新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

大仙市内の湧水巡り

2021-06-30 23:45:01 | 水関連

本日はとりあえず動く、ということで、手始めに大仙市内の湧水巡り。市内で知られている湧水は4カ所。そのうち3つが旧太田町清水地区にあります。前にも言ったことがあるので、大体の場所はわかっていました。

<天王清水> 大仙市清水沖郷天王40

八坂神社の境内にあり、流量が多く、近隣の農業用水の水源となっている。参道左側に水源があり、所々で底から湧出しているのがみられる。参道の右側は水草が多い。

<春日清水>  大仙市清水沖郷大清水

材木屋の向かいの林の中にあり、道沿いに春日様が祀られている。直径3mほどの池の底から水が湧き出しており、綺麗な水にしか住まないというハリザッコ(イバラトミヨ)が泳ぐのを見ることが出来る。

<金鐙清水> 大仙市清水上黒土249

周辺は農村公園として整備されており、金鐙八幡神社の裏にある清水には30cmほどのコイ数匹が泳ぐ。

このあと、協和地区まで足を延ばし、大盛館、道の駅協和に寄り道して、大沢郷にあるという雄清水・雌清水に。

<雄清水・雌清水> 大仙市大沢郷宿

宿地区のはずれにある湧水(汲み場)。東屋が立つ農村公園地内にあり、昔から延命の水として知られ、この日も車を寄せて水を汲む人が引っ切り無しでした。

本日は大仙市内4カ所にて終了。

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今年の初収穫

2021-06-29 23:42:53 | 畑・工作

「ものぐさ農業」実践中で、今回も先週の支柱立て以降、放置していた畑ですが、そろそろと思い出向いてみると、早くもキュウリが大物になりつつありましたので、本日今年の初収穫となりました。キュウリが3本と、シシトウ。シシトウはまだ木が大きくなってはいないのですが、しっかり実をぶら下げていて、採ってしまわないと木の成長に栄養が行かなくなりそうでしたのでザっと収穫。本日の夕食の食材となりました。

これからキュウリとシシトウは食べるのと実のとの競争状態。特に今年はお客様もそんなに多くなるとは考えにくい状態ですので、早めに辛子漬けにして保存を考えないといけないようです。

さて、昨日から始めた水関連のお勉強。とりあえず湧水関係のデータは集まりましたが、出来ることなら現場を実際に見てみたいもの。明日から遺跡巡りと湧水巡りを併せて動こうと思っています。時々

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水関連のお勉強開始

2021-06-28 23:40:12 | 水関連

(美郷町・星山清水)

本日は暑さ爆発で、横手や角館で33℃となり、今日だけで云えば日本一の暑さとなったようです。先日まで縄文を中心とした遺跡巡りをしていましたが、この暑さではかなり厳しくなってきました。それに行っても田んぼと畑、森を見る感じで、達成感が乏しくなってきました。

先日お客様と話していたら、湧水やダム、滝、湿原などの水関連というのが、マニアがいるだけでなく、観光地になっているところもあり、ちゃんとお勉強してみるのに価値がありそうだとなりました。前回古代史は途中で息絶えて、この春に復活したばかりなのですが、またも棚上げになりそうです。

ちなみ水関連では隣町六郷に湧水群がありますが、湧水群をしっかり巡ったのは、かれこれもう10年以上前になってしまいました。その後の状況変化もあるので、再調査の意味も含めて、少し形に出来ればと思います。

ちなみにそのお客様からのリクエストは、必ずババヘラ(アイス)が出現する場所の地図、だそうです。観光客にとっては必要かもしれませんが、神出鬼没なのがババヘラのいい所、運が良ければ見つかる(遭遇する)し、頑張って見つけてください。

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いつ書いたの?

