-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

新たに石の祠(石祠)を発見

2015-11-09 20:48:57 | 歴史

 千鳥川を調査して帰ろうと林道を歩いていたところ、遠くで夕日を受けて白く輝く角ばった物体が見えました。道路から外れて近づくと、祠であることが分かりました。郷土史などに何の記録もありませんし、村の人から聞いたこともない石祠です。紅葉の中に佇(たたず)む祠は、「森の精霊が宿る小さな家」にも見え、夕日を浴びて光っている様子は、神々しくもあります。


 右側の祠は肌理(きめ)の細かい凝灰岩から作られています。部屋に当たる前面には格子状の模様があります。何らかの神様を意味するものなのか、それとも扉のようなものを意味するものなのかは分かりません。この祠の右の側面には、「大正十五年 旧八月」と刻まれていました。この年月は何を意味するのでしょうか。この祠の近くには、人家がありましたが、数十年前に尾花沢市の外に引っ越されました。この祠はその家だけの祠のようです。私が聞いた話では、ここにあった家は昔、下畑沢からこの場所(清水畑の南端)へ引っ越したとのことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少し話が脱線しますが、昔、下畑沢から清水畑の奥へ引っ越しをした家がニ軒あったそうです。沼沢へ一軒、宝沢の入り口に一軒で、どちらも一軒家です。ニ軒とも下畑沢の徳専寺周辺にあったようですが、明治に入ってから街道が今の県道の位置に変わったために、家が街道から離れてしまいました。街道が変わったために引っ越したのか、それともほかに理由があったのかは分かりません。

 ところで、この祠を発見したことによって、気づいたことがあります。沼沢にあった祠の所有者も、引っ越した家だったということです。沼沢の祠には「明治三十年七月二十六日」と刻まれていました。引っ越しをするというのは、大きな期待がある一方、大きな不安も背負っていたはずです。不安を払拭して家内安全を祈願する「神様や仏さま」が必要だったのでしょう。刻まれた年月は、その場所に引越した年月を記したものでしょう。そして、引っ越す前の下畑沢に家があった時は、荒屋敷の稲荷神社が守り神だったのでしょうが、そこから遠く離れて守り神がなくなったので、自分で守り神を祀ったものと思われます。昔は必ず守り神があったというよりも、必要だったようです。くどい様ですが、向かい地区は熊野神社、荒屋敷は稲荷神社、中畑沢は稲荷神社、上畑沢は地蔵堂がそれぞれの地区の守り神でした。

 

 さて、本題へ戻ります。左の祠は凝灰岩ですが、右の祠とは大分、性質が異なる凝灰岩です。粒子が粗くて表面に小さな窪みが沢山あります。畑沢の凝灰岩ではなく、楯岡で産する凝灰岩に似ています。この祠の右側面にも年月が刻まれていました。表面が大分、風化していますので、文字もかなり分かりずらくなっていました。しかし、右側の祠で年月を読み取れた「大正十五年」という先入観を持って読んでみましたところ、「大正十▢年」であるようです。「▢」のところは、いかなる先入観でも読み取れませんでした。それでも、「五」であろうことは想像できます。

 

 二つの祠の周囲はきれいに草刈りされていて、新しい蝋燭も供えてありました。遠くへ引っ越されても時々、故郷に帰られてお詣りされているようです。今でも立派な家の「守り神」です。

 

 祠がある場所には、椿の木があります。神聖な場所には必ずこの木が植えられています。木の種類はユキツバキのようです。この時期には花がなくて葉しかありませんので、断定できかねるところがありますが、畑沢で昔から植えられている様子を見ると、まず間違いないかと思います。祠を持っている家は畑沢では四軒あり、そのどこの家でもユキツバキが植えられています。祠の近くに必ず植えられたもののようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする