-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

幕末期における畑沢出身の大スケールな人物(その4)

2014-02-19 16:09:19 | 歴史

 次に豊島☆☆☆の名が「尾花沢市史の研究」と「尾花沢市史」に出てくるのは、先の嘆願書が出されてから15年後のこと、豊島☆☆☆51歳です。直接、その事件に入る前に、そのころの時代背景を素人なりに説明しておきます。

 江戸時代、天領から徴収された年貢米は、大石田から最上川を下って酒田へ運ばれ、そこから日本海を西へ回って江戸へ運ばれます。その際、船賃などが村の負担になります。そればかりか、昔のことですから、倉庫も完全ではありませんし、船の中の設備も不十分極まりないものですが、途中で米が虫に食われたり更(ふけ)てしまった時も、村が負担しなければなりません。つまり、年貢を納めても、江戸へ運ばれる途中で減った分は全て村が負担しなければなりません。ところが、村が年貢米を船積みしても、船には村人が乗っていませんので、運ぶ途中での様子が分かりません。実際、不正なことがしばしば起きていたようでもあります。そのために、村人と船方との間では、トラブルが起きていました。それに対して、村名主(村役人)たちの考え方は、天保14年(1843年)の次の記録に出ています。


差上申御請証文之事
大石田三町ノ分尾花沢ニ引続船方役所モ有方河岸附並ノ場所ニテ他所ノ者共モ立入多ク百姓方船方兎角不合之趣相聞不穏趣、百姓ハ農業ヲ専ラ出精御国恩ノ難有ヲ辯ヘ他ニ不構朝ヨリ耕作ニ出、夕日入迄出精可致候。左候得バ船方與不穏ノ訳モ無之候。右之通可相守於不取用ハ急度事申付候。 

 この古文書の前の一部と後ろの一部が解読できませんが、大凡を次のように読み取ることができます。素人でも原文の字面を眺めていると、何となく意味が伝わってきますので、皆さんも挑戦してみてください。

―――――スビタレによる解読――――――――
 大石田には大石田と尾花沢の船の番所があります。その場所へ他の場所から来た者どもが立ち入っているのが多く、百姓たちは船方と兎角(とかく)合わないとの趣(おもむき;雰囲気)があるやに聞こえていて穏やかならない趣がある。百姓は専ら農業に精を出して、お国の恩を弁(わきま)えて他のことには構わず、朝から耕作に出て、夕日が沈むまで精を出すべきである。そのようにすれば、船方との間が穏やかならざる訳もなくなるのである。
――――――――――――――――――
 と言っているのですが、読んでいて段々と腹が立ってきます。要するに「百姓はつべこず言わずに、働いていりゃいいんだ」となります。これでは、村人には納得できません。とうとう、豊島☆☆☆が立ち上がります。最初、村の名主を通して村役人へ申し入れましたが、取り調べをしてくれません。それではと、代官所へ訴えました。弘化5年(1848年)二月に延沢村、古殿組、阿ら町組(この時は、畑沢村は入っていない。)の豊島☆☆☆ら3人の名前で、柴橋役所へ訴状を出しました。その内容の一部は次のとおりです。

