-畑沢通信-

 尾花沢市「畑沢」地区について、情報の発信と収集を行います。思い出話、現況、自然、歴史、行事、今後の希望等々です。

繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その3)

2023-08-06 10:00:00 | 歴史

図9 昭和48年の観音堂敷地図

 

【繋沢観音堂】

 図9は前回と同じものです。写真は国土地理院が1968年(昭和43年)に撮影した整理番号MTO686XのWEB版に加工しました。

 土地や建物の長さは、図9の写真と国土地理院の地形図を重ねて基準となる道路の長さを割り出し、それを写真上での長さに比率を乗じて計算しました。さて、黒い線で囲まれた区域がすべて観音堂の敷地だとすれば、かなりの広さです。現在の常盤小学校のグランドに匹敵します。

 繋沢観音堂の屋根を白い線で縁取りしました。かなり不明瞭な画像でしたが、建物や樹木の印影などから輪郭を推定しました。「古城山史話」にお堂の写真が掲載されていましたが、著作権者の了解を頂戴する手段がありません。関心をお持ちの方は、古城山史話の原稿を探して御覧頂くか、六沢地区のお知り合いにお頼みください。必ず良好な写真があると思います。お堂は東の参道を向いていて、南北方向に破風を設けた茅葺きの入母屋作りです。破風には魔除けの鬼面らしきものがあったようです。正面には、下屋が見えました。

 「郷土史之研究」に、は当時、観音堂に保存されていた次の三点が記載されています。なお、青井氏の表現が錯綜していましたので、少し表現を変更しました。その後、昭和52年ごろに繋沢観音堂が解体されましたので、それを円照寺が引き継いで保存されています。

翁 面

 康永五年六月十七日納と書かれていたようですが、青井法善氏は「康永ハ北朝光明帝ノ年号デ三年マデシカナイ」と疑問をお持ちでした。「古城山史話」には、円照寺に能面が3個あると書いてありますので、上記の康永年間(1342~1345年で室町時代)の能面を除いた2個は元々、円照寺に伝わっていたものとなります。

額 面

 観音寺の説明書きの中で紹介した山澤城と書かれた山号扁額のことです。

漆絵馬

 野邊沢遠江守滿康(この人物は名前が何度も変わりました。一応、ここでは絵馬に書かれている名前に統一します。)が慶長出羽合戦後に納めたと、元禄五年に修復の際に説明書きがなされています。

 ところで、「延沢軍記」に「繋沢観音堂」が出てくるのは、大正4年に書かれた「延澤古城山天人清水之記」だけです。そもそも、野邊沢城があった時に繋沢観音堂があったかどうかを判断できる資料は見たことがありません。このことに気付いたのは、ブログ「とうほく見聞録」の「円照寺(最上三十三観音第23番札所)」にあった説明文にあります。

…。その後、観音像を安置していた観音寺は廃寺となりますが、村の信者達が近くの円照寺に依頼し、当時の住職の努力により観音寺跡地に観音堂が復興されます。しかし、観音堂が倒壊したことにより、円照寺の境内に移転され、現在に至るとのことです。

 また、このブログの文章の元となったと思われるものが、最上三十三観音札所別当会が主催している「最上三十三観音」というホームページに「第23番六沢」と題して次のとおり説明があります。

いつのまにか観音寺は廃寺となり、村の信者達が近くの円照寺に依頼し、当時の住職江口皐天大和尚の努力で観音堂は復興した。しかし、当観音堂は倒壊寸前となり、円照寺二十世哲生大和尚は、円照寺境内に改築移転、同七月に落慶式を行った。

 つまり、これらが真実だとすれば、

「観音寺があったが廃寺となったので、その跡地に観音堂が復興した。その観音堂も倒壊寸前になった(又は倒壊した)ので、観音像が円照寺に移された」

ということになりますが、文章の用語に疑問があります。「復興」ならば、元々あった建物を再び建てたことになりますが、観音寺の跡に建てるならば、元々、観音堂はそこになかったことになり「復興」と矛盾します。ただし、観音寺がなくなった跡に別の所にあった観音堂を再び建てた場合も復興と言えます。しかし、観音寺があった時に、観音堂が別棟で既に存在していたとは思えません。それは先述のとおり、延沢軍記に「観音堂」が全く出てこないことと、山寺の立石寺などのような大きな寺院ならまだしも、地方の小さな寺が別棟でお堂を建てるとは考えにくいからです。でも、「復興」の意味をもっと考察する必要があります。

 私は

「観音像は観音寺のお堂の中にあったが、寺がなくなったので観音像を安置する御堂を建てた」

と見ています。「古城山史話」によると、観音寺は明治初期に廃寺となったとありますので、観音堂はその後に建てられたことになります。因みに観音堂は倒壊したのではなく、昭和52年ごろに六沢地区の方々が涙を呑んで解体を決意したものだそうです。

 ところで、最上三十三観音のホームページの説明では「倒壊寸前」だったのが、それを元にして投稿したブログでは「倒壊した」とされています。このように私たちは、書き写したつもりだけなのに、間違いを起こします。私の場合はさらに思い込みも入りますので、間違いの多さは人一倍多くなります。

 

【絵馬は観音堂に奉納されたのか】

 さて観音堂は観音寺の跡に建てられたということが事実だとすれば、絵馬が繋沢観音堂に奉納されたとする各種の歴史書等は事実と異なることになります。絵馬が繋沢観音堂に奉納されたとなったのは、何から始まったのでしょうか。「延沢軍記」の解説(p.144)に次のとおり記されています。(縦書きを横書きにしました。)

同年十一月十七日、延澤城主延澤滿康、繪馬ヲ六澤村繫澤観音堂ニ奉納ス。

 「同年」とは、慶長六年のことです。これは、「北村山郡史」から抜粋したとされています。さらに、これを確認するために、国会図書館デジタルコレクションの「北村山郡史」(p.159)を閲覧しました。当然ながら「繋沢観音堂ニ奉納ス」とあります。(縦書きを横書きにしました。)

同年十一月十七日、延澤城主延澤滿康、繪馬ヲ六澤村繫澤観音堂ニ奉納ス

[繋沢観音堂所蔵]

繪馬

慶長六年辛丑閏月十七日敬白

        滿康。

諸願成就皆令滿足故也。

 「北村山郡史」は大正11年の発行です。それでは、さらに時代を遡って「観音堂」の文字が入っている文献を探しました。唯一、観音堂が出て来るのは、大正4年8月に記したとされる「延澤古城天人清水之記」だけです。その部分を次に抜き書きしました。

図13 延澤古城山天人清水之記(抜粋)

 一行目にある「額」は、二行目の「城澤山」の上に入れるべきところを誤ったようですが、意図は分かります。一から三まですべてが奉納されたものとしています。奉納されたものかどうかが不明なのに、保存された状態を「奉納」と解釈したようです。

 「繋沢観音堂へ奉納」は大正4年8月の「延澤古城天人清水之記」から始まったのかもしれません。さらに、北村山郡史では、「延澤(野邊沢)滿康が繋沢観音堂へ奉納」した趣旨の内容にまで言及してしまいました。

 参考までに、昭和2年に著された「郷土史之研究」の中で繋沢観音についての記述には、「堂」や「堂宇」の文字が見えますが、その文字の上に「観音」や「観世音」が付いていません。単なる建物の意味だったのでしょう。そして、「郷土史之研究」のこの部分だけは、正確な記述にはほど遠く、説明が乱雑になっていますのでこれ以上の追及はできません。

 観音寺があった時代には観音堂がなかったとすれば、絵馬などの観音堂に保存されていた物の全てが観音寺に奉納されていたかもしれません。しかし、「観音寺に奉納された」と言い切る文献などの根拠も探せません。ならば、次の表現が妥当なところかと思います。

「現在、円照寺に大切に保存されている□〇∇などは、大正4、11年と昭和2年には繫沢観音堂に保存されていたことが分かっています。しかし慶長六年はおろか、その後の江戸時代にも観音堂が存在していたとする証拠はないが、むしろ観音寺の存在は明らかなので、元々は観音寺にあったのかもしれません。しかし、観音寺に奉納と記す記録もありません」

