が甦りまさに万感迫ってくる。

書き出すと止まらなくなりそうなのでここでやめておく。

 

 

HONDAコレクションホールレーサーズPart5/第二期二輪レーサー

1979年にWGP500CCクラスに復帰したHONDA SUZUKIのRGΓ、YAMAHAのYZRなど主流の2ストローク4気筒ではなくあえて...

youtube#video

 

 


北関東周遊 #7 HONDAコレクションホール2 二輪市販車フロア

2020年11月05日 | 自動車・自動二輪など

2Fの南側は市販二輪車のコーナー。

入口のお立ち台には1946年製「自転車用補助エンジン」。

まだ創業前の頃に本田宗一郎が試作したもの。

説明板のタイトルが「ホンダの原点」。

隣には「スーパーカブC100」。

1960年に鈴鹿製作所で作られた第一号機という。

HONDAの躍進の基礎となった機種といえ、いまだに生産され続けている化け物マシン。

実家に爺様のカブがあった。

爺様はカブを「ぽっぽ」と言っていたのを思い出す。

さらに鎮座するのは「CB750Four(K0)」。

私が最初にバイクと機種名が結びついたのがこの辺のマシン。

1969年製というから私は5才。

世界初の4気筒マシンの登場で市販バイクの様相が変わった。

「大型バイクは欧米物」が常識が覆る。

バイクの本場で想定以上の反応を得てCB750は猛烈に売れた。

あわてたのがKawasaki、密かに開発中のZを900CC/DOHCに方針変更。

これも名車となったZ1を1972年に世に出す。

これまた爆発的に売れ、4気筒なら日本製というブランドができた。

 

奥には懐かしのバイクがズラリと並んでいる。

嬉しいのは自分が乗っていたマシンがほぼ全部あること。

CB250RS、VF750F、CB750Fが新車のような状態で置いてある。

VF750Fは私が買った1986年あたりでは不人気車で格安だった。

HONDAの歴史からいえば並列4気筒からV型4気筒へ市販車もレーサーも切り替わるタイミング。

意欲作だったが「市場は750は並列4気筒がいい」と伝統を重んじたのである。

 

HONDAの博物館でありながら他メーカーのバイクもあるのもおもしろい。

おかげで我々80年代バイクデビュー組は当時の興奮をより鮮やかに甦らせることができる。

展示の白眉はNR。

言わずと知れた楕円ピストンのV4/32バルブエンジン搭載。

レーサーとして世に出、ほとんど戦績を残せなかった不遇のマシンは市販車となって行動を走った。

私は一度も現物をみたことがなかったがHONDAの魂のマシン、そのエンジンのカットモデルなどみているとつくづく技術の粋を感じる。

 

すでにお腹いっぱいでアタマがクラクラしてきた。

次はさらに興奮必至のレーサー・フロア。

 

HONDAコレクションホールPart2/2輪市販車

1970〜80年代のHONDA市販車 この時代のHONDA車はデザインが統一されています ひときわ威容を放つのはNR

youtube#video

 

 

 


北関東周遊 #6 HONDAコレクションホール1 夢の殿堂へ

2020年11月05日 | 自動車・自動二輪など

本日も快晴。

今日の予定はHONDAコレクションホールのみ。

早起きしてもてぎに向かう。

途中、道の駅サシバの里いちかいで休憩。

「サシバ」とは鷹の一種らしい。

ちょうど「かかし祭り」をやっていて手作り感あふれる案山子が屋外に並んでいる。

コロナ禍の今年のこと、モチーフはアマビエやらお亡くなりになった志村けんなどなど。

鬼滅の刃の主人公もいた。

 

渋滞することもなくツインリンクもてぎ南ゲートに到着。

まだゲートオープン前でしばし待つ。

レースやイベントがない平日のこと、先頭で入場待ち。

検温や手指の消毒を行ってから入場。

 

レースコースを見ながらしばらく行くとコレクションホールに到着。

ほぼ人がおらずゆっくり見物できそう。

エントランスから入場、早速ホンダの歴史的レースマシンが展示されている。

ホンダがこれでF1に初参戦した「RA272」、2輪GPで初優勝した「RC143」。

 

