大平山から見た背中炙り峠
畑沢村、延沢村、細野村の反論は、いよいよ宿側の非道ぶりを攻撃します。読んでいくと、段々と腹が立ってきますので、落ち着いてお読みください。まるで時代劇で出てくる「ごろつき」が、弱い立場の村人を強請(ゆす)っている光景が見えてきます。ところで、一つの文がだらだらと長く繋がっているため、読みにくいところが沢山あります。御勘弁下さい。
読む前に用語の説明をしておきます。
助郷;大名が参勤交替時に宿を利用する際に、宿場だけでは手が足りないので、近隣から手伝いに行かなければならない決まりになっていた。畑村村、延沢村、細野村などは尾花沢宿の助郷になっていた。
問屋;今の流通段階で卸をする「問屋(とんや)」ではなく、江戸時代における宿場のまとめ役。
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将(まさ)に、私どもは、尾花沢村、土生田村、本飯田村三宿の助郷※で御座いますが、訴訟人どもが申し立てている内容は、諸侯(大名)様方の継立てに事寄せて、私どもの村から産出するものを遠回りさせて、荷口と名付けて銭を強請(ゆすり)取ってながら、百姓が売る物などを不当に購入する存念と見え、強欲無道、言語道断にございます。
そればかりか、聞くところによりますと、尾花沢村では助郷をしている二十程の村々から、前の年の暮れに人馬を雇い銭と名付けて、金銭を受け取っていました。それにも拘わらず、御大名様方が通行されるときには、人馬を差し出さないで、この分の人馬を村々へ割り当ててしまったために、村々の人馬の割り当てが格別に多くなってしまいました。前の年に集めた金銭は、全くの私欲にしてしまいました。問屋職に似合わない不正のものどもと、専らの風聞でございます。もし、このことが相違ないとすれば、助郷村々の百姓は苦しい立場に置かれ、難渋に及んで難しいことで御座います。
既に先年に取り決めて、近くの村々の産物は大石田並びにその外へでも儲けのある方へ売払っても、尾花沢村で酒代をゆすり取らないことを百姓代表の印で證文を文化年間に役人へ差し出しておきながら、このことを反故(約束を破ること)にして、外の村々へは駄送の品を差し止めするよう御役所へ願い出ることは、甚だ不法なことで御座います。
そのうえ尾花沢の小百姓どもが、大勢で雪の時期に延沢村地内の取上橋を渡ってきて、古殿組と九日町が持っている林を強引に伐採したので、古殿組は番をする人を置かなければならず、百姓の出費も少なくありません。
そのうえ、廻米(江戸へ送る年貢米)を大石田川岸へ雪車(「そり」か)で運んでいた時に、道作り代と称して銭を強請取り、差し出さないと喧嘩を仕掛け、怖ろしく強引な振舞で御座います。
なおまた、私どもの村々では雪の時期に、昔から船板と材木等を大石田村へ引いて届けてまいりましたのを、船板と材木等を私どもには引かせず、尾花沢のものどもが強引に多くの引き代のお金を取るために、船板と材木等が格別、値が下がってしまい、損失が少なくありません。
このままにして置かれますと、後々にもどんな新たな手段が出されてくるかもしれないことは、困ったことばかりで嘆かわしい次第と存じます。
右の強引で強欲な非道の数々を御賢察下されて、これまでどおり背中炙り峠の諸荷物と産物を差支えなく駄送と背負いをして、村山郡全体が穏やかに相成りますよう御慈悲を以て仰せを下されるようお願い奉ります。
何卒、右の訴訟人たちを御召出して、一つ一つを御理解くださるよう幾重にもお願い奉ります。前書きにお願いしたとおり、背中炙り峠の諸荷物と村々の産物は差支えなく駄送、背負いして村山郡全体が穏やかに相成りますよう御慈悲を以て仰せを下されるようお願い奉ります。
前書きの願いにあるとおり、背中炙り峠の諸荷物とその外の村々の産物を、道路で差支えないように仰せ下れば百姓は永続でき、多大なるお情けと有難き幸せと奉ります。
右のこと恐れながら返答書を以て申し上げます。以上
嘉永六年丑九月
---以下省略します。---
この返答書には、一切、豊島☆☆☆の名前が出てきません。しかし、この返答書に関わる別の古文書には、「(豊島)☆☆☆患いにつき、倅○○」を意味する内容が見えます。返答書は三村の代表者の名前で出されていますが、実際は豊島☆☆☆が強烈にバックアップしているものと思われます。また、このようなことを行える人物は、豊島☆☆☆しかいないでしょう。
これだけの返答書を書くのは、並大抵のことではありません。まるで弁護士がいるような、実に訴訟に通じている感じがします。返答書は、大きく四つの部分から構成されています。最初に「訴訟内容の確認」、次に「横道に対する歴史的・現実的な使用状況・経済的側面からの反論」、そして「具体的な宿場側の非道ぶり」を挙げ、最後に「差し止め撤回による効果」となっています。
豊島☆☆☆には、二人の付き人が常にいたと伝えられています。一人は豊島☆☆☆の健康管理を行う者、もう一人は祐筆に相当する人物だったそうです。恐らく、この返答書は祐筆に相当する付き人によって書かれたものだと思われます。
この時豊島☆☆☆は56歳ごろでした。まだまだ働き盛りです。