-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

真夏日の太陽の下で稲刈

2023-09-13 09:26:03 | 近況報告

 令和5年9月11日(月)、畑沢へ稲刈の手伝いに行きました。例年よりも一週間は早いとのことでした。今年は暑い日が続いたので、稔が早まったそうです。しかし、どうも稲刈をする雰囲気がありません。何しろ真夏日がまだ続いています。この日の予想気温も30℃以上でした。

 畑沢へは村山市の林崎から背炙り峠を越えました。山形県のホームページに8月31日までは交通止めと掲示されていましたので、9月は大丈夫だろうと喜んで峠路を選びました。雪が解けてから8月末までも交通止めにしたのは、予想どおり峠付近の危険な場所の工事でした。外にも畑沢側の2ヶ所の土留め工事が完了していました。

 稲刈はコンバインが殆ど作業するのですが、田んぼの四隅はコンバインが方向転換できるように手で稲を刈っておかなければなりません。この作業は大した労力を必要としないのですが、今年の暑さは殺人的です。さらに、8月下旬の熱中症からまだ完全に回復していない老体には、ただ立っているだけでも大変な苦痛です。それは、私だけでなくても大変だったようです。

 

 今年は気温が高く、さらに一般に農業用水もかなり不足していたと聞いていましたが、畑沢は適度に湧水がありますので、稲が枯れることはありませんでした。用水の脇には水生植物がまだ盛夏を満喫していました。水田の厄介な雑草として嫌われているオモダカは葉を大きく広げています。

 

 オモダカの様には嫌われていませんが、水面を覆うほどに繁茂する羊歯植物のサンショウモです。山椒の葉に似ています。全国的には絶滅危惧種に指定されている所もありますが、畑沢では絶滅は心配ありません。

 

 これらの水辺は上記の2種だけでなく、様々な水生植物が茂っています。水辺が好きな人には垂涎の的でしょう。

 

 作付け面積は少ないのですが、あれこれと時間がかかり、作業の終わりは夕方5時になりました。この時間になると嬉しいことがあります。背炙り峠で夕日を拝めることです。昨年の11月末から約9カ月ぶりになります。長い通行止め期間です。そのうちに、珍百景に出るかもしれません。短い期間しか通れなくなってから、約10年ぐらいになろうとしています。時代は進歩していないどころか、退歩さえしています。私の若かった時代は、未来へ夢と希望を持ち、自分自身も新しい世界を作っていこうとしていました。今の若い人たちに、この世の中を見せて、未来への希望と意欲を持たせることができるでしょうか。自信がありません。何とも不甲斐ない老人です。

 夕日は葉山に沈みます。

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ユキツバキかなあ。(その10の補足) 6回目の大平地区

2023-09-10 14:13:41 | 自然

 もっと早めに「ユキツバキかなあ」シリーズを再開すべきでしたが、尾花沢市六沢地区の繋沢に興味を持ってしまい、かなり長い間、首ったけになっていました。繋沢の歴史は野邊沢城に大きく関係していましたので、畑沢しか知らない私には難儀な課題でした。それでも、わくわくする探求を楽しむことができました。

 実はさらにおまけがあります。7月からカンカン照りが続いてちょっとの作業でも汗だらけの天候でしたが、順調に修理できた草刈り機で、調子に乗って何日も作業したものですから、とうとう熱中症になってしまいました。39.5℃を最高に39度以上が4日続き、とうとう医療機関にお世話になりました。過去に二度も経験をしてもこの無様な姿です。体力と気力が失せて、ブログは後回しになりました。

 さて、ユキツバキ(雪椿)に関する投稿は、今年の5月11日が最後でしたので、実に約4か月振りになります。最後の投稿は「ユキツバキかなあ(その10)五回目の大平地区」でした。昨年度、大平地区の開花最盛期を見逃したので、今年5月2日に再挑戦した内容でした。その時、充分に雪椿の花弁、雄しべ、雌しべ、葉脈などを観察できましたが、まだ若葉が出ていませんでしたので、雪椿の若葉の葉柄に生えていると言う「毛」の有無を確認することができませんでした。

