-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

珍しい「笹の花」

2013-06-24 00:45:53 | 自然

 何十年に一度しか咲かない笹の花が咲いていました。場所は、畑沢地区生涯学習推進センター(旧畑沢分校の場所)の南の方の県道脇です。元々、笹の花が咲くことは極めて稀です。私もこれまで月山の山腹で縞状に咲いていたのを見たことがあるだけです。それも既に30年以上になります。ましてや畑沢で見るのは初めてです。実は、今月の初めごろには咲いていました。あれから20日ほどになりますが、随分と長い間、咲いているものです。ほかの場所の笹は、みずみずしい新しい葉を出していますが、花が咲いている笹には、新しい葉は出ていません。この後は花が種を稔らせ、やがて株ごと枯れてしまうそうです。そして、何年後かには、再び同じ場所に笹が侵入してくるのだそうです。天変地異でもなんでもないようですが、不思議な笹の生態です。


畑沢の江戸期を中心とした石碑の数々

2013-06-22 17:36:33 | 歴史

 前日に紹介しました県立楯岡高等学校による昭和45年の調査結果には、畑沢の石碑について全体を網羅した図が掲載されています。これほどの内容をよくも短時間に調査したものと感心します。私がこれから把握するのに、非常に有効な資料となります。ただし、私がすでに把握していている石碑がありますが、これらのうち一部のものについては、掲載されていないものもありましたので、全部が掲載された訳ではないようです。それにしても、繰り返しますが、大変に素晴らしい資料です。

 これが楯岡高校社会部発行の「郷土 Ⅱ」に掲載されている図です。大まかな位置関係が分かりやすくなっています。調査は昭和45年ですから、あれから約40年以上経っていますので、残念なことに無くなっているものもあるようです。図の文字が何を意味しているかが分かりにくいと思いますので、私のにわか勉強で学んだ言葉でおいおい説明してまいります。今日は資料の紹介に留まらせていただきます。


素晴らしい資料を頂戴しました。

2013-06-21 20:58:21 | 近況報告

 畑沢に関する貴重な資料の提供がありました。地区によっては、歴史などに対して熱心な方がいて、さまざまな形で記録を残されている場合がありますが、畑沢については、これまでそのようなものが見つかっていません。そのため、私がブログで歴史についてあれこれ投稿していたものは、自分の足で調べたもの以外は、他の書籍からの寄せ集めだったり、畑沢の人から聞いたものでした。何せ、私は根っからの理系人間で、こと文系に関することとなると実に危なっかしいものがあります。ましてや古文書や石碑の解読となると理解不能です。そこで何か手がかりがあればと探していましたが、帰省していた私の妹が「昔、楯岡高校が分校に合宿して畑沢のことを調査していた」と思い出してくれました。そう言えば、私もそんなことがあったことを思い出しました。楯岡高校へ電話したところ、教頭先生が親切にも同校の図書室を探してくださいました。早速、学校へお邪魔して、コピーを頂戴しました。同校の社会部のクラブ活動として、昭和45年7月30日から8月2日まで畑沢の分校に合宿して調査したものでした。40年以上も前のものです。私のために、大変に御苦労されて探していただいたものと思います。ありがたいものです。

 

 調査結果は、「郷土 Ⅱ」にまとめられていました。内容は歴史、風習、産業、教育、交通、医療、消防等々と多岐にわたっています。特に資料編における、昭和45年の戸数、人口等の現況、年中行事、石碑については、他の資料では得難い貴重なものでした。これらのことについては、これからのブログで紹介し、私なりの追加調査分も併せて投稿します。その他の部分については、調査された高校生の考察が中心となっています。あくまでも高校生の調査として読んでいただければよいのですが、見方によっては誤解を招く心配がありますので、興味を持たれた方は、村山市立図書館にもございますので、そちらでご覧ください。


あれは凄い雪だった。

2013-06-20 20:56:01 | 思い出

 そんなに昔の話ではありませんが、今までで最も雪の量が多かった時の写真です。今から7年と6か月前の平成17年12月29日のことです。きっと3m以上は積もっていたのでしょう。何と、電柱の雪降ろしをしていました。家屋の雪下ろしは当たり前のことですが、電柱となるとめったに見られません。畑沢へ行く前に、古殿でも電線の雪降ろしているのを見ていましたので、「今年は電線が切られないように予防しているのだなあ」程度に考えていましたが、畑沢はそれ以上の降雪量だったのでしょう。この電柱は他の電柱とは異なり、変圧器が載っている特別大事な電柱です。アウトリガーを下した作業車からクレーンの様に上に伸びた作業台は、地面からは10m以上はあるように見えます。いくら仕事とはいえ、高恐怖症の私だったら、とても仕事になりません。上の作業員からは作業車は見えず、心細いのではと同情します。雪を払っている道具は、スコップではなく、まっすぐな柄になっているものです。畑沢で雪降ろしに使っていた「カスギ(漢字は分かりません。)」のようなものです。電柱の場合は、電線を傷つける心配がある鋼鉄製の道具は使えないのかもしれません。

 地球温暖化と言われてから、降雪量が減ってきているはずなのですが、このところは結構な量の雪が積もります。何でも、温暖化で日本海の海水温度が上昇し、冬の季節風にたっぷりと雪の元になる水蒸気が含まれるからだとか言ってますが、温暖化なら温かくなる訳なので、雪が少なくなる方が私の頭では理解しやすいところです。寒がりですから。

 ところで、昭和40年ごろの正月を思い出しました。正月休みなのに、スキーで山へ行くほどの雪がありませんでした。おまけに少し雨まで降る始末でした。これでは正月休みの意味がありません。あのころは雪が必要でした。私における地球温暖化は、あの時が始まりです。


背炙り峠(現道)の湧き水

2013-06-19 21:11:15 | 近況報告

 雪がない時期に畑沢へ行くときは、常に背炙り峠を通ります。峠に達する少し手前の右側の崖に、湧水が湧き出ています。明治時代に現在の自動車用の道が通ってから、ずっとこの場所に湧き出ています。私は、通るたびにここで喉を潤しています。ついでに落ち葉などを取り除いて、周囲をきれいにしています。これは私だけでなく、不特定多数の通行人がやっているようです。大事な湧水なのです。しかし、昔とまったく同じものではありません。当然のこととして、最初、この道路は砂利道でした。その後、一昔前に拡幅されかつ全面が舗装されました。その際に湧き水があった所の岸壁も削られ、モルタルで覆われました。湧水のところには、昔の面影を留めた窪みを作り、そこにゴム管で湧き水を誘導してくれました。

 現在

 作って何年間は、昔よりも大分、少ないながらも、今、流行りの「擬音語」で表現すれば、チョロチョロ程度には流れていました。それがやがて、チョロッ チョロッに変わり、今ではポタッ、ポタッまでになってしまいました。恐らく、ゴム管の中が詰まってきたのでしょう。

 約40年前の湧き水

 写真でも分かるように、拡幅・舗装工事が行われる前は、ゴム管ではなく岩肌に掘られた溝から、水がジャージャーと流れていました。水溜まりには、横エビが棲んでいたぐらいに水量が豊かでした。

 以前に改善を試みて、細い棒でゴム管を突いてみましたが、効果がありませんでした。それでは、太めの番線を入れてみればどうかなと思いながらも、まだ実行していません。水脈が変わったとは思えませんので、必ずや解決策はあると思うのですが。