日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№69~路線変更で大成功!POPの魔術師バンド

2009-04-29 | 洋楽
祝日の恒例、ユルネタと言う訳で〈70年代の100枚〉です。

70年代に英米日各国のミュージック・シーンでかなりの足跡を残しながら、巷で見かける「名盤」「決定盤」選び企画では、確実に落選の憂き目にあうアーティストがいます。エレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO)はその代表選手です。

№69     「オーロラの救世主/エレクトリック・ライト・オーケストラ」

バンドの生い立ちを話し始めると長くなるのでかいつまんで話せば、ロイ・ウッドとジェフ・リンの二頭体制で弦楽三重奏を従えて「ロックとクラシックの融合」を目指し英国でスタートしたのが71年。ロイはすぐに脱退しジェフが主導権を握ることで、小難しい路線は徐々にポップ路線に方向修正され、74年にオーケストレーション・バラードの「見果てぬ想い」が全米9位になるヒットを記録し一躍注目を集めます。翌75年にはアルバム「フェイス・ザ・ミュージック」とシングル「イーヴル・ウーマン」「ストレンジ・マジック」が連続ヒットし、英米での人気を決定づけました。

そして、彼らの黄金時代の幕開けとなったのが76年リリースのこのアルバム「オーロラの救世主」です。初期のある意味プログレ的とも言える堅苦ししい音楽づくりはすっかり影をひそめ、パワー・ポップとも見まごうほどのメロディアスな楽曲が並ぶ一大ポップ・ロック・アルバムに仕上がっています。それはビートルズを愛してやまないジェフ・リンその人の、熱い想いが曲づくりやアレンジすべてにわたって確かな形となって現れた作品、まさにそう表現して間違いのないところであると思います。

「ビートルズよりもビートルズらしい曲を持ったバンド」と評された彼らですが、その真骨頂とも言えるのがA2「テレフォン・ライン」でしょう。プッシュフォンのSEイントロからマッカートニー的なフィルター・ボーカルでの歌い出しに、「ビートルズが解散していなければ、こんな曲を作っていただろう」と言われたものです。全米7位というそれまでの彼らの最高位を記録、日本でもラジオで頻繁にオンエアされ人気に火がついたのでした。A面トップからB面の最後まで、とにかく楽しくポップなジェフ・リン節炸裂と言った感じで、どの曲もシングル・カットできそうな楽曲粒ぞろいのアルバムです。現実にA2の他にも英米日各国で、A3「ロッカリア」B2「リビング・シング」B4「ドゥ・ヤ」などがシングルカットされ、それぞれがヒットを記録しています。アルバムの最高位は5位。

彼らはこの後2枚組「アウト・オブ・ザ・ブルー(77年、全米4位)」、ディスコ路線を取り入れた「ディスカバリー(79年、全米5位)」と立て続けにヒット・アルバムをリリース。本作とあわせ、ジャケットに共通のバンド・ロゴをあしらったデザインから、ELO三部作と言われています。意外に知られていないことですが、彼らは70年代に最も多くの「ビルボードTOP40ヒット」を持つバンドでもあり本企画への登場は当然のこと、世の「名盤」「定盤」「決定盤」選び企画にも堂々登場して全くおかしくないアーティストなのです。したり顔の評論家さんたちの基準では、ポップ過ぎる彼らを選ぶのはどうも「恥ずかしい」ことのようで、常に敬遠されていますが…。おかしなことですよね。

ジェフ・リンは80年代後半以降はプロデューサーとしても活躍し、ジョージ・ハリスンの作品を手掛け共演した(トラベリング・ウイルベリーズ)ことをきっかけとして、アンソロジー・プロジェクトの「フリー・アズ・ア・バード」で遂に憧れのビートルズをプロデュース。“世紀末に登場した5人目のビートルズ”として、その名を歴史に刻むことになったのです。彼のアレンジの特徴はELO的な分厚いキーボード&ストリングス・サウンドで、あのフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」との比較から「現代版ウォール・オブ・サウンド」とも呼ばれています。ロイ・オービソン、デル・シャノン、トム・ぺティ等々、彼のプロデュース作はその特徴あるサウンドから聞けばすぐに分かります。

余談ですが、パフィーのデビュー曲「アジアの純真」は音楽オマージュの天才奥田民生の作曲&アレンジですが、完全無欠のELOサウンドでした。若い人たちは分からんかったでしょうが、70年代洋楽ファンは皆思わずニヤリとさせられたものです。