-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

背炙り峠へ向かう途中の居合・熊野神社

2015-11-06 21:15:24 | 歴史

 山形を出発して背炙り峠を越えて畑沢へ行くには、村山市林崎で国道13号線から東に抜ける道を通るのが一般的です。村山市楯岡にある「村山道の駅」を過ぎて、さらにJR線を跨ぐ陸橋を越えてしばらくすると、右側(東側)に大きな鳥居が見えます。直ぐの交差点で右へ曲がり大鳥居へ向かいます。大鳥居は道路を跨いでいます。この道路は私道ではないので市道だと思うのですが、公共的な施設に宗教的な建造物が立っています。外にも羽黒山へ通じる道路、蔵王温泉へ登る道路上にもあったような気がします。宗教的な建造物でも、例えばキリスト教やイスラム教などのものであったら喧々諤々と問題になったのでしょうが、日本の神様や仏様の場合は問題にはなっていないようです。しかし、この村山市内の大鳥居は、観光地でもない場所なので少々の違和感があります。まあ、いいじゃないでしょうか。鳥居の正面の額に、「熊野・居合 両神社」とあります。しかし、神社はこの大鳥居から約100m先にあります。

 先ほどの大鳥居からまっすぐに進むと、神社の参道が左側に伸びています。参道の奥に再び大きな鳥居が立っていました。正面のトラックは、雪囲いの準備に来たものです。

 やはり、この鳥居にも「熊野・居合 両神社」の額がかけられています。しかし、上の写真の右側を御覧いただくと、「日本一社 居合神社」の石柱があり、そこには「熊野」の文字がありません。

  神社境内には、神社の由来などを説明している立て看板があります。それによりますと、林崎地区に初めて熊野神社が祀られたのは、大同二年(西暦807年)だそうです。平安時代の初期に当たり、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷(東北)に攻め入ってから5、6年経ったころです。Wikipediaによりますと、このころに東北各地で神社の創建があったということです。村山市のこの熊野神社もその一つのようです。大和朝廷の力が東北にまで影響するようになり、西の神様が東にやってきました。そのことを考えると私はありがたくないのですが、まあいいじゃないでしょうか。

 さて、その神様を林崎勘助がお詣りしながら居合術の腕を上げて、西暦1561年ににっくき父親の敵を討ったのだそうです。私が説明すると、こんな簡単な内容になってしまいます。そんなことで、二つの神社「両神社」だそうです。

 ところで、林崎勘助が修行した場所は、畑沢の隣村である細野地区だと伝えられています。細野地区では毎年、居合道演武会が行われています。林崎と細野に挟まれている畑沢には、林崎勘助にまつわる伝説は全くありません。

 社(やしろ)を拝もうと上を見ますと、「林崎大明神」となっています。やはり、「熊野」がなくなっています。林崎勘助だけが神様です。建造する時には一応、熊野と居合の両神社との形にしましたが、目的が「居合」だったので、最後には林崎勘助だけの社になったのかなと勘繰りました。

 神社の北東側には、居合術の武道館が建てられています。二棟の立派な建物です。

 建物入り口の基礎部分に、石板が嵌めこまれていました。それによると、昭和54年に建てられたことが分かります。財団法人名になっていますが、恐らく村山市役所の外郭団体でしょう。

 熊野・居合両神社の豪華な建物とは対象的に、昔から地元の人たちに守られてきた祠群がありました。真ん中の祠は竹駒稲荷神社、石で造られた祠が四体、さらに庚申塔が一体です。私はこれらの小さい祠の方が好きです。

 そんなことで、畑沢へ行く途中で立ち寄ってみたらいかがでしょうか。

コメント
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