-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

雪の中の一本道

2018-05-12 15:10:30 | 思い出

 畑沢は春を迎えて、水と緑が活き活きと輝いているのに、今さら「雪の中の一本道」などと寝言を言っているのかとお思いになるでしょう。そうです、異常事態なのです。2月以降、孫が遠くからやってきたり、娘が出産のために里帰りしたりして、ずっと忙しい状況が続いています。畑沢へ出かける機会がなかなかありません。

 皆さんは私を単なる老いぼれとお思いでしょうが、小さい子の子守は何故か人並み以上なので、その力を見込まれてしまい、結構、期待されてしまいました。その結果、動けないのです。

 そこで、畑沢の近況をお伝えすることができず、古い写真から昔を思い出してもらいます。畑沢は今では冬でも自動車が通行できますが、昭和40年代までは、冬の間はずっと自動車が通れず、雪の上を踏み固めただけの一本道でした。新雪が積もると、上中下の地区から当番が出て、荒町までカンジキで踏み固めました。踏み固められた道は、たった一人が歩ける細いものです。当然、反対側から人が来てもすれ違うことができません。

 そんな当時の写真があればと思いましたが、残念ながら私は持っていません。しかし、そのような状況に似た写真がありました。昭和50年1月の写真です。当時は冬でも除雪車が来るようになり、原則的には自動車が通れるようになっていました。ところが、雪が積もったからといっても必ず除雪されるものではなくて、除雪の回数が少ない状況でした。そのために、雪が何日も続いた後の暫くの間は、自動車が通れない昔のままの一本道になりました。下の写真がその時のものです。中央が道路ですが、完全に雪に覆われており、真ん中に一人が通行できる細い道が見えます。

 そのころの下畑沢の状況も写っています。当時は消防団のポンプ小屋の右脇に、畑沢地区の米蔵がありました。入り口には下屋がかかっています。右脇に電柱が立っていますが、道路沿いに立てられたものではなくて、道路と交差して配線されています。右奥の家屋は向かい地区です。畑沢地蔵堂も古い建物のままです。熊野神社の大杉は、今よりも数が多かったのですが、左端の少し斜め気味の杉は平成年間に倒れる心配があったのか、伐採されました。

 次の写真も同日に撮ったものです。向かって左が畑沢分校で右側が畑沢の木炭貯蔵庫です。どちらの屋根にも沢山の雪が積もっています。そろそろ雪降ろしが必要です。分校はこれから6年後の昭和56年に休校となり、さらに13年後の平成5年に閉校になりました。

 木炭の生産はやっておらず、木炭貯蔵庫は既に目的を失っていました。


 木炭貯蔵庫を最後に記録した写真は、次のとおりです。平成17年の豪雪の時で、屋根の雪がいかにも重そうです。それから1、2年でこの建物が潰れてしまいました。


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