-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

不思議な地名についての考察

2015-05-05 12:11:10 | 歴史

 畑沢の最南端(千鳥川の最上流部)に、沼沢(又は沼ヶ沢)があります。その沢から西側に小さな沢(谷)が何本も並行して枝分かれしています。その小さな沢(谷)には、不思議な名前が付いています。以前に畑沢の地名を取り上げて投稿してきましたが、その地名についての考察は一切、しておりません。その地名は、「小三郎」「平三郎」「一の切(きり)」「二の切」「三の切」です。この地名を知っている畑沢の人も少なくなりした。普通、沢(谷)の名称ならば、「〇〇沢」などと言われます。ところが、前の二つは人の名前であり、後の三つは関所の様な名前です。

 私は小学生のころに父親から、

「沼澤の奥には一の切、二の切、三の切というところがある」

「昔、侍がいたころに、ずっと奥に牢屋があった。牢屋へ行く前の関所だったところだ」

と教えられました。素直な私はそままに受け止めていましたが、素直な子供でも大きくなると、父親の話を疑うようになりました。全く根拠がないのです。その後、畑沢の長老たちに聞いても何方も御存知ありませんでした。決して知ったかぶりに適当なことを言う方々ではありません。そうすると、私の父親の話は何だったのでしょう。どうも、私の父親は息子と同じで、想像するのが好きだったようです。

 さて、昨年11月に背中炙り峠(古道の峠)から続く尾根を南へ探検しました。一昨年に大平山に登って峠を見下ろした時に、そこ(尾根)に何かが隠れている気がしたからです。やはり、ありました。ひたすら進んだ時に、突然、尾根が断ち切られていました。「堀切」と呼ばれる城の防御施設です。ここの尾根は左右の傾斜が60度もあろうかと思われる急斜面です。それだけでも十分なほどの険しさですが、さらに尾根を断ち切って虎口と呼ばれる通路以外は通れないように両脇の斜面を削ってあります。それが三ケ所もありました。

 野辺沢城の出城としてのがあったことは、これまでも何度か投稿してきましたところです。楯には曲輪があり、その曲輪の中と縁に大きくて深い堀切があります。このことは、「南出羽の城(保角里志 著)」に詳しく書かれています。しかし、そこから南へつながる尾根にも堀切があったのです。その曲輪から離れた場所の堀切と「一の切」「二の切」「三の切」の地名が対応している気がします。一の切と二の切の奥には確かに堀切があります。三の切の奥がかなり怪しくなります。三の切の奥が尾根になるべき所が平場になっていて、直接、堀切へ繫がっていないからです。三の切の奥も不思議な所です。それでも、三の切を奥に進めば堀切へ到達するとも言えるようではあります。

 そこで、結論です。「一の切」「二の切」「三の切」の地名は、尾根にある堀切を意味していただろうということです。「この沢(谷)を登っていくと、どこそこの堀切がある」と言っていると思うのです。他には考えられない地名です。ただし、楯が作られたのは、今から400年以上も前のことですので、地名が現在の場所と必ずしも合致するとは限らないのではないかとも思えます。字(あざ)名もありませんで、単なる口伝で残されてきた地名です。それにしても、楯跡そのものの存在がよく知られていなかったのに、楯と関係する地名だけが残っているのは大変、面白いことです。

 

 では、「小三郎」「平三郎」は、何を意味しているのでしょうか。ただ言えることは間違いなく、人名であることです。「人」とは、当然、楯を守っていた人ではなかったでしょうか。二人はそれぞれ持ち分があり、それぞれが別の沢(谷)を担当していたと見るべきかと思います。二つの名前も似ています。小三郎は平三郎の息子のような気がします。もしも、そうだとすれば、背中炙り峠の楯は、ある家臣の一家で守っていたことになります。その子孫が畑沢にまだいるのかもしれません。