日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

マイケル・ジャクソンの死に思う“スーパースターの孤独”

2009-06-27 | ニュース雑感
昨日来マイケル・ジャクソンさんの急死関連のニュースが、テレビを賑わしています。

ホント、驚きました。ちょうどその前日に人と「マイケルの7月に予定されている50回の英国公演は本当に開催できるのか」という話題をしていた矢先でもありましたので…。「本当にできるのか」と私が思った理由は、長期の休養による“なまった”体に年齢的な体力の衰えが追い打ちをかける中、マイケル自身が満足のいく出来にもっていけるのかいささか疑問であるという点でした。マイケルは、知る人ぞ知る完璧主義者。全盛時のあの素晴らしいダンスは、天賦の才もあるにはあるものの、最低1日8時間は費やすと言われた驚異的な練習量があってはじめてなし得たものなのです。

しかも今回は、彼自身の完璧主義だけではなく作られた「マイケル・ジャクソン像」に求められる“完璧さ”との戦いもあったハズです。大きく立ちはだかる長いブランクと体力の衰え、その現実がどれだけ無理な練習を強いることになるのか、その点を私は密かに懸念していました。スーパースターであるが故、完璧でなくてはならないという宿命を背負わされ、「マイケル・ジャクソン」というブランドに似合わない落ち度は絶対に許されないないというプレッシャーは、我々の想像を絶する領域に達していたに違いありません。そんな状況下5月に主催者側から延期を示唆するコメントが出され、私だけではない多くの人が、もしかすると「中止」または「無期延期」もあるかもしれないと薄々感じていたであろう矢先の訃報でした。

マイケルは、ポピュラー音楽史上最高売り上げを記録したアルバム「スリラー」と、MTV時代突入の契機をつくったそのプロモーション・ビデオによる功績をもって、後世に長く語り継がれるであろう超スーパースターです。惜しむらくは、その後彼の性癖にまつわるスキャンダルがあまりに多いことでした。ただ彼の側に立って考えてみれば、小さい子供のころからジャクソンファイブのマイケルとしてスター街道を歩み続けた訳ですから、多少浮世離れした感覚になってしまったこともやむを得ないのかもしれません。加えてあまりにも売れすぎてしまったことによる注目度の高まりと期待に応え続けるプレッシャーが、次第に彼の肉体と精神を蝕んでいったであろうことは想像に難くないのです。これらが彼にとって、不幸のはじまりであったのだと思います。

彼の数々のスキャンダルは、“スーパースターの孤独”、“売れ過ぎててしまうことの不幸”に他なりません。同じビッグスターのエルトン・ジョンは、02年の「ディス・トレイン」という曲のプロモーション・ビデオで、人気絶頂期にあった70年代に自身がクスリに走り自殺未遂に追い込まれるほど苦しんだ“スーパースターの孤独”を見事に描き切っています。「(人生の)汽車は、もうそこに止まっていてはくれない…」、ようやく辿りついた欲しいのものすべてが手に入るはずの“スターの座”は、実は何ひとつとして自分の自由にならない場所だった。スーパースターたちは、あり余るほどのお金と華やかなスポットライトと引き換えに、個としての「自由」を奪われていくのです。

「スーパースターの孤独」-。マイケル・ジャクソンの死は、人間の本当の幸せとは何かについて、改めて考えさせられる出来事でありました。
心よりご冥福をお祈りいたします。

★動画「Elton John - This Train Don't Stop There Anymore」
http://www.youtube.com/watch?v=8LRZsnTT1HM&feature=related

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