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新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

大曲北部の石塔巡り⑥ 諏訪神社その2

2025-07-08 22:30:49 | 修験道

先日の大曲北部の石塔巡りで行った大曲の諏訪神社。昨日は、諏訪神社創建の時期について考えてみましたが、次の突っ込みどころ、仙北地域にはもう一つ、美郷町六郷にも諏訪神社(正式には現在、秋田諏訪宮)がありますが、つい考えてしまうのは、どっちが先ということです。大曲の諏訪神社の縁起は先に書いたもの。

一方、六郷の秋田諏訪宮は、坂上田村麻呂が東征の際に諏訪大社を奉じて国家鎮護の祈りをこめて創建したとのこと。このくだりはかなり眉唾ですが、次には建久年間(1190-99)に二階堂氏が出羽国六郷の地頭職を得て当地を管領し、1192(建久3)年に諏訪神社の大規模造営が行われたと記録にあるとのこと。その後、至徳年中(1384-87)には六郷に城を築くにあたり、諏訪神社を近隣の総鎮守として社殿を修復したとのこと。

江戸時代を見てみると、久保田(佐竹)藩3国社、12社というのが佐竹家崇敬社として取り上げられています。この中にこの地域で出てくるのは六郷・熊野神社と金沢・八幡神社の2つで各諏訪神社は出てきません。ということで、どちらが先とか、どちらが大きいというのは、素人には判断できないようですし、また、神様に順番をつけるのも失礼なようです。

本殿に関しては、先に述べたようにこの地域では数少ないコンクリート造りのものとなっていて、立派と云える反面、味わいは少ないのかなとも。こちらの宮司様は、当YHのある藤木地区の八幡神社も兼任宮司となっていて、2代にわたってお世話になりましたし、今の宮司様は市議会議員もやられていたりします。街中で氏子も多く豊かな方が多いようだし、正月の初詣は行列ができるほどなどからなのか、神社なのですが、お寺のような少しお金の匂いを感じてしまいました。

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大曲北部の石塔巡り⑤ 諏訪神社その1

2025-07-07 22:22:18 | 修験道

③諏訪神社 大仙市大曲上大町12-20

先日の大曲北部の石塔巡りでは、伊豆山神社(里宮)、大川寺の次に、その日のメインの一つであった大川寺からすぐそばにある諏訪神社を訪ねました。駐車場がないので、鳥居前の道路に路上駐車となりました。

鳥居をくぐった参道の左に石塔群がありました。石の祠のほか、複数の庚申塔(文化6他)、青面金剛像、馬頭観音碑のほか、摩利支天碑(大正15)がありました。

摩利支天(まりしてん)は仏教の守護神で陽炎を神格化したものと云われ、護身や蓄財などの神として中世以降信仰を集め、武将の中にも信仰する者が多かったほか、忍者などにも重んじられたとのこと。多くの石塔が神道や道教に基づくものなので、今まで摩利支天碑を見たことがなかったのかもしれません。

さて、この諏訪神社は、2月中旬に大曲の綱引きと鳥子舞が行われる神社としても地元では知られ、大仙市内では有数の知名度。諏訪神社の縁起では、平安時代初めの801(延暦20)年に創建とのこと。ヤマト王権の蝦夷征伐の際、坂上田村麻呂がこの地に来て、真昼山(岳)の賊徒を討伐した。凱旋時に時の陣所に神殿(神社)を作ったのがこの諏訪神社の発祥、とのこと。

その後1501(文亀元)年、前田又左衛門道信が居住し、この神社を修繕し、道信の二男利信が深く崇敬し、また数々の戦功を挙げたという。江戸時代になると1685(貞享2)年には秋田藩主佐竹(義処)氏が本陣をこの地に定め、神社も遷座したという、江戸時代以降、数度の炎上し、現在の本殿は1969(昭和44)年、秋田県内で初めての耐火耐震の鉄筋コンクリート構造で作られたもの、とのこと。

先に出た坂上田村麻呂の話は、真昼岳の由来として知られた話。秋田神社庁でも山頂にある真昼山三輪神社の縁起として、807(大同2)年に真昼岳の賊徒を退治して山頂に神社を建立したが、田村麻呂が山頂に到着したのがちょうど昼だったことから山の名となったとあります。

また平安時代の柵跡とされる払田柵が出来たのが、800年頃と云われており、近隣に開拓村があった可能性も時期も十分にあり得る話。ただし坂上田村麻呂は奥羽山脈を越えたという史料は残されておらず、一般的に現秋田県に坂上は来なかったというのが通説になっているようですが、一部では払田柵が出来て、視察などには来たのでは、との説もあるようです。

後の話で出てくる前田氏は、丸子川対岸西にあったという大曲城が明応年間(1492-1501)には横手を中心とした小野寺氏の配下、前田道信が城主であったとの話で、およそのところ辻褄が合いそうです。

話が長くなったので、続きは明日。

一時

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大曲北部の石塔巡り④ 大川寺

2025-07-03 22:07:55 | 修験道

②長延山・大川寺 大仙市大曲須和町3-1-26

先日の花館の伊豆山神社・里宮を見たあと、街中に戻り、事前の調べで石塔がいくつかあるという大曲駅の南、丸子川の南岸近くにあって、以前から気になっていた大川寺を訪ねてみました。