 ところで、野邊沢滿康が奉納したと言われている絵馬は、現在、円照寺に保存されている外に、荒町の八幡神社に大きなものがあります。何れも野邊沢滿康が慶長出羽合戦に出陣するときに戦勝祈願をして、合戦が終わってから御加護を謝したように見えます。

 「延沢軍記」に収録されている各種の本の中に出てくる祈願所は吉祥院だけで、金剛院(八幡神社の別当)も観音寺も祈願所であるとは書かれていません。祈願所に戦勝祈願しないで、祈願所でない所に祈願している不思議さがあります。さらにややこしくなっているのが、祈願所だった吉祥院は「郷土史之研究」によれば最上家改易の時に寺領が没収されて消滅し、滿康の時代の祈願が、どのように行われていたかが分からない状態です。また、観音寺から繋沢観音堂へ繋沢観音堂から円照寺へ受け継がれたように、吉祥院にあったであろう各種の祈願に関わる書や物も、どこかへどのようにかして引き継がれたのかも興味あるところです。

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繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その2)

2023-08-05 14:21:56 | 歴史

 さて、繋沢全体の本題に戻ります。観音堂の跡地の広さに驚き、さらに思いは広がりました。

 

① もしかしたら、遠い少年時代の思い出とも繋がりそう。

② 繋沢観音堂跡の椿は、「延沢軍記」の城の馬場の花木とも関係がありそう。

  片仮名本から抜粋して横書きにしました。

  …二の丸ノ階ニ馬場アリ、幅七間、長サ百間也、四方ノ土手高ク築キ花木ヲ植タリ、

   馬場ノ中央ニ茶屋アリ、…

③ そもそも、「「延沢軍記」」や青井法善氏の「郷土史之研究」には、繋沢観音の記述が

  沢山あった。面白いことが分かりそう。

【お祭りの思い出】

 ①の少年時代の思い出とは、小学校時代に六沢の祭礼にお呼ばれした時のことです。お昼を御馳走になった後で、何らかのお堂があったであろう所の出店に行きました。肝心のお堂へのお参りは全くしないで、出店の商品に目が釘付けになっていました。数々の玩具などと一緒に、少年雑誌の付録である古い冊子が私を虜にしていたのです。私の好きだった旧日本軍の軍用機の図解と説明の資料です。当時、日本は敗戦後にもかかわらず、朝鮮戦争の影響で軍国主義的なものが流行し、少年雑誌には軍艦、軍用機、戦車などが溢れていました。私は戦争の道具そのものよりも、そこで使われている高度なメカニズムに興味がありました。特に空を自由に飛ぶ飛行機には大きな夢がありました。結局、他の商品には目もくれず、その古本を買いました。そのために飛行機の知識は飛躍的に豊富になり、今でも「飛行機馬鹿」は治っていません。

 しかし、これらの軍用機が太平洋戦争で数多くの敵・味方の兵士と民間人の命を奪った事実には思いが至りませんでした。大人たちの胸には、まだまだ戦争の生々しい傷が残っていたのに、その傷口に塩を塗るようなはしゃぎようでした。

 さて、かなり鮮明な記憶が残る場所なのに、出店がどこにあったかが思い出せません。でも周囲の雰囲気は覚えています。

「小雨が降っている温かい季節」

「出店までの道は田んぼの中」

「出店の場所からお堂らしきものは見えなかった」

 これだけの記憶では何ともならないのですが、今回、ようやく謎が解けそうになりました。後日、六沢の同級生二人に聞いてみたら、祭礼の場所は繋沢観音でした。祭りは7月16・17日の2日間にわたり、間に夜祭も行われ夜店もあったそうです。青井法善氏の「郷土史之研究」には、縁日は6月17日とありますので、私が祭礼に行った頃は旧暦で祭礼を行っていたようです。雨降りの温かい季節と合致します。お堂が見えないのは、見えたはずなのに出店に夢中だったからです。その頃は観音堂があったはずです。私の少年時代の思い出の場所はここでした。

 

【繋沢観音堂跡の昔を考える】

 さて、繋沢の鳥居が円照寺に移転したことを前述しましたが、昭和52年、円照寺に新たにお堂を建築して繋沢観音を移転していますので、繋沢の方は「繋沢観音堂」となりました。観音堂があった時期と現在では大きく様変わりをしています。そこで、繫澤観音が移転する前の姿を留めている航空写真で当時の様子を想像します。写真は国土地理院が1968年(昭和43年)に撮影した整理番号MTO686XのWEB版です。