2021-06-27 23:38:18 | 秋田古代史

空いている時間は、引き続き秋田の古代史のお勉強をしたりしています。便利な世の中で、いちいち本で調べなくともネットでいろいろ勉強ができるようになりました。しかし、ここで問題なのが、いつその資料が書かれたか、です。以前廃業ユースホステルを調べた時、現状を見るのにgoogleのストリートビューを使いましたが、それもいつ撮影されたものかがわかるものと、わからないものがあり、直近の変化をお客様から教えて頂いたこともありました。

古代史を調べてみると、時代によって基本的な考え方が大きく変わったり、技術の進歩でそれまでの説が覆されたりというものがあります。例えば地層時代の「第四紀」は人類の時代とも呼ばれ、かつては人類誕生が180万年前だったことから、そこから始まったとされていましたが、2010年にはホモ・ハピリスという原人が誕生した258万年からと、その定義が国際地質化学連合により変更されています。

また2000年には東北を中心として、北海道から関東、中部地方を含む遺跡で捏造事件が発覚し、それまでの20年間の調査がほぼ全て白紙とされました。このため、資料が2000年より前のものと、後のものでは書かれ方が大きく異なりますし、知らないで資料を使うと、後で取り消しになった遺跡を扱ってしまう可能性があります。

これらのために、資料を見る前に、その記事がいつ書かれたかを見るようにしていますが、ネット記事には記事の記載日時が書かれていないものも多く、日にちだけで「年」の記載がないものもあります。アナログながらも書籍であれば、一番最後に出版年月が記載されていますので、そういう面では安心して使えるとも云えます。

時々

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横手市/吉乃鉱山

2021-06-26 23:28:46 | 鉱山

先日の十文字ツアーで、せっかく梨の木塚遺跡まで来たので、ついでに吉乃鉱山を見に行きました。十文字駅から国道342号を東に8kmの成瀬川北岸、梨の木塚遺跡から車ですぐの吉野集落にあった銅鉱山。発見は享保2年(1720)にはすでに鉛の採掘が行われていたと記録が残る。江戸時代は鉛や銀の採掘が個人により行われ、一時は院内銀山の銀精錬用にもここの鉛が使われたという。

(選鉱場跡地)

大規模な採掘が行われたのは、明治44年(1911)にそれまで小規模だった鉱山を小坂鉱山の技術者だった武田恭作が買収し、当時経営していた椿(後の発盛)鉱山の支山として採掘を開始。大正4年に熊ノ沢で新たに大鉱床が発見されたことで、大日本鉱業㈱を設立し、吉乃鉱山に改名した。大正6年には十文字駅まで6.4kmの架空索道(鉄索)や水力発電設備、選鉱場増強などの設備投資を行い、産出量は粗銅23t(明治44年)から3,974tへと急拡大し、本邦の重要鉱山に数えられ、吉野地区に鉱山関係者6,000人を超える鉱山町が出来上がった。

第一次大戦後の不況で人員整理を行ったが、その後生産は回復し、年1,000t前後の銅精鉱を荒川、小坂製錬所に売鉱。昭和6年には住友財閥が資本参加し、鉱石は発盛製錬所まで鉄道輸送した。第二次大戦中には需要に追い付かず、隣接の倉刈沢(増田)鉱山を買収し、高水準の産出を続けるため、朝鮮人労働者も使ったという。

戦後は、戦時中の乱堀とそれによる鉱石の枯渇、資材不足による坑道保全の不備などの悪条件が重なり、朝鮮戦争時には一時盛り返したものの、市況の低迷、鉱石の枯渇で昭和32年(1957)に休山。大日本鉱業㈱は昭和52年(1977)に解散した。閉山後、長期にわたり鉱毒対策が行われ、現在でも廃水処理が行われている。

吉野集落の奥、沢の入口の当時の架空鉄索の吉野駅があったと思われる場所には、吉乃鉱山の案内板と、当時の鉄索の支柱と思われる鉄塔が一つ残されていました。そこから舗装された道を沢伝いに上がると、排水処理を現在でも行っている施設があり、沈殿槽などが現在でも稼働中のようで、少し廃鉱山の雰囲気が残っていました。その一番上の開けた場所にかつては選鉱場があったようで、道路はその先は鎖で通行止めとなっていました。この沢の奥、突き当りには4番坑入口があったようですが、安全のため入口はコンクリートで封鎖されているとのこと。

(この先に鉱夫長屋があった?)

沢の入口まで戻り、吉野集落を東に進むと、山神社の入口階段が残っており、そこから左の沢を上がった所には鉱夫長屋が並んでいたそうですが、そちらは入口すぐに未舗装になり、既に背の高い草むらで入るのを拒むような状態。集落の東、現在工場のある場所には役員住宅19棟があったとのこと。

観光鉱山ではありませんし、今でも廃水処理が続いている場所ですので、多くの場所が立入禁止状態です。道路での見学は出来ますが、無理に入り込もうとすると熊の危険もある場所です。また今の時期は何処を見ても草むらで、やはり初春か晩秋が適時のようです。

のち

 

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2021年の全国花火競技大会(大曲の花火)は開催見送り

2021-06-25 21:02:31 | お知らせ

本日、大曲商工会議所より、2021/8/28(土)開催予定だった第94回全国花火競技大会(通称・大曲の花火)が、昨2020年に続いて2021年も開催を断念するとの発表がありました。94回という回数が付くため、中止ではなく延期との扱いになります。

5月の春の章が6/12に延期後、中止となり、また政府からイベントは来場者MAX1万人という目安が先日公表され、70万人とも80万人とも云われる大曲の花火が屋外とはいえ、会場やその道中、交通機関など密にならない工夫が出来るかどうか。更にマスコミではインドから出た新型コロナのデルタ株の感染拡大もあり、8月中旬には再び拡大が懸念されるとの話もありますので、今年の延期も止む無し、残念ながら想定の範囲内と云わざるを得ません。

当YHでは、開催の可否が不明だったことから、花火の日の宿泊予約を1か月前の7月下旬に開始予定としていました。しかし、今年も開催見送りとなりましたので、花火が予定されていた8/28の宿泊予約は、従来通りで特別な料金や予約受付等は行わず、他の日と同等の扱いとなります。なお、引き続き、夏の期間を含めて当分の間、直近2~3週間前までの予約しか受けていませんので、ご了承ください。

 

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横手市/(縄文)梨ノ木塚遺跡

2021-06-24 23:38:39 | 秋田古代史

先日の十文字ツアーでは、図書館、宝竜塚遺跡を見た後、秋田県南では数少ない遺跡が簡易な公園になっている増田町の奥、梨ノ木塚遺跡に向かいました。ここは以前に東成瀬や栗駒山に行く途中に通り、何かある?と気にはなっていた場所。国道342号の真人と吉野集落の間の南にあります。

調査報告書によれば、梨ノ木塚遺跡は昭和37年の遺跡分布調査で発見された古くから知られた遺跡で、本格的な発掘調査が行われたのは昭和53年にすぐ近くの吉乃鉱山の鉱毒汚染を除去するための公害防除特別土地改良事業で、遺跡の一部が破壊される恐れがあったため、その前に本格調査を行ったとのこと。

縄文時代の前期初頭から前・中期を経て、後期に一時途絶えながらも晩期週末までの出土品や竪穴住居跡とみられる柱穴が発見されたという。中でも晩期の遺構では日常生活に関連ある遺構が少なく、その時期に東北から北海道ではよくみられる墓域と生活の場が分離されたという特徴がみられるようだ(梨ノ木塚遺跡発掘調査報告書、1979年、増田町教育委員会)。

以前通った時には、縄文式の竪穴式住居が復元されていた記憶がありましたが、今回行った際には、看板が残るのみになっていました。発掘後の活気があった時に一丈木遺跡と同様に、公園として竪穴式住居を復元したのでしょうが、その後補助金の枯渇や積雪による倒壊などメンテナンスが出来なくなり、復元住居はなくなったようです。

出土品の一部は、十文字図書館2階の歴史民俗資料室に展示してあります(無料)。

時々一時

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美郷町/(中世)本堂城跡

2021-06-23 23:32:16 | 秋田古代史

先日の千畑ツアーで本堂城回湧水群に寄り道してしまいましたが、次の目的地は本堂城址。払田柵跡の北東にあります。今まで城巡りのお客様だけでなく、ここに縁のある方なども当YHに来られて、話をしたことはありましたが、千屋断層と同様、知ってはいたのですが、来ることはありませんでした。

本堂城回湧水群からすぐの場所にありました。一応、ここからも縄文の土器や平安時代の住居跡が発掘されている遺跡なのですが、その後本堂城が同じ場所に出来たことで、そちらが有名になり、縄文、平安の遺跡部分の看板等はなにもありませんでした。

ここの城主だった本堂氏は、鎌倉時代に和賀郡(岩手県)に土着し、南北朝時代の観応年間(1350頃)に現在の仙北郡に進出した氏族とのこと。戦国時代にこの地域は、戸沢氏(角館)、安東氏(秋田)、小野寺氏(横手)が勢力争いをしており、本堂氏は当初はここより東の真昼川上流、浪花字館ノ沢に山城(元本堂城)を本拠地としていました。

天文年間(1540年前後)の戦国時代後半にはこの地域を支配する小大名となり、山城から現在の場所に本拠地を移したとみられている。その後本堂氏は豊臣秀吉の小田原征伐や朝鮮出兵にも参加したが、関ヶ原の戦いでは徳川方について、戦後常陸に領地替えとなり、その子孫は江戸幕府の旗本として存続、幕末の戊辰戦争では新政府側について、後に男爵を授けられたという。

本堂城址はかなり広い草原となっており、内堀のように内館跡を囲むように水田があります。内館跡の北側には石碑や鹿島様などもあるようでしたが、そこまでの間もかなり背の高い雑草地となっており、入口にて今回はUターンとなりました。このところ訪ね歩いている古代の遺跡跡と違って、かなり具体的な形状が残る遺跡ですが、最終的には、ここでそうした暮らしが営まれていたんだと、妄想することになりますので、想像力豊かでないと、行っても面白くないかもしれません。

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キュウリ・トマトの支柱、2回目の枝豆の種蒔き

2021-06-22 23:27:52 | 畑・工作

先週末に畑の雑草処理は行いましたが、野菜の面倒を見るのは、サボりがちで「ものぐさ農業」発揮中ですが、そろそろトマトとキュウリの背が伸びて、倒れる恐れが出てきましたので、本日は午前中の雨の止んだ時間を見て畑作業。

最初にキュウリの肥料袋を外して、トマトと併せて立派な支柱を立てました。しっかりと固定しないとキュウリとトマトの実の重さで倒れてしまいますので、何カ所も紐で結ぶため、結構時間がかかり、1時間半の作業。

先月中旬に植え付けた枝豆は、結局一か月経過しても発芽が非常に少ないため、あきらめて、一畦分を新たに種まき。今日から85日で収穫となる予定ですので、9月15日頃の収穫となります。16回目の畑で最も遅い収穫は果たしてどうなることやら。

ジャガイモは花を咲かせ始め、トマト、キュウリは少しずつ結実が始まりました。キュウリはあと10日ほど、トマトは7月下旬には初収穫が出来そうで、楽しみです。

時々一時

 

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横手市/十文字歴史民俗資料室、(縄文)宝竜堂遺跡

2021-06-21 23:43:41 | 秋田古代史

今日は1階客室の原状復帰が大体目途が付いたので、買い出しのついでに十文字まで足を延ばしました。最初の目的地は、道の駅十文字から近くの十文字図書館。本を借りるのが目的ではなく、ここの2階が歴史資料展示室になっていて、近くの遺跡で発掘された土器などを見ることが出来るとのこと。行ってみると、図書館フロントで声をかけると、2階を開けてくれます(入館無料)。遺跡からの出土品の他、江戸時代の古文書や地元の十文字和紙や仁井田菅笠などの民俗資料も展示保存されていました。

壁に近くの遺跡の地図があり、その中で宝竜堂遺跡と云うのが、近くにあるとのことで、図書館を出てから現地に向かいました。現地は今回も田畑が広がる場所でしたが、標柱があったため、場所はわかりました。

資料室に宝竜堂遺跡に関する詳しい情報は掲示されてなかったので、戻って調べてみると、宝竜堂遺跡は昭和46年(1971)に発掘調査が行われ、縄文中期の土器や石器と竪穴式住居と思われる柱穴跡が見つかった。その後昭和50年に近隣の田園から吉野鉱山の廃液によるカドミウム汚染が発覚し、公害防除特別土地改良事業として大規模な掘削と土の入れ替えが行われた際に本格調査が行われたとのこと。

この場所の南100mに大宮川という小川(国営M3幹線用水路)があり、大宮川の右岸には東から一本の沢筋があり、これが宝竜渕とよばれていたとのこと。この沢筋は現在埋められて水田となっているが、この合流点北側の微高地上に今木神社があり、神社とその周辺が遺跡となっているようです(宝竜堂遺跡発掘調査報告書1991秋田県教育委員会)、

史跡指定されているわけでもなく、遺跡が見てわかる状態で残っているわけでもありませんので、よほどのマニアしか行くことはないかと思いますが、それは行ってみてわかることです。

のち一時

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