RC143はWGP挑戦2年目の1961年にT.フィリスが第一戦で優勝したマシン。

今から60年前の代物である。

本田宗一郎が1954年にマン島TTに出場を宣言、1959年に約束を果たした。

マン島では優勝できなかったRC142の改良版がRC143、並列2気筒4バルブ125CC、1万4000回転で23馬力を発揮した。

自分が生まれる前の製品がすでに今日の4ストエンジンと同じ機構を持っていた。

馬力こそはるかに及ばないが内燃機関としては同じくらい回っていた。

カウルはアルミの叩き出しでタイヤは驚くほど細く頼りない。

このマシンにまたがってペラペラの革ツナギとお椀のヘルメット、ゴーグルのみで武装したライダーたち。

怖くなかったかといえばウソになろうが実際にマシンをみてみると彼等の勇気に改めて敬意を覚える。

 

四輪の方もおなじみ、田宮のプラモデルでこの型を知っている。

マフラーがむき出して後方に突き出ている。

これも2輪同様、ドライバーが気の毒になるほどアタマが剥き出しで走る形状、今日のF1マシンより相当小さいのが印象的。

 

まだ展示室に行く前から伝説のマシンと遭遇、中にはまだまだお宝満載。


北関東周遊 #5 宇都宮ホテル

2020年11月04日 | ご当地グルメ・土産・名産品

まだ陽があるうちにホテルに向かう。

左手に赤城山系をみて関東平野の玄関口が宇都宮。

 

宿はホテル東日本宇都宮、GoToキャンペーンで大幅割引だったので2食付きにした。

食事は和洋中が選べ、和食のコースにした。

レストランにはほとんど客がおらず気の毒になる。

部屋も快適だった。


北関東周遊 #4 続日本100名城No.114 唐沢山城

2020年11月04日 | 日本100名城・続100名城

世良田から新田荘を行き足利に入る。

ちょうど関東平野の北の端、赤城山の裾野を回って行くと唐沢山城址。

市街地から北上して城山に入っていくとなかなかの登山ルート。

クネクネと曲がる道を行き、標高247mの山頂に着くと城址入口。

唐沢山城は中世の名城のひとつであるが現在では神社の方で有名らしい。

広大な駐車場があり土産物売場も観光地然としている。

 

唐沢山城は上杉謙信が傘下の国衆を率いて猛攻数度、ついに落とせなかった城として名高い。

城の始まりは延長年間に俵藤太藤原秀郷が築城したことで、その子孫佐野氏が居城として手を入れ続けた。

佐野氏は鎌倉公方と管領上杉氏らが始めた関東争乱、北条氏の野望に巻き込まれたものの上手く生き延びた。

立地上、上杉謙信の関東乱入の際には真っ先に攻められる運命にあり雪解けの頃になると謙信がやってきて猛攻を加えられた。

以後、謙信に囲まれれば帰順、上杉が春日山に帰ってしまえば北条方に復すといった外交術で謙信をいらだたせた。

結局謙信は唐沢山城を落とせなかったのである。

その秘訣は城の縄張にあることは登城していくルートですでに解りかけた。

城の虎口にたどり着くまでにひと山登ってくればよいという訳にはいかず複雑かつ急峻な地形を押し登らねばならない。

楠木正成の千早城を攻める幕府方のような様相であったかもしれない。

 

 