 乍恐以書付奉願上候
当御代官所羽州村山郡延沢村阿ら町組古殿組百姓惣代☆☆☆吉兵衛源八乍恐一同奉申上候
御廻米川舟御積立之節さし取米並郡中入用之義ニ付同村役人共江相預置候越左奉申上候
一、 御廻米川舟御積立之節川岸場ニおゐて御米壱俵多ニ大成さしを以テ御米をさし取夫を板に取被成御改右米さし取以儘差戻し不致其の儘ニ差置是ニ而は俵之升目相減此分郡中一統之俵数ニ掛て見候時ハ多分之石数ニ相成損毛不少間以来は御米を俵江差戻しニ相成候様被成下置候ハハ御米俵之升目減不中百姓相助り可申候間此段差勤被下置度様口上を以村役人中江度々相預置候。
是ハ右之義去未三月中川岸ニおゐて村役人中江相願其後是迄同人共江度々相願置候義ニ御座候
―――――スビタレによる解読――――――――
 恐れながら書状を以て、願い奉(たてまつ)り候(そうろう)
当お代官所の羽州(山形県と秋田県)村山郡(大よそ、現在の東南村山、西村山、北村山にあたる。)延沢村阿ら町組(荒町)及び古殿組の惣代(総代)の☆☆☆、喜兵衛、源八が、恐れながら一同で申上げ候。
一、 御廻米(江戸へ運ぶ年貢米)を川舟へ積む時、川岸で一俵ごとに大成さし※で米を板に差し取って、そのまま俵に戻しません。これでは俵に入っている米が減ってしまい、村中の俵分となると、その量は多くの石高の損耗になってしまいます。今後は差しとった米を俵に戻してもらえれば、俵の内容量も減らないで百姓は助かること申上げ、このようにやって下さるよう口頭で村役人(村山郡の惣代)へ何度もお願いしてきましたが、預かり置かれた状態です。
このことは去年(弘化4年未)の三月中には、川岸場で村役人へもお願いをし、その後もこれまでに私たちは何度もお願いしてきました。

大成さし;米を検査する時に使う道具で、俵へ突き刺して米を取り出す物。具体的な形は分からないが、俵を使っていた昭和40年代ごろまでは、米を出荷する時に農林省食糧事務所による「米検査」と称する径2.5cmほどの金属の筒の上半分が切り取られた形をしている物が使われていました。「大成さし」もこれと同じような物だったかもしれません。
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 原文の解読は、まあまあこのようなところです。米を検査する役人とそれにグルとなっている人達のせせこましさが見えます。いつでも、どこでも、役人の悪いところです。そして、幾重にも搾り取られる百姓たちの苦しみと怒りがあります。

 ところで、この弘化5年の出来事については、「尾花沢市史の研究」と「尾花沢市史」にも掲載されていないものがあるようです。「尾花沢市史」には、訴えの内容について、さらに次の旨のことが記載されています。


―――――「尾花沢市史」の記載内容を要約――――――――――    
 弘化元年(1844年)に大阪へ運んだ年貢米についての役所の俵の受払状況、同年の二月から現在(弘化5年)までの年貢を江戸へ運ぶ廻米会所で各村々へ村山郡で割り当てた諸経費の内容、品物、会に来た書状及び上納した書状等を全部、見せてほしい。
 この件については、村名主を通して村山郡の惣代などへもお願いしましたが、聞き入れてもらえませんでした。私たちは安心できませんので、どうか、役所で明らかにしてください。
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 というものでした。今で言うところの「公文書公開」を請求しました。秘密保護法とは、全く逆の考え方です。ところで、公文書公開条例を全国で最初に開始したのは、山形県金山町です。
 この件で、豊島☆☆☆は江戸へ行くように命じられました。延沢村の名主と豊島☆☆☆の親戚たちは豊島☆☆☆を救うために、帰してくれるよう必死に尾花沢役所へお願いをし、ようやく1年後に豊島☆☆☆は帰宅できました。


 豊島☆☆☆が江戸へ行っている間に、残された延沢村の名主と豊島☆☆☆の後継ぎたちが、今度は柴橋役所へ同年の3月に同様の訴状を提出しました。


 この一連の豊島☆☆☆の働きは、地域のリーダーとして身を挺して権力の不正に立ち向かったものです。これほどの覚悟と実行力が備わっていた人物は、なかなか現れるものではないでしょう。今どきのリーダーと自称する方々は、利権に群がり、強者に媚びて、弱者が虐げられても見向きもしません。
 ところで、この訴えの結果、役所がどのような措置を取ったかは、「尾花沢市史の研究」と「尾花沢市史」のどちらにも記述がありません。私の希望としては、「役人が訴えにより自らの非を認め、以後、正しく行われるようになった」となって欲しいのですが、どうでしょう。相手が役人ですから、どうなったか分かりません。でも、結果がどうあれ、豊島☆☆☆は、これで怯むような人物ではありません。専門家たちは、この事件を「長吉一件」と言っています。長吉といのは、人の名前のように見えますが、何故にこのような名称なのかは、この事件の内容からは推察できません。