-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

村にお神楽がやってきた

2015-10-04 12:13:02 | 思い出

 風邪をひいて、自宅で監禁状態になっています。スビタレですが、体だけは人並み以上に丈夫だと自慢していたのですが、風邪に負けるとは情けない話です。しょうがないので、畑沢へも行かずに自宅でパソコンをいじっていましたところ、畑沢の秋の紅葉が出てきました。一昨年11月上旬の写真です。この写真で昔のことを思い出しました。

 紅葉を見ると思い出すことがあります。小学1、2年生のころのお神楽です。この紅葉を小道具にして、お神楽の一座が芝居の舞台を飾っていました。そこで、今回は、私が今、まとめている「畑沢のまとめ」の原稿から以下に抜き書きします。

 

お神楽がやって来た

 まだテレビが普及する前、村の娯楽として楽しまれた物ものの一つにお神楽がありました。お神楽は年に二回やってきました。一般的にお神楽と言うと、村に代々伝わってきて村人が神社で舞う「舞」を意味します。ところが、畑沢を含めて常盤地区一帯では、「お神楽」とは農閑期に職業的な集団が外部からやってきて専門的に興行する舞と芝居のことを意味しました。

 年二回の興業があり、第一回目は、田植えが終わったころです。各家を周りながら、獅子舞で一家安全を祈願しました。秋の稲刈りが終わったころが第二回目のお神楽でした。秋のお神楽は下畑沢では有路家、上畑沢では古瀬家が会場となって行われました。興業は二部から成っていて、昼過ぎごろに行われるのが獅子舞と天狗の舞です。会場となった庭に蓆が何枚も敷かれた広い会場です。獅子舞は単なる獅子だけが踊るのではなくて、獅子とヒョットコのコメディです。静かに獅子が寝ていると、ヒョットコがやってきて、寝ている獅子をからかい始めます。獅子が中々、目を覚ましませんので、段々とヒョットコは図に乗り始めて、いたずらが過激になってきます。すると、さすがの獅子も目を覚ましてヒョットコを追いかけます。逃げるヒョットコの演技が見事なので、毎年、何度も見ているにもかかわらず、今にも食べられそうな様子にハラハラドキドキしつつ、逃げる姿の滑稽さにも笑いが止まりませんでした。天狗の舞は、「神楽」に相応しい神に捧げる厳粛さがあり、怖い感じもありました。

 翌朝、一座の中から3、4人の一行が各家を回って獅子舞で厄払いをしながら、言わば興業代金に相当する「一升米」を布袋で受け取っていました。夜は演劇です。丁度、現在の新劇調の芝居です。日中のうちに舞台となる先ほどの家の大広間を仕切って、芝居の舞台と客席が準備されました。夕食を終えた観客が、部屋が満杯になるほどに集まりました。一座は毎年、異なる芝居をなさったようですが、何分にも私は子どもでしたので、二つの芝居しか記憶にありません。その記憶にある芝居の一つが、「番場の忠太郎」です。一座の座長が忠太郎の役で、母親役も男でした。子どもにはよく理解できない内容ですが、汗だくで演じている役者の意気込みだけは伝わってきました。翌年は一変した芝居でした。雑誌「少年画報」で人気漫画の「赤胴鈴之助」です。主役の赤胴鈴之助、友人の竜巻雷乃真、悪者の手先ガクリン坊は少年か青年の設定ですが、役者はおっさんたちです。本当は大きな違和感があるはずですが、子ども達にはよく理解できる芝居でした。赤胴鈴之助は窮地に嵌ると、真空切りで悪者を懲らしめてフィナーレを迎えました。観客の拍手喝采です。

 永年の間、村人に親しまれた神楽でしたが、やはりテレビが普及すると娯楽性が薄れて夜の演劇がなくなり、さらに各戸を回っての厄払いもなくなってしまいました。あの神楽の一座の人たちは何処から来てくださっていたのか、今でも分かりません。


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