さてレストハウスの駐車場の端が虎口、喰違となっていて桝形のように作られている。

ここが西城、堀切にかかった橋を渡ると本丸を含む主要部となる腰曲輪が続いていて南城に至る。

この間上からは横矢が常時かけられるように設計されている。

社務所があるところが南城、眺望が開けていて関東平野を一望、はるかに箱根の方まで見通せる。

謙信に攻められていれば頼みは北条勢の後詰め、援軍はいかにという気分を目にできることは城兵の士気に影響しただろう。

本丸には神社社殿が置かれていてその周囲には高石垣が巡っている。

佐野氏の治世に築かれたものではなさそうで神社整備の際に整備されたのではなかろうか。

防衛上、石垣は関東においては効果は薄く土造りの土塁の方が山城では攻めにくい。

本丸は二の丸を始め堀切で分断された小さな曲輪が取り囲んでいる。

駐車場からは高低差はそれほどでもなく見物に体力が必要でもない。

天気がよければ眺望もよく山城好きには格好のいい城といえよう。

城跡のあちこちに野良ネコが参集しており壮観。

居心地がいいのか人々の世話が行き届いているのかどのネコも丸々と太りのんびりしている。

 

 

動画リンク

https://youtu.be/R7DxKfvCFkk


北関東周遊 #3 世良田東照宮

2020年11月04日 | 世界遺産・国宝・重文

杉山城から北へ行き利根川を渡ると太田市。

クルマ好きにとってはSUBARUの町であるが、歴史好きからすると武士の聖地でもある。

太田市で発祥するのが新田氏、その向こう渡良瀬川を越えた山際が足利氏の本貫となる。

 

新田と足利は清和源氏の血脈を濃く持ち、宗家頼朝の家系が途絶えると源氏の棟梁に近い地位を得た。

平氏の流れを汲む執権北条氏が専横を極めると鎌倉に出仕していた足利高氏が後醍醐帝の誘いを受けて挙兵した。

一方、新田はこれに呼応して鎌倉へ乱入、北条氏滅亡を果たす。

以後の政局は京の支配をめぐって混沌とし関東は江戸時代まで首都の座を西国に譲る。

家康が入国するまでの関東は事実上独立地域として鎌倉公方と関東管領たちが関東平野の国衆を操って戦国を過ごしている。

新田庄あたりをウロウロしていると鼻息荒い源氏のことを思い出して気持ちが晴れやかになる。

 

さて徳川氏は三河松平郷の主となり西三河の覇者となっていくのであるが途中、氏族の綺羅を考えて「徳川は新田の末裔」と名乗り出した。

八幡太郎義家の孫、義重は新田庄を得て新田氏を名乗りその四男義季が得川を苗字としたという。

新田の得川の末裔という徳阿弥なる時宗の遊行僧が三河山奥に流れていって松平太郎左衛門に気に入られて居着いた。

養子となった徳阿弥が松平親氏、その9代後の子孫が家康となる。

家康は織田信長と同盟してその派遣の傍にあり、信長の中立ちで徳川の苗字に復して徳川氏の祖となる。

 

そんな経緯で世良田が徳川将軍家の故郷となったのであるが、徳川氏が新田氏の末裔という説は歴史家のほとんどが詐称と言い切っている。

また家康嫌いの司馬遼太郎さんがその小説の中で意地悪な書き方をしたことから家康は全国的に不人気であるから、太田市が徳川の故郷という意識は一般に低いだろう。

最近では太田市でも得川を徳川と称したとしているようで要は「徳川の故郷」を観光資源にしたいらしいがどうなることやら。

 

世良田に鎮座するのが東照宮。

これは将軍家にとって当然の処置であろう。

そんなことで北関東をぐるっと回る途中、東照宮に寄り道してみた。

一帯は太田市歴史公園として整備されており資料館があったので入ってみた。

 

玄関前広場には太刀を捧げる新田義貞の銅像。

ホールには大河ドラマ「太平記」で足利尊氏役の根津甚八、脇屋義祐役の石原良純が着用した甲冑が展示されていた。

今年の裏大河で太平記が放映中なのでタイムリー。

よく出来たレプリカで30年前の制作時に使用されたものとは思えない保存状態。

思わぬ眼福であった。

 

東照宮の方は財の投入規模は日光などとは比べようもなく、松平の東照宮クラス。

それでも境内はきれいに掃除されていて神職の若い人も親切だった。

 

https://youtu.be/zblc6tf6pi8

 


北関東周遊 #2 続日本100名城No.119 杉山城

2020年11月04日 | 取材・旅行記

菅谷館から北へ5kmに杉山城、続日本100名城に指定された。

近年発掘調査が行われて山内扇谷両上杉氏の抗争下で山内上杉氏により築かれたと考えられている。

さらに地元ボランティアの方々によって草刈りなど整備が行き届いており山城愛好家の間で高評価という。

 

駐車場は城山の北側にあって中学校の間を抜けていくと大手口に続く外郭が現れる。

市野川沿いの独立丘陵の尾根を削平して丸ごと要害化されており尾根の頂上が本郭、尾根筋に沿って曲輪が配置され北へ抜けると搦手口に至る。

杉山城の縄張は非常に凝った作りをしており敵兵の進行をいかに妨げいかに横矢を入れるか入念に設計されている。

一見、自然地形にみえるが人工的に深く空堀を設け、切岸を作っている。

 

杉山城の素晴らしい景観は人手によって整備が行き届いているところにある。

土の城にとって一番厄介なのは樹木、雑草。

特に巨木は眺望を損なうだけでなく縄張の妙をわかりにくくする。

その点、杉山城は南側は完全に樹木が伐採され地肌がよくみえる。

これは発掘調査が行われてまもないからと思われるがいつまでも維持していってもらいたい。

三島の山中城と並び中世城郭を学ぶ上でいい教科書といえるだろう。

嵐山町のこのあたりには中世城郭がいくつも築かれ国の史跡として菅谷館、杉山城の他に小倉城、松山城が選定されている。

松山城は北条氏が受け継いで要害化、秀吉の北条征伐時に北からやってきた上杉前田の連合軍によって陥落した。

真田昌幸、信幸親子も参加している。

 

https://www.youtube.com/watch?v=JNYzme-Y75U

 

 

 

 

 


北関東周遊 #1 続日本100名城No.120 菅谷館

2020年11月04日 | 日本100名城・続100名城

コロナ禍で取材撮影もままならない日々が続いている。

夏場を過ぎてようやく収束気味となってきたがワクチン流通の先行きがみえない以上まだまだ予断を許さない状況である。

そんな不穏な世情の中、GoTo travelなる政府のキャンペーンが行われていて格安で宿泊できる。

この機をとらえて小旅行を企画した。

メインの目的はツインリンクもてぎの中のHONDAコレクションホールを訪ねること、一度は行かねばならぬと思っていた施設である。

 

宿を宇都宮にとり1日目は続100名城に指定されている埼玉西部の城を訪ねることにした。

快晴の中出発、まずは「菅谷館」を訪問、開館前なので先に城跡を見て回る。

 

比企郡菅谷にあるこの城はその地名の通り平安末期の武家草創期には比企氏の勢力下にあった。

比企氏は源頼朝の乳母の甥、比企能員が引き立てられたが鎌倉幕府草創期、北条氏との政争に敗れて没落した。

次に一帯の主となった畠山重忠が居館を当地に置いたことから重忠ゆかりの地とされているようだ。

しかし重忠もまた権力闘争の末に討ち死にする。

菅谷館が100名城に選定された背景は鎌倉期の史跡というよりも中世の山城として遺構がよく残っているからといえる。

城址を巡ってみれば川を背負った河岸段丘に段差を利用して曲輪を作り、空堀と土塁で要所を防御している。

それほど広大というわけでもなさそうだが案内文によれば東京ドーム3個分の敷地という。

朝の散歩にちょうどいい縄張と高低差。

 

 

三ノ郭の資料館に寄ってスタンプを押して杉山城に向かう。

 

100名城No 120–菅谷館

埼玉県比企郡嵐山町の「菅谷館」訪問記録です。 現地の環境音のみです。

youtube#video

 

 

 


高尾うかい竹亭

2020年10月30日 | ご当地グルメ・土産・名産品

義母の伯父夫妻を墓参りにお連れし昼食を高尾の「うかい竹亭」で。

時節柄松茸入りのコースに鮎の塩焼き付、聞けば今週末で鮎は終わりだという。

コロナ禍で飲食業はどこも大変なことになっているようだが、うかいは通常営業のようにみえる。

 

料理はどれも手が込んでいて美味であった。

錦鯉が元気に泳いでいたのが印象的。


調布と新選組

2020年10月28日 | 街道・史跡

コロナ禍が続く。

取材に行けず多摩から出ることもなくなった今年の春夏、感染者数の伸びが落ち着いているがまだまだ余談を許さない状況。

体がなまってしょうがないので近所をぶらぶらすることにしている。

今日は自転車で調布駅まで出たついでに近藤勇の墓参りをしてみた。

 

近藤勇は調布市野水の富農の家宮川家の三男として生まれた。

現在の野川公園のあたり人見街道沿いに生家跡がある。

天然理心流に入門して才能を発揮し近藤周助の養子となる。

「試衛館」の多摩方面へ出稽古を行う内に土方歳三と出会う。

土方や井上源三郎らは日野の生まれ、新選組の初期メンバーは多摩出身者が多い。

近藤は文久3年(1863)に京へ上り新選組を結成、勤皇と佐幕の派閥争いの渦中にあった。

鳥羽伏見の戦いで負けて江戸に撤収、以後負け続けて流山で捕縛されて斬首された。

 

最初に行ってみたのが西光寺、旧甲州街道沿いにあり甲府城を守備する命を受けた近藤らは「甲陽鎮撫隊」を結成、西へ向かう折に立ち寄って休息した。

この時、近藤は大久保剛と改名しており若年寄格の身分を得て長棒引戸の駕籠に乗って現れ地元民の歓待を受けた。

そして故郷に錦を飾って得意満面出発、笹子峠を超える頃には甲府城はとうの昔に新政府の手に落ちており敗走する。

西光寺には仁王門や常夜灯が当時のまま残っているが周囲の環境は21世紀の様相。

往時の面影は全くない。

中高生の頃には新選組のマニアであった私もこの史跡の存在を知らず、最近通りがかりに見つけた。

境内には近藤勇の坐像がある。

意匠は有名な肖像写真から起こしたものであろう。

 

西光寺から北上していくと調布飛行場の向こう、人見街道沿いに近藤勇の生家跡、隣が龍源寺。

板橋の刑場で斬首された近藤勇、首は京に運ばれて三条河原に晒された。

胴体の方は兄と養子勇五郎が刑場から持ち帰り近藤家の菩提寺である龍源寺に埋葬したという。

(諸説あり)

墓は本堂の裏手にあって今日も花など手向けられていた。

 


歴史コラム #51 饅頭と日本のこころ

2020年09月25日 | エッセイ:海の想い出

コラム節目の50回目は砂糖の話。

 

前回砂糖の話をしたももの日本の話まで紙幅が足りなかった。

そこで今回は日本の砂糖事情を書いてみた。

ちょっとひねって饅頭にかこつけるとおもしろかった。

饅頭は中国からの伝来、かの地ではマントウといって蒸しパンのこと。

中身が入った饅頭はパオズという。

中にあんこが入った饅頭の起源には諸説あり鎌倉時代に渡海した聖一国師が博多に持っていった説。

南北朝時代に林浄因なる寧波の人が帰化して奈良で饅頭店を開く。

これが現代に引き継がれた塩瀬総本家となる。

 

饅頭と砂糖は切れぬ間柄、戦国時代に南蛮貿易が始まって砂糖の輸入が開始されると各地の職人が腕を振るい出す。

饅頭普及はひとえに砂糖の安定供給にかかっていた。

江戸時代には数寄者大名が茶の湯の御菓子用につくっていた饅頭、将軍吉宗の肝いりで和三盆の開発が始まると和菓子の定番となり、明治時代にテンサイ由来の砂糖プラントが作られるとようやくあんこが庶民の口に入るようになった。

日本人のこころというのは「思いついたら何でも詰めてしまえ」とばかりにカレーまんやピザまんを世に出す日本人のこと。

 

 

 


歴史コラム #50 甘い汁を吸うのは誰だ

2020年07月31日 | エッセイ:海の想い出

コラム節目の50回目は砂糖の話。

 

