-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

「小三郎」さんがいました。

2015-05-28 19:32:19 | 歴史

 前回は背中炙り峠の楯に由来する「一の切」などの地名について投稿しましたが、まだ「小三郎」と「平三郎」と言う地名についての考察をしておりません。


 ところが、うれしい情報がありました。今年4月15日の畑沢祭における熊野神社でのことです。「有路」姓について話をしていた時に、ある先輩が、
「松尾芭蕉が泊まった封人の家は、野辺沢(延沢)家の家臣だった有路が先祖である」
と話してくれました。後日、そのことを思い出してインターネットで封人の家を調べたところ、封人の家は最上町堺田の名主で、先祖は野辺沢家の家臣であった小三郎である旨が記載されていました。

 ところで、松尾芭蕉は雨天のために封人の家で何泊かを余儀なくされ、「蚤虱 馬が尿する枕元」の句を作りました。その光景を畑沢出身者には、直ぐに思い浮かべることができます。昔の農家では家畜を大事に飼育しました。江戸時代だけでなく、昭和40年代でもそのようなやり方をしていました。同じ屋根の下で、土間を隔てて馬屋(畑沢の言葉では「まや」)が作られていました。居間で焚く囲炉裏の温かさは、「まや」にも及びます。ところが家畜は、その「まや」の中で尿や糞も排出します。居間にいると、その時の音が聞こえました。汚いようですが、慣れると何とも感じません。


 さて、「小三郎?」、どこかで聞いたことがあります。「背中炙り峠の地名にも小三郎があったような気がする」と、確認しましたら、やはり同じく「小三郎」です。ここまで来ますと、私の頭はパチッパチッと火花を出しながら短絡し始めました。証拠に基づく順序だった推察ではありません。単なる短絡反応です。しかし、これが私の唯一持っている格調高い能力です。もう私の頭では、最上町の小三郎は、楯跡に残っている小三郎と同一人物になっています。続きは、そのうちに投稿します。

 

下の写真は、今年の4月から常盤小学校となった場所に建っている野辺沢城を説明看板です。


 全く関係ない話ですが、私は受験勉強中です。ある資格を取得するために、寝る時間は惜しまず、飲む時間も惜しまず、とりあえず必死に勉強しています。そのために、頭の中はショッチュウ、バチバチと音をたてています。しかも、右から入った知識は頭の中に長く留まることなく左へとスーッと抜けていきます。実にスムーズです。昔、鴨さんが方丈記とか言う書で、「淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)は、かつ消えかつ結びて久しく留まることなし」などとおっしゃっていたそうですが、「淀み」を頭に、「泡沫」を知識に置き換えると、まさしく私の今の状態です。年を取ると言うことはこういうことなんですね。

 ということで、投稿に時間がかかることをお許しください。言い訳ですね。