図9 昭和48年の観音堂敷地図

 

【もっと昔は観音寺がありました。】

 航空写真にお堂、銀杏及び鳥居を確認し、さらに石仏を目測して記入し、観音寺跡を想像して書き加えました。観音寺の位置は田村重右衛門氏の作図から拾ったものですが、確証はありません。後述しますが、観音堂は観音寺が廃寺になった後でその場所に建てられたという話もあります。そうすると、観音寺は観音堂が建っていた場所にあったことになります。それも確認はしていません。

 「古城山史話」に次の説明がありました。

六)、観音寺

 城沢山観音寺と称し野辺沢家五十石の祈願所であり、つなぎ沢観音の門前にあって同観音の別当寺でもあり城主の尊信殊の外篤かったが、野辺沢家の没落以来衰微し天保期よりしばしば無住職となり明治初期に廃寺となった。然し観音堂の方は一貫して円照寺が管理しており城主よりの貴重な寄進物は大切に保管されている。

観音寺跡は元城内、現六沢に当る。

現在観音堂の方は円照寺境内に移建、装いも新たに最上三十三番札所として繁栄している。

 

 別当とはその寺社の代表管理者みたいな存在です。つまり、観音寺が繋沢観音堂を管理していたことになります。しかし、観音堂は観音寺が廃寺になってから建てられたとする話が本当だとすれば、別当そのものの意味がなくなります。「古城山史話」で別当とする根拠を知りたいところです。別当と言うのが正しいのか誤りかは、判断する材料がありません。

さて、上記の様に最上家が改易されて野邊沢城に城主がいなくなったころから、観音寺は次第に経営が苦しくなっていったようです。衰退する理由を次の様に考えてみました。

Ⅰ 寺領没収か

 因みに延沢(三日町)にあった真言宗の吉祥院は、最上家改易後に寺領50石が没収され、住職はこの地を去ったと青井法善氏の「郷土史之研究」に記述されています。観音寺が真言宗かどうかは分かりませんが、密教系であろうと思われます。もしかしたら観音寺も寺領を没収されるなどしたかもしれません。もしも寺領が没収されていれば、経営難に陥った可能性があります。

Ⅱ 人も物の流れも変わった

 「延沢軍記」の野辺沢記には次の一文があります。縦書きを横書きにしました。

霧山ヶ城の東切通したる、延沢の落城後、森合通路ハ弐丁余の廻り迚、左京殿御切通し給ふとや、

 最上家改易後の寛文年間に、山形藩の鳥居家が延沢銀山からの運搬を改善するために、現在の六沢トンネルの上部にある鞍部に切通しを造って新道を開鑿しました。私は現場を2020年4月に確認できました。硬い岩を削った大工事だったようです。新しい道によって人と物の流れが大きく変わり、繋沢の通行量が極端に減少したでしょう。

Ⅲ 周囲の人家が減少した

 城の裏門側を守る野邊沢家の多くの家臣たちが、繋沢にも居住していたものと思われますが、改易後にその場から離れてしまい観音寺周辺の集落が壊滅状態になった可能性があります。

Ⅳ 寺請制度

 徳川幕府は檀家制度及び寺請制度を始めましたが、観音寺がこの制度とは異なる経営だった場合は、檀家から得られる安定した収入がないので、人通りが極端に減少すれば苦しい経営に陥る場合があります。

 観音寺が衰退して無住職になるなどしたために、六沢村々民と円照寺が昭和52年まで守ってきたのでしょう。円照寺に保存されていた観音寺の山号扁額(さんごうへんがく)が、「古城山史話」に写真が掲載されています。明治初期に観音寺が廃寺となって、扁額が円照寺に保存されたようです。扁額の写真は昭和58年(1983年)ごろに撮影されたようですので、それから40年後の今でも円照寺に大切に保存されているものと思います。