当初は御菓子の話を書こうと思っていたが砂糖の話がおもしろいので方針変更。

砂糖が結晶として使用された始まりはどうやらインドらしい。

砂糖の歴史を振り返ると時々の世界王者の変遷がわかるのがおもしろい。

砂糖がコモディティ商品となり大量に消費されるのがコロンブス以後。

スペイン・ポルトガルは大航海時代を迎えて太洋に出て行くモチベーションとして植民地での大規模農園経営をはじめた。

これが先住民の悲劇の始まりである。

作今、欧米において人種差別問題が燃え上がっており、奴隷使役に関わる先人の銅像が倒されている。

コロンブスもまた標的となっている。

彼以降の商人たちが行ったことを思えば差別され酷使された人々の子孫が持つ心情はよくわかる。

日本においても強制労働の問題は薩摩藩と琉球の間の砂糖地獄の例があり、我々も過去のことと一概に片付けられないだろう。

 

欧州においてサトウキビとは別の原料、テンサイ由来の砂糖が精製できるようになると折からの産業革命によって安価な安定供給が可能になる。

日本においてもまた同様。

「甘い汁を吸う」のはかつては悪徳業者と腐敗役人であったが、砂糖がもたらすカロリーオーバーは肥満の原因、糖尿病の元凶となった今、庶民まで含めて甘い汁を誰しも吸えるようになったことのもじり。

高額所得者ほど甘い汁を嫌うとは史上初の事態である。


歴史コラム #49 桃太郎伝説と鬼ヶ島

2020年05月31日 | エッセイ:海の想い出

コラム49回は前回積み残しの桃太郎話。

 

桃太郎伝説はいろいろな作家が解釈と再定義を試みている。

中でも芥川龍之介説はおもしろい。

桃太郎が生まれる桃の実は例のイザナギを助けた桃の木から落ちたものとする。

黄泉の国産の桃太郎は用はニート、ほとほと愛想が尽きた爺婆に追い出された桃太郎は財宝に目がくらんだ犬猿雉と共に鬼の楽園に乱入、乱暴狼藉の末に鬼の子を人質に故郷に凱旋というのがそのストーリー。

そして鬼の子が長じて人間に復讐開始・・・

 

というのを枕に自分も桃太郎の再定義を披露してみた。

といっても岡山の伝説の紹介、これには昔、鬼ノ城に上った経験を元にしている。

備中の平野を北へ行くと吉備津神社の向こうに備中高松城、鬼ノ城は平野の尽きるところにある。

かつて吉備国は「穴海」といって瀬戸内海が内陸まで深く入り込んでいた。

桃太郎が攻め込んだ鬼ヶ島は海の向こうにあることになっているが、畿内から攻め込んだとすれば鬼ノ城は島のように見えただろう。

この仮設を元にしているのが岡山の解釈。

ヤマト政権から派遣された吉備津彦が地元豪族温羅を退治した史実が桃太郎と鬼に仮託されているという。

 

鬼ノ城から眼下を見おろすと遠くに瀬戸内海、平野の大部分を海と考えれば「おお海を桃太郎が進んでくるわ」と想像できる。

この経験を思い出して桃太郎話を書いた。

高松城の水攻めをした羽柴秀吉を悪のりで付け加えた。

 


「歴史で紐解く地方創生 Vol.3 島津一族」

2020年05月16日 | 文筆業として

単著18作目、紐解くシリーズ第3作。

昨年5月末に薩摩半島一周取材、以来半年閉じこもってようやく年明けに初稿。

薩摩藩成立までの当主を全て取り上げた。

信長、そして秀吉と家康との駆け引きは書いているこちらがはらはらした。

スマートでクレバーな印象がある島津家ではあるがそれは表面上のこと、その裏に大きな犠牲がある。

とかく「最も古い武家」で片付けられがちな島津家、家を保つということがどれほど大変かを思い知らされた。

戦国ものは織田、北条、武田、上杉、そして島津とやってきて大物は毛利、そして徳川、これらの料理法を考えておきたい。