 そこで、6月10日に若葉を確認するため、山形市大平地区に行ってきました。さすがに、この時期は雪椿の群生地に誰の姿もありませんでした。私以外に「若葉」に興味を示す人はいません。若葉は保護地区の至る所にあります。

「しめしめ、これは簡単に観察できる」と思って雪椿に近づいたのですが、

「ない、若葉の葉柄に毛がない」。

とんでもないことです。「雪椿の若葉の葉柄には短い毛が生えている」はずです。愕然としました。これまで何度も大平地区に足を運びながら、最後の最後に雪椿であることを証明する証拠が見つからなかったのです。これまでの苦労は何だったのでしょう。とまで考えたのですが、「葉柄の毛」以外は全て雪椿の特徴を備えていたのですから、葉柄の毛がないからと言っても、大平の椿が雪椿ではないと言えないのではないかとも考え、先ずは葉柄に毛がない証拠を撮影することにしました。葉柄だけの撮影は、「接写」という写真技術で行います。私は高級カメラを持っていません。一眼レフは何台か駄目にしました。残るはコンパクトデジタルカメラとスマホだけです。接写の際には、マクロ気味にして撮影するのですが、それでも、葉柄は大きく見えません。どのように写ったかは自宅へ帰ってパソコンで拡大しないと確認できません。写ってもいないかもしれない物を何度も写すという、やりがいのない仕事は疲れが大きいものです。

 ところが、自宅のパソコンで拡大して、驚きました。葉柄の毛が写っていました。葉柄ばかりでなく、葉身の基部にまで短い産毛のような毛が生えています。余りにも短いので、肉眼では見えなかったのです。虫眼鏡でも持参していれば見えたのでしょうが、私の思い込みが邪魔しました。雪椿の特徴として挙げているのだから、「当然、直ぐに確認できる程度なのだろう」と勝手に思い込んでいたのです。生まれて初めて、椿の葉柄に生えた毛を見ることができました。感激です。

 「雪椿の葉柄に毛がある」ことは、複数のインターネット記事で学んでいました。ところが、その後、私が雪椿に関して最も信頼している石沢進氏が1974年に発表した「ユキツバキの生態学的研究」の中で、ユキツバキの形態的性質には、葉柄の毛は書かれていませんでした。2005年に同氏が「植物の自然誌プランタ」に寄稿した「ユキツバキとヤブツバキの形態の比較:芽及び葉縁」では、ユキツバキの葉柄は有毛である旨が記されています。雪椿の全国随一の石沢進氏でさえ、1974年ではまだ葉柄の毛に気付いていなかったと考えられます。当時は葉柄の毛は、学界でも認識されていなかったのでしょう。葉柄の毛以外にも雪椿の特徴が多数ありますので、そこまでは考えなかった、又は肉眼で見えなかったので気付かなかったと考えるべきかと思います。そして、私が言いたかったのは、「私が肉眼で葉柄の毛を見つけることができなかったのは、無理からぬことである」という言い訳です。

 今さらですが、葉柄とか葉身とかの用語を使いましたので、順序が逆になった無礼を詫びながら説明図を次に添えます。私も知らなかったのですが、今回のブログのために調べました。写真に写っている指は私のですが、かなり拡大しています。これぐらい大きくできれば、肉眼でも「葉柄の毛」を確認できます。それにしても、「葉柄の毛」はどんな役割があるのでしょうか。一般的に自然の造形物には無駄がないと思うのですが、想像できません。

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繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その6)

2023-08-09 09:28:51 | 歴史

【繫川(綱木川)を堰き止め水堀】

 今回、延沢軍記を読んでいて、最も驚いたのは次のことです。「延澤鑑阿弥陀嶽濫觴記」から次の文章を抜粋しました。同様の事が「野辺沢記」にも書かれています。縦書きを横書きに変更しています。

