goo blog サービス終了のお知らせ 

新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

東京で桜開花/藤原摂関時代は権力闘争に明け暮れ?

2025-03-24 22:43:11 | 秋田古代史

本日ようやく東京で桜の開花宣言。そうなるとテレビではお祭り騒ぎですし、次は東北の桜はいつ?ということになりそうです。

さて、歴史のお勉強は平安時代。中期になると藤原摂関時代と呼ばれ、藤原氏が権力を握るものの、政策的な新たな動きは少なく、もっぱら権力闘争的な天皇家と藤原氏のつながりが述べられることが多くなり、東北への積極的な動きも少なくなった時代ともいえるようです。

自分が学生時代に学んだ日本の歴史とは、時間が経っていろいろな面で齟齬が出ているため、最新の歴史の話を確認するためもあり、2022年にテレビ番組(BS-TBS)で半年ほど続いた「関口宏の一番新しい古代史/中世史」を録画しておいたので、それを見ていますが、やはり平安時代となると、天皇家の話と宗教、文学などが大半を占めて、政治(政策)の話は少なくせざる得ないようです。

昨年NHKで放映された大河ドラマ「光る君へ」では藤原道長の時代でしたので、もう少し後の1000年前後の話でしたが、この際も話の大半が権力争いに終始して、政策的に大きなことが決まるということがほとんど見られなかったようです。

この傾向は、藤原摂関時代から院政時代に至るまで続くことになるわけですが、その間平和だったからそうなったともいえる時代なのでしょう。お勉強していても面白くない時代と感じています。

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史のお勉強 平将門の乱(939年)

2025-03-22 22:25:46 | 秋田古代史

歴史のお勉強は平安時代。中期でクローズアップされる事象が、平将門の乱や藤原純友の乱に代表される地方に下りた公卿系武士の反乱。中央政府は一部の貴族の一族がその地位を押さえ、出世できなくなった貴族が地方に移り住み、その地で権力を持つようになった時代のこと。自分を守るためなどの理由で武装を進め、これが武士の起こりとも云われているようです。

平将門の乱というと、1976年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で加藤剛が演じ(藤原純友は緒形拳)、当時非常に興味を持ったので、親に頼んで岩波文庫のハードカバーの「将門記」を買ってもらったことを覚えています。

平将門の乱は、下総国佐倉(現千葉県)の平将門が939年に起こした反乱。若い頃は都で藤原忠平についており、自ら桓武天皇の五世と称していたが、出世が望めず、東国に戻ったところ、土地の相続争いなどで同門と争いになったのがきっかけ。最初は身内のもめ事だった。

お互いの援護の兵の争いが激しくなり、いくつかの国衙(国府)を落とすまで戦いが拡大。朝廷の仲介もあったが将門追討の官符(通達)が出るまでに至り、「新皇」を自称し、独立を図ろうとするところまで行った。このため940年に藤原忠文を征夷大将軍とした討伐軍を送り鎮圧されたというもの。

この年になって改めてお勉強をして、いろいろホホォ~と思うことがありました。まず従来は平氏=西日本、源氏=東日本というイメージでしたが、それは1000年以降位の話で、この時代は平氏=東日本、源氏=近畿というのが主流だったようです。平将門の乱の時機、武蔵国の権守興世王、権介源経基が赴任した際に足立郡郡司・武蔵武芝との紛争に平将門が仲介をしたが、この源経基が後の源義経の祖先であり、関東に根付くきっかけの一つという見方もあるとのこと。

まだまだいろいろありそうですが、今回のお勉強の中では、本筋とは離れてしまうので、ほどほどで本筋に戻ることにします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋田の歴史 元慶の乱(878年)

2025-03-18 22:08:01 | 秋田古代史

秋田の歴史のお勉強は、どうしても日本全体の歴史の中での秋田という観点から、全体の歴史のお勉強のウエイトが大きくなりがちです。そうした中で時々秋田の歴史的事項がクローズアップされることがありますが、今回の878年に起きた元慶の乱もその一つ。中学、高校の歴史の教科書にはほとんど出てこないワードです。

この前段階として、秋田に柵(城)が出来たのは733年、出羽柵が酒田から秋田に移されたのが始まり。その前には阿倍比羅夫の北征(658年)で歴史書に初めて齶田として名前が出て、柵ができるまでに75年ほどかかったことになります。秋田柵が出来て、多賀城からの直路建設(737年)があり、雄勝城が立てられ(760年)、雄勝、平鹿郡が置かれ、秋田県南までヤマト王権の勢力圏となっています。

同じ頃、宮城県ではアテルイと坂上田村麻呂の戦いなどで知られる三十八年戦争と呼ばれる蝦夷との争いが774年頃から始まり、多賀城から802年に胆沢城まで勢力範囲を拡大したものの、桓武天皇の即位、平安京建設などで財政難になったこともあり、徳政相論(805年)による方向転換で、武力による鎮圧から民夷融和政策による平和的協調を模索することになった。

その後は本格的な派兵が伴うような戦いは沈静化したものの、柵戸(ヤマト移民)と蝦夷との摩擦などにより、浮浪、逃亡するものが続出し、更に830年、850年と2度の大地震、疫病の発生などが相次いだ。特にこの時の秋田城司(司令官)の良岑近の過酷な税の取り立てが大きく災いし、前年の大凶作が引き金となり、住民の1/3が奥地(津軽)に逃亡したとも云われた。

こうした世情の混乱に伴い、878年に秋田の蝦夷が大挙して兵を挙げ、秋田城を焼き討ちし、度重なる政府軍の敗戦などもあり、遂には雄物川以北の地域で分離独立要求を出してきた。朝廷は新たに藤原保則を出羽権守に、秋田城司に清原令望、鎮守将軍に小野春風と任用。関東から援軍を送るほか、政府側についていた津軽・渡島の蝦夷からも援軍を求めるなどして、反乱は半年ほどで鎮定された。戦後処理も城司の悪政が朝廷にも認められ、重い懲罰となったものはほとんど出なかった模様。

この時の反乱軍は、太平洋側で見られたアテルイなど多くをまとめるリーダーが見られないものの、秋田県央から鹿角方面までの12の郷名が挙がっており、広範囲な連携が見られるようになっていた。またこの時派遣された城司・清原令望の末裔か関連する者が後に出羽・清原氏となって山本郡に勢力を張ることになったという説もある。

日本には多くの古戦場跡がありますが、さすがに平安時代の事ですし、中央政府の支配地域の外で起こったことですので、その痕跡を探すのは難しいのですが、秋田市の秋田城址ではこの時に焼け落ちて、新たに作られた秋田城の痕跡が詳しい調査で見つかっているようです。

のち時々のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高清水岡・秋田城址/ 秋田城跡歴史資料館

2025-03-11 22:01:01 | 秋田古代史

今日は気温が2桁まで上昇し、道路の安全も確保されそうだったので、久しぶりに秋田市まで足を延ばしてみました。目的は、昨年一度訪れたのですが、カメラの設定が悪くて使える写真がなかった高清水岡にある秋田城址をもう一度見て廻ること。最初に前回時間切れでパスした隣接の秋田城跡歴史資料館に。

かつてここには秋田県埋蔵文化財センターの秋田分室があった(本部は大仙市払田)と思っていました。戻って調べてみたら、2016年に現在の施設が出来たとのこと。入館料310円(2024.4より値上げ)。常設展示室2つに、秋田城の歴史や配置、発掘品などがわかりやすく陳列されていました。

前回来た時には、高清水公園の場所に秋田城と呼ばれる政庁地区があったのだと思っていましたが、今回資料館を見て、政庁地区は道を挟んだ西側で、公園の位置はいわゆる城外(鵜ノ木地区)に当るということを初めて知りました。

30分ほど見学して、まずは高清水公園方面に。前回(秋)は熊出没注意になっていましたが、この時期なら心配も少ないだろうと。こちらにはNHKのぶらタモリで紹介された平安時代の水洗トイレが復元されています。周辺には井戸や客館(迎賓館)、四天王寺などがあったとのこと。井戸は2か所あり、屋根掛けされた方はいまだに水が湧き出しているようでした。

次に東門を戻り、東大路を進んだ政庁跡に。こちらは再現された城壁に囲まれた地域となり、先ほどの歴史資料館と歩道橋でつながっていました。それにしても政庁入口の門はこんなに小さいものだったのだろうかと、つい考えてしまいました。

あるお客様に云わせると、ここは来るたびに新しい発見があるとのことですが、今回は少しはちゃんとお勉強になったかと。15℃前後まで気温が上がり、春めいた陽気になっていましたので、多くの犬の散歩組や散歩、ジョギング組の方がいました。