幹線道路から入った路地の先、寺の境内に広めの駐車場がありました。幹線道路に面した入口の脇に石塔群がありました。あったのは二十三夜塔(安政5)、二十三夜塔2のほかは、個人顕彰碑が多かったようです。他にお寺さんですので、当然のように六地蔵堂があり、また延命地蔵尊という立派な小屋のお堂も参道沿いにありました。駐車場奥には与次郎稲荷が鎮座。この与次郎は秋田市でマラソン大会に名を冠しているほと知られたものですが、何故ここにもあるのかは不明。

ついでだからお寺の中庭にも。山(鐘楼)門も立派で、いつも行く神社には見られない光景でした。その先、本堂に行く途中には弁天堂があったり、枯山水の庭園がありました。

大川寺は寺伝によれば、鎌倉前期の1212(建暦2)年に河越重房が大川西根村(雄物川の西岸周辺)に大渓寺を開いたのが始まりで、室町時代の1391(明徳2)年に花園町(雄物川東岸周辺)に移設し、大川寺としたとのこと。現在地に移ったのは1551(天文20)年。

本堂は秋田県内最大の二十屋根仏殿様式で、1934(昭和9)年に建立されたとのことで、入口付近には神社などで見られる立派な彫刻がたくさんありました。本堂の左にあった講堂のような建物は位牌堂とのこと。

その手前には白い標柱で板碑があるとのこと。説明によると大曲浜町の花妻地蔵付近にあったもので、本堂の下に安置されており、通常非公開だが、教育委員会に連絡すれば配慮してくれるらしい。今回は板碑は範囲外としているのでパス。

またこの寺の創建に係わった河越重房という人を調べてみると、武蔵国入間郡河越館の武将で、妹が源義経の正妻だったため、1185(文治元)年に源頼朝と義経が対立し、後白河法皇から頼朝討伐の宣旨を受けたことで頼朝から敵視され、誅殺されたとのこと。

源義経がその後、奥州平泉に逃れたことや、平泉藤原氏の元は清原氏で現秋田県仙北地方を元々拠点にしていたことなどから想像すると、義経の縁者が東北に根付いたことはありえる話と言えそうです。それでも微妙に年代がずれているようです。古い時代は同じ名前を何代も使ったり、使いまわしたりすることも多かったので、別人ということもありそうですが、大体伝承なんてそんなものなのでしょう。また当YH近くにも河越姓の方は多くいるようですので、その辺の絡みもありそうですが、今回はここまで。

従来、石塔を巡る際に神社が中心で、お寺はお金の匂いが強いので敬遠していましたが、少しは訪ねてみるのも面白そうです。

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大曲北部の石塔巡り③ 伊豆山神社(里宮)その3 / 枳北大明神

2025-07-02 22:00:05 | 修験道

先日の花館の伊豆山神社・里宮では、ついつい鳥居の手前の石塔を見るのに気を取られてしまいました。鳥居をくぐって石段を上ると、ようやく本殿がありました。社殿は比較的新しいもののようで、凝った彫刻なども見られません。本殿には白いしめ縄がかかっており、そばで作業していた方に聞くと、麻と化学繊維のしめ縄で、特に特徴があるわけではないとのこと。


(写真は横手神明社の大祓、過去のものです)

地元の方が作業をしていたのは、夏の「大祓」の茅の輪くぐりを作っていたようです。これはスサノオノミコトの伝説に基づくもので、茅輪神事とも呼ばれ、茅の輪をくぐり越えて罪や穢れを取り除くことで、新進が清らかになるようにお祈りするもので、6~7月と年末の2回行われるとのこと。以前ほかの神社でも何度か見たことがありましたが、それを作る作業をしているようでした。

境内右側には社内神社として金比羅神社が祀られていましたが、他に石がいくつか見られましたが、石塔ではないようでした。

鳥居を出て、緑地帯に戻り、奥に大きな記念碑が見えたので、行って見ると戦争の時の忠魂碑。その右手には赤い鳥居の社があり、たぶん稲荷神社と思われましたので、今回はパス。

緑地帯の神社の反対側にはいくつかの石塔があったので、立ち寄りました。白い標柱には「枳北大明神碑」とありました。読み方も詳細も不明で、戻ってネットで調べても1件しか該当せず。その方の情報によると、地元「花館の歴史」では、「枳北」は「斎藤勘左衛門忠紀」という人のことで、江戸時代末期に私費を投じて「雄物川」沿いの原野30数町歩を開墾し、堤防も築いて田んぼを分け与えたことから、村民は神と仰いで1867(慶応3)年に碑を建てたとある、とのこと。

この方の子息は、明治になり天皇巡幸で大曲に来るときに、渡し船しかなかった玉川に橋を架けることに奔走したと別な記載がありましたので、代々地元の名士だったのでしょう。

その手前には松尾芭蕉の句碑、戸嶋翁顕彰碑、〇徳皇太子碑(多分聖徳太子・万延元)、雄物川改修記念碑(昭和40年代?)などが並んでいました。なぜここに松尾芭蕉の句碑があるのかは不明です。