搦大門に川をせき溜、惣堀ヲ廻シ、玉の原を人家とし、延沢を城廓となしけれハ、百万石の居城にも不足あらしと見ひけり

 

 私は下線した部分を次の様に解釈しました。

「搦手大門の所で、繫川(綱木川)を堰き止めて城をぐるっと守る堀にした」

 この記述には驚きました。野邊沢城の北側が水堀で大きく囲まれていたとは聞いたことがありません。しかし、至極、当然な気がします。繫川(綱木川)を堰き止めるのは簡単です。流れは緩やかですので、例えば繋沢で川を2~3mの高さで堰き止めれば、上流の円照寺近くまで水が溜まります。しかし、搦手門が円照寺の近くならば、そこを堰き止めても城を守る水堀としての役にはたちません。搦手門が繋沢にあることを意味しているようです。繋沢観音堂跡の敷地と綱木川の関係も異様です。綱木川はほぼ山の際に沿って流れているのですが、繋沢観音堂跡の敷地だけが山際からポッコリと突き出しています。どう見ても人為的に改変されています。野邊沢城を含む周辺の山並みは、その東の水田地帯とほぼ一直線に接していて、その境界が綱木川になっています。まるで、綱木川の東西で逆断層があるような不思議な地形です。これを綱木川の流れと直角な方向で断面図を作ってみました。地理院地図(電子国土web)の断面図ツールで制作したものに、地名を加えました。

図14 繋沢周辺断面図

 綱木川から北東(右側)に向かって緩く標高が高くなっています。六沢地区全体の水が綱木川に集まる地形です。そのため、何万年か何十万年も前から、山の麓を侵蝕して険しい崖を作り、綱木川は左岸を硬い岩盤に、右岸側は川に向かってくる傾斜によって立ちはだかれて、直線的な流れになりました。大きな地滑りで土砂が流れ込まない限り、繫沢の末端が川を遮って平地側に飛び出る地形は、とても自然の力では生じません。繋沢の飛び出た地形は人為的な力によるものと考えざるをえません。丹生川のような大きい川が近くにある場合は、大きい川に向かって地面が下がるものだと思いますが、六沢地区の侵食には、まだ効果を示してこなかったようです。詳しいことは分かりませんが、東西方向からの圧縮による褶曲や小さな逆断層のような何らかの地殻変動が関係しているのでしょう。ただし、今はこの平地に無数の農業用水路がありますので、降水が直ちに綱木川に流れることはありません。

 繋沢の下流約540mにも川の流れが山際から離れている場所があります。ここと、さらに繋沢との中間点辺りにも一つ堰き止めれば、繋沢までの流れを水堀にでき、唯一、城への出入りは繋沢だけに絞ることができます。綱木川の右岸に沿った地域が、周辺よりも低くなっていますので、そこに綱木川を堰き止めた水が満ちると図15のような水堀が出現します。

図15 水堀想像図

 これまで野邊沢城の東側に水堀があったという話は聞いたことがなく、奇想天外にも思えますが、城の守りを考えた場合は、至極、当然なことかと思います。城跡の調査に当たっては、古文書などの記録だけでなく、古文書を疑いつつ地形や城としての機能面からの検討も大事な作業です。私が素人流に楯跡を検討する場合は、攻める側の立場で考え、臆病な性格が役に立ちます。攻める場合の障害は、切岸や堀切の急斜面、頭上や側面からの攻撃などです。その外に水があれば、より体の自由が利かず厄介なことになります。水堀は大きな守りの役割を果たすので、作れる地形があるならば理にかなった防御策です。綱木川はその絶好の場所です。

 尾花沢市教育委員会が発行したリーフレット「延沢城跡縄張図」表紙の右下に「『羽州野辺沢霧山之城』図」があります。原図は不正確ですが、その中に表門と裏門らしき位置に水堀が描かれています。水堀として着色した中に「ホリハヽ五間」の文字が見えます。「堀幅五間」ということで幅は約9m、裏門の水堀は繋沢らしき所から円照寺らしき所まで描かれていますので、長さは約350mです。私の想像図での水堀は、幅30~50m、長さ700~800mになります。絵は小さ過ぎます。表門の水堀の絵は、三日町の東端から西へ背中炙りへの分岐点まで(約700m余り)で、「ホリハヽ十五間」(約30m弱)と描かれています。これは水源や地形を考えると絶対に無理でしょう。むしろ、このサイズは裏門側の水堀なら大凡、妥当なサイズです。この図面が証明になるとは思いませんが、地形を見る限りでは、「裏門側に水堀があった」と思います。

 

【大きな湖の伝説を探る】

 さて、城の裏門(搦手門)に水堀があったと思われることから、これまで「単なる作り話」と見ていた「延沢軍記」の次の文章が、俄然、光り輝いて見え始めました。

 片仮名本から抜粋し、縦書きを横書きに変更しました。

抑モ此観世音ノ來由ヲ尋奉ル、往昔最上郡ハ湖水ニテ、人民迚モ僅カニ峯ニヨリ、岡ヲ尋ネテ住居スル迠也、故ニ未ダ米穀ノ類モナク、唯湖水ノ魚ヲ取、山林ニ入テ禽獣ヲ食フ、其頃ヨリ此地ニ幾千歳ヲ経ル事モ知レザル椋ノ大木有、其枝湖水ヲ覆フ、舩ヲ繋クニ便アッテ舩人此木ニ舩ヲ繋ガスト云フヿナシ、故ニ此木ヲ舩繋木ト云ケリ、然ルニ三郡ノ神佛、佛陀人民ノ餓勞ヲ憐愍愍マシマシ、終ニ庄内ノ境羽黒山ノ北、板敷山ノ麓ヲ掘穿チテ湖水ヲ引テ庄内エ落シ給ヒシヨリ此地水湿ノ患ヲ免レ田畑開ケ繁昌ノ地ト成リケリ此ノ由来最上記ニシルス、 今ノ最上川是也

現代語訳

 そもそもの観世音の由来をお話ししましょう。昔々、最上郡は湖に覆われていました。人々は僅かで、山の峰に寄っていて、丘状の土地に居住しているだけでした。そんなわけですから、まだ米などの穀類もなくて、ただ湖の魚を取り、山に入って鳥や獣を捕えて食べていました。その頃からこの場所に何千年もの年を経たかも分からないほどの椋の大木があったということです。その枝は湖を覆っていて、船を繋ぐのに便利なので、人々は船を繋がないことはありませんでした。それで、この木を船繫木と言っていました。さて、三郡(最上郡、村山郡、置賜郡のことか)の神と仏は人民の飢え苦しみを憐れんで、遂に庄内との境に位置する羽黒山の北にある板敷山の麓を掘削して湖水を庄内へ引き落とし、それ以来この地方の湿地の害を免れるようになり、田畑が開かれ繁昌する場所になりました。この由来は最上記に記されています。今の最上川がこれです。

 

 「龍護寺本」と「塚田本」にも同様のことが書いてありますが、それぞれ字と表現に異なるところがあります。ただ、概して「同じ」と見てよいかと思います。

 さて、このような「昔は大きな湖が覆っていた」という話は、全国でも盆地の何ヶ所かに残っているそうです。水田に水が張られて盆地全体を山の上などから眺めると、一つの大きな湖を想像させることから始まったかと思います。山形県では、「藻が湖伝説」と言われているものです。延沢軍記におけるこの種の話は、そこから引っ張ったものでしょう。上記の「片仮名本」の文中では、「最上記(さいじょうき)」という最上家に係る軍記を根拠にしていると書かれています。そこで、片桐繁雄/訳編の最上記を調べましたが、湖の話はありませんでした。それでも、延沢軍記が書かれた時代には、既に藻が湖伝説が存在していて、何処かに何らかの書にあったことを示しています。しかし、藻が湖伝説では、現在の最上三難所の一つである碁点を切り開いて湖から水を引かせたということなので、その下流に位置する大石田町や尾花沢市内には、湖がなかったことになります。ところが、延沢軍記では、ずっと下流に位置する最上峡谷の入口で川が塞がれているとしています。いい所に着眼しています。これだと、繋沢などは十分に水浸しにできます。藻が湖伝説よりも規模の大きい湖です。