図10 扁額のイメージ画像

 この扁額については、「郷土史之研究の繋沢観世音の項目に「(山澤城と書かれた額面が繋沢観音堂に保存されていて、)城澤山観音寺と称していたのである」と記述されています。観音寺が廃寺となった明治初期から昭和52年に円照寺へ移されるまでは、扁額は観音堂に保存されていたものと思われます。「郷土史之研究」には、さらに扁額の裏に書かれている内容が記されています。

図11 扁額の裏書

 扁額を寄贈した者などの記名だと思います。松平下総守清良は主催者、土方は工作した者、竹下は揮毫者、白井と小松は松平の配下の者と見ました。

 裏書の年号に関係するこのあたりの出来事を「古城山史話」の野辺沢家関係略年表から拾い、簡単な表にしてさらに少しの説明を加えました。

西暦

年号

代官名

御城番名

1622

元和八年

(山形藩領)

鳥居左京之介(山形藩主)

1636

 

(〃)

保科肥後守   (〃)

1643

 

(〃)

堀田太郎左衛門 (〃)

1644

正保元年

松平清左エ門

1648

慶安元年

松平下総守   (〃)

1658

万治元年

松平市左エ門

1665

寛文五年

(御城番廃止)

1666

寛文六年

松平清兵エ

 

1667

寛文七年

(十月十一日破却済み)

 廃城になった野邊沢城の御城番は、鳥居家から松平忠弘まで代々、山形藩主が務めていたようで、延沢領が山形藩から外れて直轄地になってからもそれは変わらないで続いていました。扁額裏書の松平下総守は満17歳頃に山形藩主となり御城番に就きました。10年後、次の御城番にバトンタッチしましたが、その人物は山形藩主ではない様です。さらに7年後には御城番は廃止されています。肝心の御城番がどんな役割を持っていたのかは調べることができませんでしたが、恐らく城の最高管理責任者的なものかと想像しました。

 「松平下総守清良」は当時の山形藩主松平忠弘で、Wikipediaによると「清良」は幼名とのことです。扁額を寄贈した時、忠広は既に36歳なのに何故、幼名を用いたのか不思議です。

 裏書から扁額が作られたのは、野邊沢城が破却(解体)される約3ヶ月前です。松平忠弘は既に御城番の任を務めていませんが、まだ山形藩主です。わざわざ山形から延沢までやって来たのか、それとも寄贈の品物だけを届けたのかは分かりません。何れにしろ、無事に城の解体を完了できるように祈願したように見えます。もしも、山形城主が訪問したならば、さぞかし延沢を支配している松平清左衛門代官も、丁重に迎えたであろう姿が目に浮かびます。代官も山形城主も同じ松平姓ですから、由緒あるお仲間かなと素人らしい想像をします。

 観音寺に関する次の歴史資料もあります。「郷土史之研究」によると、観音堂門前の左側に次の石仏(供養塔)らしきものがあると書かれています。ただ私は現場で実物を確認をしておりません。

図12 観音地蔵経供養塔

 この資料を観音寺に関係していると判断したのは、「七十五世 正憲」の部分です。「世」の文字は住職によく使われます。それにしても75代目の住職とは、よくもここまで代を重ねたものです。供養塔が建てられた文化七年(西暦1810年)は、野邊沢家が消滅した1622年からまだ188年です。

 供養塔の「宮内神宮寺(じんぐうじ)」の文字は、現在の南陽市宮内にある熊野神社の中にあった寺だと思われます。当時は神仏習合で大きな神社に付随して神宮が建てられていたそうです。宮内の熊野神社に神宮寺があったという記録を見たことはありませんが、宮内の熊野神社は全国的に見ても大きな神社であることと、宗教的にも天台宗、真言宗、修験道などを幅広く網羅していたという事ですから、供養塔の「宮内神宮寺」はそのまま受け取りたいと思います。そこで観音地蔵経を六万回も供養して修行したと示す石仏かと思います。そのことから観音寺は真言宗などの密教系の寺だったかと想像します。

 ところで、観音経という単語はありましたが、観音地蔵経という単語を見つけることができませんでした。また、六万辺とか一万部という途方もない回数はどのようにして達成できるのかを想像することができません。