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平安時代の一夜城-胆沢城

2025-03-08 22:22:08 | 秋田古代史

今朝もシャバシャバ雪が降りましたが、昼にはきれいに消えていきました。昨晩も珍しく中学生の一人旅のお客様。今朝は始発の電車とのことで、30分前には起きた気配がしていたので安心していましたが、時間になっても玄関に現れず、部屋に行ったら二度寝していたとのこと。ギリギリで最寄り駅まで送っていきました。

さて、奈良時代から平安時代に移る時期、東北では三十八年戦争と呼ばれる蝦夷と中央の戦いが今の宮城県北部から岩手県北部で行われていました。坂上田村麻呂が征夷大将軍で攻めて来て、これを迎え撃ったのが蝦夷の酋長アテルイ(阿弖流為)ということでドラマにもなった話です。

アテルイが国府(政府)軍に投降した理由は、戦場に突然、立派な胆沢城が出来て、それに驚いたためと、胆沢の資料館の説明動画にありました。胆沢城は四方を塀で囲われた役所兼柵とのことでしたが、塀も3mほどのものだったようで、決して乗り越えられないものではないでしょうし、外堀があった場所もあるようでしたが、後の天守閣のあるような城などと比べると非常に貧弱な軍事施設だったと思います。

とはいえ、外の世界もその当時はまだまだで、一般住居は東北で今のような床のあるような住居ができるのはまだ先の話で、この時代の一般住居の多くは縄文時代と変わらない竪穴式住居が大半で、カマドが出来たのも少し前と、中央で立派な寺院が出来たのとは大きく時代が違う状態だったようです。そうした集落で生活していた人にとって、胆沢城のインパクトは大きかったようです。

また胆沢城の建設期間がどのくらいかかったのか、正確な資料はないようで明確なことはわかりませんが、周りが戦争状態の中でしたので、完成は802年で、かなり短時間に作ったようです。アテルイなどの蝦夷にとっては、秀吉の小田原攻めの際の一夜城(石垣山城)のような感じを受けたのかもしれません。

のち時々

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰服から征伐、更に共存へ

2025-03-05 22:02:52 | 秋田古代史

歴史のお勉強はようやく平安時代に入りました。平安時代最初は桓武天皇の親政で、旧仏教派閥の排除と北東北の領地拡大が2大テーマだったとのこと。奈良時代から特に宮城県北部から岩手県にかけての太平洋側の蝦夷の征伐が続き、テレビドラマでも描かれた蝦夷の酋長、アテルイ(阿弖流為)が出てくる時代です。

ヤマト王権の時代、中央と蝦夷との関係は「帰服」という形で、中央といい距離間で対等とは言えませんが、それなりにいい関係にあったようです。飛鳥時代から奈良時代には、武力による中央の領地拡大が続く「征伐」の時代で、多賀城を始め多くの柵が造られました。日本海側でも秋田城まで733年に領地拡大が進み、その後は雄勝城を中心に雄勝、平鹿郡が置かれ、ようやく「日本」に秋田県南が組み込まれました。

平安時代に入り、奈良時代末期の戦いは続き、奥六郡と呼ばれた今の岩手県南部は中央の支配となりましたが、そこを安定させるためにさらにその北や東の閉伊村(岩手東部)や爾薩体村(岩手北部)などまで軍を進行させ鎮圧しましたが、そこからは方針転換で、武力による支配地域の拡大をやめました。

その理由は中央の財政難と、兵力や物資、さらに柵戸と呼ばれる移民を主に提供していた関東や甲信越地域の疲弊とのこと。兵力でも数万、それに加えて移住民を10万人前後も出せば、足元の状況はひどいことになるのは想像ができますが、当時、中央から行けと云われて、見知らぬ東北に、それも友好関係もそんなに強くない蝦夷が周辺に住んで居る土地に移住というのは、行く方としては余程のことでしょうし、行けと云われて行くだけの力を持っていた中央も統治がちゃんと行われていたことになるのでしょう。

柵戸の多くは租税逃れのためという理由もあったようですが。こうした人たちの移住によって民夷融和政策が進められ、また反対に蝦夷の中から関東以西に移り住むこと(移配)になった蝦夷もあり、中には九州で防人となった人もいると事。東北にヤマトの人が大量に流れ込んできた「第一波」ということになりそうです。

のち

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代の仙台-秋田連絡路

2025-03-04 22:55:59 | 秋田古代史

今日は東京でも雪の予報で、恒例の大騒ぎ状態。こちらは3月に入ってからは雪は降るものの積もるほどではなくとける方が多いため、積雪はピーク(2/23)の126cmから70cm台まで減ってきて、玄関前の水路沿いは地面が出始めた状態になってきましたし、運動不足で少し体がなまり始めています。

さて、歴史のお勉強は秋田に出羽柵が移された(733年)時の話。陸奥国の国府は多賀城が724年に出来、出羽国の国府は酒田周辺にあったとみられるが、733年に秋田に(第二次)出羽柵として移され、ヤマト王権の支配地域がグッと北上した形になったとのこと。但し出羽国府が秋田に移ったのは800年頃とも。

それぞれ南からの交通路はあったものの、陸奥や出羽で蝦夷の反乱がおきると、ヤマト王権は片方だけに軍を派遣するだけでは、同調した反乱に対応できないとして、その時代、必ず両地域に征討軍を派遣していた。当時の征討軍となる軍団は、陸奥(多賀城)方面に多く駐在しており、秋田と多賀城を結ぶ連絡路の必要性が高くなっていたとのこと。。

このため当時の陸奥按察使(長官)兼鎮守将軍であった大野東人が737年にこの連絡路を開通させた、と史料にあります。

横手市史では、5695人の陸奥国兵と狄俘(帰属した蝦夷)249人、更に出羽国兵500人と狄俘140人が従事したとのこと。併せて6584人。賀美郡家(現加美町にあった郡役所)から奥羽山脈を越えて玉野(大室とも、現・尾花沢市)、平戈(ひらこほ・比羅保許とも、現)まで道路を開削したとあります。

横手市史ではかかった日数などが書かれていませんが、秋田県史では4月1日に色麻柵を出てその日のうちに大室駅(玉野)に到着したとのこと。開削という言葉が使われていたので、道路工事をしながらと思っていましたが、どうもすでに道があったようで、秋田県史では酒田にあったとされる(第一次)出羽柵への連絡路が尾花沢辺りまではすでにあったためとしている。

現在の道路地図を見ると、現在の加美町から尾花沢市までは国道347号があり、このルートかとも思われますが、秋田県史では「銀山を通って」とあるため、国道347号から脇道に入り、峠は少し南側を通って銀山温泉に抜けるルートが考えられるようです。

この時にこのルートが使われたようですが、その後秋田県南部や岩手県南部の蝦夷がヤマト王権に従うようになるにはもう少し時間がかかりますが、帰属するともっといいルートができ、現在では古川-新庄(陸羽東線)や北上-秋田(北上線)ルートが生活では使われています。国道347号ルートは冬季通行止めになることもあり、こちらがもっと頻繁に使われることがあれば、今の秋田県や山形県で街の場所など大きく違ったのか、などと考えてしまいました。

一時

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気分転換に、山形県の平安時代をお勉強

2025-02-26 22:13:57 | 秋田古代史

今朝は雪でなく雨で新たな積雪はなく、23日夜に最大126cmまで増えた積雪は、早くも94cm(18時・横手)にまで減ってきました。このため朝の雪寄せ作業はなく、税金の申告資料の作成が進みました。どうにかPC上での作業が終えて、あとはe-taxの書式に入力すれば提出となりそうで、あと1日の工程かなと。

少し気分が楽になりましたし、気分転換にと歴史のお勉強を少し。本気で本線(蝦夷の歴史)を進めるときりがなくなり、まだe-taxでの残りの作業があるため、今回は少し横道にそれて、山形県の歴史のお勉強に。

自治体史で山形県でネット公開されているところがほとんどなく、辛うじて舟形町史が使えるかなと。ただ読んでみると、古墳関係の話はあるものの、その次の奈良・平安時代の話がほとんどない状態であっという間に藤原摂関家の荘園の話となりました。

今まで秋田や宮城の話を中心にお勉強してきましたので、朝廷対蝦夷という対決が主になっていましたが、今の山形県がある当時の出羽国では、いち早く朝廷の支配領域となり、比較的平和な状態が続いたようで、荒々しい歴史が見られないようでした。そのため早い時期から荘園制度が導入されており、これは秋田や宮城が蝦夷との領域争いをして荘園の導入どころか、住民の定着にも苦労したり、柵を設けて治安をする必要があったのとは大違いのようです。

寒河江市のサイトにも寒河江市史の抜粋的なものがありましたが、こちらも同様で、一度大元となりそうな山形県史を見てみる必要がありそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうする屋根の雪降し/天平五柵の場所探し

2025-02-10 22:19:59 | 秋田古代史

今朝も少し雪が積もりましたので、朝に消雪パイプ稼働開始で、昼には稼働停止。日中雪が止む時間があり、南側奥の駐車場にここ数日の降雪でそこそこ雪が残る場所が出来てしまいましたので、手作業で雪寄せ30分。このところ籠って歴史のお勉強ばかりで運動不足だったので、たっぷりの汗をかきました。

屋根の雪もまだ大したことはないのですが、今度の週末は横手かまくら祭りや六郷タケウチなどでお客様が来ることもあり、その前後は大雪が降っても雪下ろしが出来なくなるので、やるなら週前半か週明けになります。できるならサボりたい方向ですので、今回は先送りで今週はパスかなと。今やれば大した量ではないので楽ですが、あとにすると量が増える可能性もありますが、暖かくなってやらなくともよくなるかもと、今回は楽観的に考えましょう。

さて、先日からの多賀城築造を含むこの時期は、律令政府が蝦夷討伐を強烈に行った時代で、その動きをどうわかりやすくするかを考えていました。

多賀城を始めとした柵の造営は、比較的史料が多いので楽ですが、それに伴った支配地域拡大がわかりにくく、ここ数日、宮城県の郡の比定を勝手にやっていました。あまり土地勘のある場所ではないので、どこ?ということばっかり。

まず場所を特定するため、郡の詳細=郷の位置を史料から求め、それを現在地に当てはめる作業。先人の専門家があれこれやっていますので、それのいくつかを探し出して、比べて自分が納得できるものを採用。

趣味でやるなら、ここまででいいのでしょうが、見せるために造るのが仕事。これを地図にしてみてわかるようにして終了となります。今回は宮城県のことなので、手元に史料がないため、ネットでわかる範囲での作業。ネット版角川日本地名大辞典(旧地名)にはお世話になってしまいました。

のち一時

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多賀城②/ 陸奥鎮所

2025-02-09 22:12:17 | 秋田古代史

今朝は久々の除雪車登場となりました。朝から消雪パイプを稼働させましたが、昼には雪も消えましたので停止。

さて、昨日の多賀城についての続きです。多賀城の周辺、大崎平野にはこの時期、多くの柵が造られました。特に玉造柵、色麻柵、牡鹿柵など「天平の五柵」と呼ばれる柵が737年より前に造営とあります。明確に築造年がわからないため史料初見の年が737年なので、そう書かれています。天平年間は729-749年。

でもこの五柵もどうも、出来たのはそれよりだいぶ前のことのようで、720年の大崎平野の蝦夷叛乱の前後までさかのぼりそうな感じです。そこまで下がると天平年間ではなくなってしまいます。また多賀城が出来て、のちにその先に五柵を造ったと考えられていましたが、同時か多賀城より少し前と考えた方が郡を建てた時期と合わせると自然なような気がします。

史料を読んでいたら、「陸奥鎮所」なるものが722年の史料に出てきました。一説には多賀城の前任施設と書かれたものもありました。ではどこに?となりますが、どうもいろいろ読んで居たら、柵や郡衙(郡役所)などのことを全体的に指した言葉ということが妥当な見方との専門家の意見のようでした。

ということは、多賀城築造前にある程度の施設が周辺郡部あったということになるのでしょうか。その辺も史料にはほとんど残っていませんので、専門家の先生の文章には書かれることはありません。でも昨日書いたように715年には移住を受け入れるだけの状態になっていたので、そこそこの郡衙が置かれていても不思議はなさそうです。

余談ですが、多賀城には多賀城碑というのが江戸時代に発見されており、松尾芭蕉も奥の細道で訪ねており、当初はインチキとも考えられていましたが、後の研究で本物であるだろうことがわかってきました。この碑は762年に大規模改修をした際、陸奥鎮守将軍(責任者)だった藤原朝狩が「俺がやったんだぞ!」と自慢するために作ったような石碑ですが、ここに多賀城造営が724年書かれているため、それはほぼ確かなことなのでしょう。(写真はレプリカ)

ちなみにこの多賀城史跡は平城京跡(奈良)、大宰府跡(福岡)とともに日本三大史跡と呼ばれているそうな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする