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2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

横手やきそば食べ歩き キャベツの歴史

2024-02-13 23:58:49 | 食文化

3連休の時間のある時に、ソースに続いて、今度はキャベツの歴史をお勉強してみました。というのは、当初のもんじゃ(文字)焼きやどんどん焼きにはキャベツが入っておらず、関西に伝わって一銭洋食となった当初もキャベツは入っていなかったとのこと。ならば、キャベツの量産時期と、一銭洋食にキャベツが入ってお好み焼きになる時期と重なるのでは?と。

キャベツは紀元前6世紀ごろにはケルト人が栽培を始め、古代ギリシャやローマで薬として使われていたと。中世の欧州では非課税対象だったため、また寒冷地での栽培も可能だったため、貧しい農家の自家用や家畜のえさとして栽培が広まり、日本には江戸前期にオランダ人が長崎にもたらしたが、当時は観賞用。今のような結球性のキャベツが伝わったのは幕末の1850年代の横浜とのことで、居留地の外国人向けだった。

1871(明治4)には、殖産興業の一環で北海道開拓使により栽培が始められ、これが日本での本格的な栽培の始まりとされる。各地で栽培が試みられ、長野での栽培も1893(明治26)年に開始された。ただ、明治前半にはキャベツが一般市民に食べられることは少なく、ソースが出回った頃から徐々に普及が始まった。

またこの頃のキャベツは、今でも北海道の一部で生産されているような現在の倍ほどの大玉だったと云う。このため家庭で邪魔にならない大きさの品種改良などが進み、更に鉄道の全国的敷設(1890年代~)により遠隔地から関東に大量物資輸送が可能になったことやソースの普及、洋食ブームなどもあり、キャベツが食べられるようになったが、今のようにキャベツが大量に食べられるようになったのは、戦後の食糧難以降であると云える。

先日書いた一銭洋食は昭和初期頃からどんどん焼の延長で始まったもので、その当時の関西の一銭洋食にはキャベツは使われることはまだ少なく、今のようなお好み焼きの形になるのは、関東では昭和初期、どんどん焼きから発展する形で一部で食べられていたようですが、関西でお好み焼きが一般的に食べられるようになったのは戦後、との話のようです。ちなみにお好み焼きは関西発祥というのが以前の説になっていましたが、最近では関東で生まれ、大阪に伝わったという説が有力になっているようです。

コメント
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