 この供養塔を建てた文化七年は、畑沢の巨大な湯殿山・象頭山の石仏を建てられた前年です。このころ各所で随分と多くの石仏が建てられています。「古城山史話」によると、観音寺は天保年間からしばしば無住職となった旨が記されていますが、文化七年(西暦1810年)から天保年間(1830~1844年)までは20年しかありません。もしかしたら正憲が観音寺の最後の住職だったかもしれません。ところで、六沢には文化四年に建てられた湯殿山の石仏があります。3年の開きしかないので、正憲が揮毫したのかなと想像したりしてみました。

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繋沢観音堂跡は驚きに満ちていました。(その1)

2023-08-04 19:42:35 | 歴史

 今回は尾花沢市六沢地区に係ることです。一応、ブログ内容の分類では「歴史」などとしていますが、どちらかというと「あれこれ思いつくまま」分野です。脇道に反れることの多い私ですから我慢してください。六沢は同市の畑沢と比べると広大な地区です。その中から繋沢観音堂跡などについて、「延沢軍記(昭和60年 尾花沢市史編纂委員会編集)」などを参照しながら「あれこれ思いつくまま」投稿します。できるだけ間違わないよう注意を払いますが、それでも間違いを恐れず私なりに掘り下げてみます。

図1 繋沢観音堂跡の位置図

 そもそものきっかけは、「畑沢地区の熊野神社周辺の椿が何たるものか」を調べるために、六沢地区を訪れたことです。7年ほど前、尾花沢市で最も植物に詳しい大高滋氏に野外に自生している椿に教えを請うたところ、明快に答えてくださいました。

「尾花沢市内で雪椿が見られるのは神社仏閣や墓地で、自然の山林などでは自生していない」

大高滋氏は、既に故人となられています。もうお教えを請うことはできません。私は尊い貴重な教えを受けたことになります。もう大高氏のような御仁にはお会いできないかもしれません。

 さて、大高氏の言ことを逆に受け取れば、「神社仏閣の境内や墓地に雪椿があるかもしれない」ということになります。そこで、常盤地区でも最も古い歴史を持つ円照寺なら椿があるかもしれないと出かけました。御住職がおられたので、椿を植えられているかどうかをお聞きしたら、直ぐに御返事を頂戴しました。

「寺には椿はない。しかし、繋沢観音堂跡には、普通の椿とは違った素晴らしい椿があると聞いている」

 大変、優しく対応して下さり、そこへ至る道も丁寧に説明してもらいました。早速、行って見ました。繋沢観音堂跡への入り口は、綱木川を渡って直ぐです。

図2 入口の写真

 

 因みに尾花沢市史編纂委員会が昭和60年に著した「延沢軍記」に掲載している口絵の写真では、入り口に鳥居が見えますし、橋の形も今のそれとは違います。観音堂に鳥居というのも分かりにくいのですが、神仏混淆ならいたって普通のことでしょう。私はそれが好きです。繋沢の入り口にあった鳥居は、現在、繋沢観音とともに円照寺に移されています。柱に刻まれている創立年は、明治14年辛巳(西暦1881年)です。この繋沢観音跡に建っていたという観音寺については少し詳しく後述しますが、観音寺は明治初期に廃寺となったという事ですので、この鳥居はその後に建てられたと推察します。

図3 円照寺内の鳥居

 

 入口から少し進んだ右側に、雪椿らしきものがありました。葉柄が短くて、雪椿の特徴がありました。残念ながらまだ花は咲いていません。雪椿かどうかは判定できません。開花期に出直す必要があります。椿のことは別の日にブログで説明します。椿のことは大事ですが、私はそのこととは別に椿の向こうの景色に驚きました。椿の直ぐ西側の広い場所に石仏が4体ありました。

図4 観世音

 いつ建てたかは分かりません。「観世音」の左脇に草書体の文字が刻まれていたのですが、私の能力不足で一文字が分かりません。「林□如意」「講中」としておきますが、怪しいものです。でも、観音講での石仏かなと見当を付けました。この場所が観音を祀るお堂があった場所ですから、昭和52年までの長い間、観音講が実施されていたと推測します。

 

図5 天照皇大神・豊受大神

 明治26年に16人、大正5年に12人、大正8年に5人の名前が見えます。

 

図6 八幡大神・天照皇大神・春日大神

 いつ建てたかは分かりませんが、この神様のメンバーは明治以降かなと想像しています。

 

 この奥にさらに道が続いていて、石で造られた祠がありました。

図7 観音堂跡祠

 これが繋沢観音堂跡の記念として建てられたものと直感しました。建てられた年などは刻まれていませんが、観音が円照寺に移転した昭和52年(1977年)ごろだと思います。この場所は観音堂の中心位置だったのかもしれません。

 

 さらに敷地内の林を西へ抜けると農地が広がっています。その右側の尾根の付け根に鳥居が見えました。好奇心の塊は老身になっても健在です。細い小さな尾根にお堂がありました。

図8 稲荷神社

 この神社については、菅藤貞次郎氏の「古城山史話」に次の説明があります。

※六沢つなぎ沢の稲荷神社

 元亀二年(1571)稲荷宮として建立。 祭神は保食神(ウクモチノカミ)とし農業を司どる神である。今に残るつなぎ沢稲荷神社々屋の規模は小さく、わずか壱間四方にちょっぴり奥院を付したものだが昔はもっと大規模なものだったろう。境内は今こんもりとした杉林となっているが中に六本杉という変った杉が残っている。何のことはない、これは一度伐採された大杉の切口から又小杉が生え、それが六本になって何れも数百年を経ているのである。付近には尚大木の伐採跡がこけむして随処に残っており、わずかに昔の面影をしのばせる。

 例祭日は旧三月十二日で昔から変ったことがないとのことです。小さな御堂ですが、野邊沢城があった時代に建てられたかなり古い神社のようです。

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田植が早く終わりました。

2023-05-23 15:33:55 | 近況報告

 令和5年5月21日(土)に畑沢へ妻と一緒に田植の手伝いに行きました。最近、日ごとの気温が乱高下していますので、田植え実施日を決めるのが大変だったようです。幸い、この日の天気予報では、山形市が28度、尾花沢市が26度でしたので、少しだけ暑いことを覚悟しました。天気が良いと憎き「ヌカガ(畑沢ではヌガと言います。)」が現れません。少々暑くてもヌカガがいない方がましです。

 畑沢は新緑から濃い緑へと変わっていました。いつもは畑沢で田植えをしていても、我々の他には何所でも田植えをしていませんでしたが、今年は2軒が田植えをしていました。どちらも会社などを定年退職して、専業農家となっているお宅です。

 

 今年から作付け面積を大幅に減らしたので、田植えはほぼ半日で終わりました。少し物足りないような気がしますが、周囲の景色は畑沢です。水田の近くまで山裾があります。山は花盛り。先ずは目の前の花、ガマズミです。我が家にもこの木があるのですが、まるで別種の様に生き生きとしています。

 

 畑沢の山の斜面は急な所が多く、そのような所の代表がタニウツギです。低木で幹が柔軟なために、急斜面の積雪で押し曲げられても折れません。「ウツギ」は「空木」の意味で、幹の中心が空洞になっています。この写真では花弁が大きく写っていますが、実際の大きさはこの半分以下かと思います。拡大すると、結構、見事な花です。

 

 田植えの時期には、遠くの森からカッコウ(郭公)の鳴き声が聞こえてきます。この日も鳴いていました。最近、山に目立つ樹種は、ミズキ(水木)としたの下の写真のフジ(藤)です。水木は、昭年代ごろまで旧正月に団子などを飾るために山から伐り出されていました。しかし、その風習は皆無となり、水木は伸び伸びと成長しています。藤は他の木に絡みついてその木の成長を阻害しますので、山の手入れで取り除かれましたが、今はその必要も手間もありません。

 

 川べりには、美しい花はありませんでした。しょうがないのでシシウドを撮りました。こんな言い方までされて可愛そうですが、美しく撮れる腕がありません。

 

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ユキツバキかなあ。(その10) 5回目の大平地区

2023-05-11 20:19:12 | 自然

 畑沢の熊野神社周囲に群落となっている椿の種類を調べるために、「ユキツバキかなあ」と題して「その9」まで投稿してきました。実にのんびりしていて、直近の投稿は昨年の10月29日です。それから半年以上も隔てての投稿です。しかし、言い訳をしますと、それなりに理由があります。ユキツバキの特徴は「花」に最も顕著なので、開花期を待っていたのです。

 そろそろ今年も「花」を見てこようかなと思っていたのですが、今年も異常に気温が高い春になり、急ぎ足で春が過ぎ去る気がしました。昨年は5月16日に山形市の大平地区へ見に行ったときは、花はほぼ終わっていて僅かに残っているだけでした。それでも本場の雪椿を見て感激しました。そこで、今年は遅れないようにと、令和5年5月1日に大平地区に出かけようかと西山形コミュニティーセンターのホームページを開いたところ、既に4月30日に「雪椿まつり」が開催されていたことが分かりました。ここ何年か雪椿祭は休んでいたのでしたが、今年は再開したようです。しかも前日でした。祭りに間に合わなかったのですが、それでも翌2日に妻と出かけました。

 大平地区の雪椿祭が行われた会場には、まだ幟(のぼり)が立っていました。地元の人たちが頑張って開催して下さったのに、当日、参加できなかったことに申し訳ない気持ちが湧きました。昨年、大平地区の方々にお世話になったものですから、そのお礼を申し上げたかったし、祭の盛り上げに加勢できなかったことが悔やまれます。

 

 駐車場から奥へ進む道と並行して水路が流れています。私は水路の脇を通るのが好きです。昨年は水路に枯れ枝や落ち葉があって、水の流れを妨げていましたが、今年は綺麗に片付けてあります。増えすぎた水芭蕉も適度に間引いてあります。残念なのは、水芭蕉の花が終わっていることです。今年はかなり早い時期から暖かくなっていました。

 

 さらに奥へ進むと水路がせき止められて、小さな池の様に水面が広がっています。取水口らしきコンクリート桝もあります。

 

 水底を見ると、白い砂地が動いています。湧き水です。とすると、コンクリート桝は飲用水の取水口なのかと思います。

 

その脇には、「水神」の石仏がありました。大切な水源を守っています。

 

 昨年はここで進むのを止めていましたが、今年は左へ下る道が見えます。散策路の藪も刈払って下さったようで、自然とその方向へ足が向きました。湿原に長い木歩道が渡っています。ここも今年は大々的に修繕が施されていました。新しい杭が打ち込まれ、木歩道の材木を繋ぐ「かすがい」もピカピカに光っています。

 

 すると、散策路は雪椿の大群落の中に続いて、周囲がすべて雪椿です。見事な群落です。その向こうには大きな沼があります。去年、椿沼があると聞いていましたが、なにしろ藪が邪魔して見えませんでした。沼に近づくとその大きさが分かりました。岸辺には、水芭蕉が私を待っていてくれました。

 

 岸辺の倒木に初めて見る菌類がありました。何かの図鑑で見たことのある姿ですが、名前も正体も分かりません。「真菌類だろう」ぐらいの予想です。朽木から養分を得ているのでしょうか。何方か教えてください。上へ向かって口を大きく開けて、右側のものの開口部は6cmぐらいもあります。何となくユーモラスですが、真っ黒い口の中に全てを吸い込まれるようなミニサイズのブラックホールを思わせる不気味さもあります。

 

さて、本題の雪椿について、観察したことを報告します。

 水路の近くの雪椿は、もう終わりかかって少ししか花がありませんでしたが、園内はまだまだ雪椿が沢山咲いていました。花の色の濃さには木々によって少し違がありました。

 

 雪椿の花の特徴は、特に雄しべの芯にあります。一本一本が根元から独立しています。さらにここの雪椿で気付いたのが、中心部の雄しべが短く、周辺部ほど長いことです。その中心には雄しべよりも少し長い雌しべあります。そのために雌しべを楽に確認できます。

 

 

 さらに、「葉」です。光にかざすと、葉脈がはっきり見えます。当たり前ですが、表裏ともです。

 

 葉柄もヤブツバキのそれよりも短くなっています。

 

 雪椿のもう一つの特徴は、葉柄に短い毛が生えることですが、その年に展開した新しい葉でないと確認できません。6月まで待たなければならないかと思います。

 

 ところで、肝心かなめの畑沢の椿は、これらと並行して調査を進めており、既に花は確認しました。葉脈も確認ましたが、新しい葉が出てからまとめて報告します。

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