 もしも本当に湖だったとすれば、地形学なり地質学的にも説明できるはずですが、そのようなお話を聞いたことがありません。東根、西根、最上川などの名称と眺めまわした地形などから推論したと思われる楽しい物語です。ただ、湖があったと思わせる景観があることも事実です。最上川は吾妻山系から始まって、酒田市から日本海へ流れ出るまで、米沢盆地、山形盆地(村山盆地)、尾花沢盆地、新庄盆地、最後に庄内平野を経由します。それらの間には、五百川峡谷、三難所、最上峡谷などの狭隘部があります。かつて最上川は、それぞれの盆地の中で極端に蛇行し、さらに三日月湖を多数残しながら、湿地を広げていました。また、狭隘部は大水が出ると上流に洪水を生じやすく、その姿は湖が広がったような風景だったでしょう。藻が湖伝説が生まれるだけの理由がありました。ところで、昔は今の村山地方を最上郡、今の最上地区を村山郡と呼んでいたそうです。それが、江戸時代の途中で呼び方が逆転しました。

 さて、六沢の繋沢はどうでしょうか。繋沢の周囲が湖と思わせる風景があったのだろうと考えました。今回のブログに手を着ける前までは、「単なる藻が湖伝説に便乗して作られたお話」と片付けていましたが、どうもそれだけではない気がしています。伝説は真実を元にして出発したにもかかわらず、科学的な思考がなかった時代は、理解できない事柄を神仏や魑魅魍魎(ちみもうりょう)が為せる業と想像し、さらに時代を経るに従い誇張されたものだと思います。ただし、民衆が有難がる話を意図的に作る場合もあります。繋沢の湖などは後者に含まれつつも、湖を髣髴させる風景が存在していたと思わせるものがありました。先述した水堀です。廃城後も水堀がかなり長い間残り、水が周囲を潤していたとも考えられます。「繋沢」の名称は、「船繋木」から生まれたものではなくて、「城と玉野原(六沢を含む。)を繋ぐ」場所、即ち搦手門があった場所と考えてみました。

 以上の様に自由奔放に繋沢に思うことを書いてみました。本当に最初は興味が全くなかったのですが、書くうちにあれこれと思索が巡り少々、深みにはまりました。それはそれで楽しい一時でもありました。しかし、真面にものを書くならば、欠点だらけでした。それは主に次の事です。

1 現地をあらゆる角度から丹念に調べていない。

2 地元の人からしつこいほどに聞き出すべきなのに、それがされていない。

3 資料があるのなら見せてもらうべきなのに、小心でかつ怠慢だった。

 

 以上で「繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。」シリーズを終了します。今度は繋沢を含めた椿の事について投稿しますが、時間がかかります。

 さて、私の作業は欠陥だらけでしたので、是非ともきちんとした調査をして記録を残してもらいたいものです。できれば、六沢地区の方々の手によって行われるべきものだと思います。六沢には人材が数多です。肩肘張る必要はありません。専門用語を使う必要はありません。誰からも分かってもらえる表現が一番いいと思います。複数の人たちで行えば、私のように独断に陥る危険を回避できますし、単純な誤りでもお互いに指摘できます。いつの日かに、私も見ることができれば幸いです。

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繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その5)

2023-08-08 09:00:00 | 歴史

【搦手門はどこにあったのか】

 用語の説明です。搦手門(からめてもん)とは城の裏門のことです。正門は追手門(おうてもん)又は大手門(おおてもん)です。

 先ずは野邊沢城と梺との間の道です。「野邊沢城沿革略記」から抜粋しました。

梺より本丸ニ登る道筋四ッ、追手・搦手ノ道二ッハ屈曲巧ニなし道巾三間余にして馬上にて上下する様に造り為せり、ニノ丸の道四ッ、是又二筋ハ馬上にて上下自由す、…………搦手ハ繋河を限り、大門有、此内ニモ家中有て平地なり、円照寺ハ即大門ノ内にあり、

  • 漢数字の「二」と、片仮名の「ニ」がほぼ同じ形にみえますので、注意してお読みください。

現代語訳

 梺から城に登る道は四本ある。その内、追手(表門側)と搦手(裏門側)の道は巧みに曲がりくねり三間の巾があって馬に乗ったままで上下することができる。二の丸からの道も四本あって、その内二本は馬に乗ったまま通れる。……搦手の道は繫川(綱木川)までで、大門がある。この内側にも家中(家臣たちの居住地)があって平坦な地形になっている。円照寺はその大門の内側にある

 

 本丸から4本、二の丸から4本の道が梺へ繋がっているとあります。合計すれば8本もあることになりますが、それほどの道は航空レーザー測量による陰陽図でも確認できません。本丸から出ているとしている追手門へ通じる道は、実際は二の丸の桝形門から出ているのが事実です。本丸からとか二の丸からとかの表現は適切ではなさそうです。

 さて、搦手門へ下りる道はどこから出て、どの沢(谷)へ下りるのでしょうか。実は令和元年6月15日に尾花沢市観光ボランティア養成講座の現地研修を受けました。その時に、野邊沢城跡の馬場北端から東へ降りる幅広い道型について、「裏門へ行く道」と説明を受けたような気がします。その場で私は航空レーザー測量による陰陽図と照らし合わせて、繋沢へ通じているつづら折りの道に結び付け、それ以来、裏門(搦手門)は繋沢にあると思い込みました。それが図1のAルートです。延沢軍記で表現している、「曲がりくねった」「巾三間」「馬に乗ったままで上下できる」道に合致していると思ったからです。ただ、このルートを現地確認していませんので、頭の中だけの話です。

 ところが、繋沢に搦手門があるとすれば、上述の「円照寺はその大門の内側にある」という表現はおかしくなります。また、「野辺沢城 國指定史跡30周年記念誌」に掲載されている田村重右衛門氏作成の延沢城見取図には、搦手門が繋沢の東隣の沢(谷)を下った場所(円照寺の近く)に記されています。さらに同書に掲載されている延沢城字名集成図にも、円照寺側の沢が「字大門」となっていて、如何にも搦手門が地名になっているように見えます。そして、同書の資料2ページでは、指定地の現状としての説明で、北東字大門が裏門らしいとの表現があります。円照寺近くの橋辺りには、搦手門跡を示す物が立っているとも聞きました。これらは概略して図1のBルートで示しました。

図1 繋沢観音堂跡の位置図

 どちらが搦手門へ下るルートであるかは、道幅、傾斜度等を現地調査する必要があります。現在、どちらも藪になっています。調査には大変な労力が予想されます。

 どちらのルートであっても繫河(綱木川)までです。どちらの沢に大門があったとしても、内側に家中を設ける平坦な場所があります。もしかしたら両方にあった可能性があります。家中には、搦手門の守備を任されていた一族(近藤一族か)が住んでいたであろうと思われます。

 ここで、二つの搦手門の候補地について時代の経過を踏まえた考察します。二つの沢は、最上家改易後に大きく様変わりをしていることです。このことは、既に観音寺の衰退の一つとして挙げています。最上家改易後、山形藩の鳥居家が現在の六沢トンネル上部の鞍部に切通しを造って新道を開鑿しました。人と物の流れが円照寺側の沢に集中し、繋沢の通行量が極端に減少したと推察されることです。その道を大事な延沢銀山から金や銀が運ばれてきますので、綱木川を渡る橋の辺りに検問所が設けられ、その入口には門もあったでしょう。その後は明治を迎えるまでの約250年間、円照寺側の沢が主流になったままでしたので、人々の頭の中には道と言えば円照寺側だけがイメージに浮かぶようになったとも考えられ、また延沢軍記の執筆時は既にこのような状況になっていました。

 ここまで書くと、無理やり「搦手門は繋沢」説を強要しそうなので、この辺で留めておきます。このような事を考えるのも歴史の面白い面だと思います。

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繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その4)

2023-08-07 10:00:00 | 歴史

【繋沢に学校があった】

 さて、話を繋沢全体に戻します。六沢の同級生が、「昔は(繋沢観音堂)に学校があったと聞いた」と教えてくれました。しかし繋沢観音堂と学校を直接結び付ける資料は見つかりませんでしたが、「常盤小の百年」という本に常盤地区の昔の学校に関することが記載されていました。それによると、明治7年に学校制度が始まり旧村ごとに学校が置かれ、常盤地区の六沢村以外は既存の建物を校舎にし、六沢村だけは新築したそうです。六沢の学校では江口皐天氏が教員に就いたとあります。「新築」と「江口皐天」の二つの言葉が、「最上三十三観音」というホームページに「第23番六沢」に結び付きました。観音寺を復興(新築)した時の円照寺住職は「江口皐天」でした。観音寺が廃寺となって観音堂が新築されたのは明治初めと「お城山史話」にありましたので、学校に関わる人物と建物の時代が完全に一致します。

 観音堂は「六沢学校」も兼ねて新築されたと思われます。逆に学校制度が明治7年に始まっていますから、観音堂が建てられたのは、明治7年ごろと推察できます。昔は村にあるお堂は、村人の集会場所でもありました。そのころ学校を建てるにも村人の負担でしたので、観音堂と学校を別々に新築することは二重の負担になりますので、どこの村でも既存のお堂などが使われたようです。六沢は新築した観音堂が学校に使われたと考えると、私の同級生が話してくれた「繋沢に学校があった」という話は本当だったことになります。ここのお堂の敷地は広いし、子どもたちが遊ぶ広場も十分な広さがあります。六沢の子どもたちは恵まれた環境で勉強できました。

 

【椿】

 ②の花木については、椿を別途に投稿するときまでお待ちください。

 

【あらためて延沢軍記】

 ③の「延沢軍記」は、既に何度も出しましたが。あらためて「延沢軍記」を簡単に説明します。「延沢軍記」とは野邊沢家に係る事柄について、地元に伝えられている9冊の書を尾花沢市史編纂委員会がまとめたものです。9冊は、それぞれ「「延沢軍記」(龍護寺本)」「野邊沢軍記(塚田本)」「野邊沢軍記(片仮名本)」「延澤観阿弥嶽濫觴記」「野辺沢記」「野邊沢城記」「延澤城沿略記」「野邊沢家日野氏系譜」「延澤古城山天人清水之記」です。どれも、元和八年(1622年)の最上家が改易され、新たに山形藩を引き継いだ鳥居家が支配していた寛永年間(1624~1643年)に野邊沢の地名が延澤又は延沢に変更されてから書かれたものが多いのですが、延澤城沿略記は明治28、29年、野邊沢家日野氏系譜は明治40年、延澤古城山天人清水之記は大正4年です。どの本でも野邊沢と延澤又は延沢が混在しています。野邊沢家の名称は変更ないはずなのに、地名であった野邊沢が寛永年間に延澤(又は延沢)に変わったために、姓である野邊沢までもやたらと延澤又は延沢が誤記されています。歴史に専門的に取り組んでおられる最近の方々も、「延沢軍記」で間違った認識をしてしまい、「延沢」姓を使っている例が多数、見られます。初歩的な間違いですので訂正されるべきものと思います。特に公的な印刷物などを作る際は、行政組織として十分に注意が払われるべきものと思います。人は必ず間違います。間違いの多い私が言うのですから、間違いありません。はて、変ですね。

 さて、これら延沢軍記などの古文書は書き写して所蔵している場合が多いようで、大まかな内容として共通していますが、細かく見ていくと結構、文字が異なっています。今回のブログの繋沢シリーズでは、全ての古文書の全部を並べても意味がありませんので、その中からより正しく書き写されたと思われる一つだけを取り上げています。

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