時々

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大曲北部の石塔巡り② 伊豆山神社(里宮)その2 聖徳太子講

2025-06-30 22:32:56 | 修験道

先日の花館の伊豆山神社・里宮では、鳥居前の石塔の隣には玉川揚水路開削記念碑があり、その隣には聖徳太子碑(大正13)と、太子講50年祭記念碑(昭和48)がありました。裏には講中の構成員の名前が彫られていました。昭和48年と云えば、石塔ではつい最近のもの(?)。昭和の時代、聖徳太子と云えば一万円札(1958-1986)だったので、お金に関する講中かと思いました。戻って調べてみると、1万円札は聖徳太子のものが最初で、大正13年には1万円札すらありませんでした。

聖徳太子講(中)というのは、二つの分類に分かれ、一方は聖徳太子は日本に仏教を広めた成人として聖徳太子を崇拝する仏教的な集まり(宗教講)やその考え方(太子信仰)。特定の宗派に属さず、多くの人に信仰されたこともあり、太子信仰は地方にも広がり、福島県や岩手県などでは太子像が多く残されているという。

もう一つは、仏教的な信仰が地方に広がる中で、土着の風習と結びつき、特に職人が聖徳太子を祀って集まる職業講と云われる(太子講)。これは聖徳太子が寺院建築や大陸の建築技術を広めたことで、大工などから「工匠」の祖(職能神)として崇敬されたことに由来するという。この背景には非農耕従事者の信者が多かった浄土真宗の影響があったとされる。

室町時代以降、多くの太子講が始まり、江戸時代以降は大工だけでなく、桶屋、畳屋、左官など職人の親睦の場として、旧暦の1月22日に行われ、宴会のほか、技術継承や賃金の協定交渉の場など組合的な色合いが強くなり、現在まで継承されているものもあるという。

今回伊豆山神社・里宮の入口にあった聖徳太子碑はもこの太子講のものと考えられます。石碑裏に講中参加者の名前が彫ってあり、昭和48年のものなら、まだご存命の方やその子供がいるでしょうから、調べてみればどういう仕事の方かもわかるのでしょう。またこの聖徳太子碑がなければ、お札の顔以外の聖徳太子の別の面を知ることがありませんでした。

時々

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大曲北部の石塔巡り① 伊豆山神社(里宮)その1 保食神信仰

2025-06-27 22:15:19 | 修験道

①伊豆山神社・里宮 大仙市泉町8-59

今日は買い物のついでに旧大曲市北部の石塔を巡ってみました。最初に2月に川を渡る梵天が奉納される伊豆山神社の里宮が花館にあるとのことで、そこを目指しました。羽後交通の整備工場の北にありました。駐車場は神社隣の緑地に。

伊豆山神社本宮は、この地区の西を流れる雄物川の対岸、山の上にあり不便だったことから、大正年間に従来の瀧ノ宮神社のあった場所に里宮が立てられたとのこと。

神社の鳥居の道を挟んだ向かいに石塔が2列に並べられていました。多くが庚申塔で慶応2年、天保3年の年号が見られ、他に大平山碑(明治6)、青面金剛碑などがありました。

ここでの初見は保食神・稚産霊神碑(文久3)。保食神(うけもちのかみ)は日本書紀に出てくる食べ物の女神と云われている。天照大神が月夜見尊に保食神の様子を見に行かせたとき、接待するため保食神が体から米や魚、獣を出してもてなしたが、それが汚らわしいと怒って保食神を殺してしまったという。その死体からは牛馬、粟、蚕、稲、麦、大豆などが生じたとされ、食物や養蚕の起源を示すものとされている。

古事記では大気都比売神(おおげつひめ)の話として同様のものが書かれており、保食神と同一視されたり、同じ食物・穀物の神として出てくる宇迦之御魂神(うかのみたま・日本書紀では倉稲魂命)と同一視されたり、主に稲荷神社の祭神となっていることで、保食神が稲荷神社に祀るれることもあるという。

また併記されている稚産霊神(わくむすひ)も日本書紀に出てくる神で、保食神同様食物起源の神とされるものとのこと。

今回、保食神碑は初見でしたが、以前に倉稲魂神碑は見たことがあり、また稲荷神社はそこらじゅうにあることから、これ自体は珍しいものではないようです。大仙市の南外地区には保食神社というものもありましたので、いずれ訪ねてみようと思いました。

ところで、ここで疑問なのが、今まで見てきた多くの石塔は、庚申や二十三夜など講(中)として寄合いがあって、満願成就した時の記念に建てられたり、出羽三山碑や鳥海山碑、金毘羅山碑など神社・山岳信仰で参詣記念に建てられる石塔がほとんどでしたが、今回の保食神碑は集まりがあったり、参詣記念に建てられたというより、稲荷神社などのようにその神を祀るための石塔ということになり、他の石塔とは少し性格が異なるのかななどと考えてしまいました。

時々

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仙北市南部のオニョ様巡り、五社神社のおにょ様、他

2025-06-25 22:58:25 | 修験道

先日、田沢湖方面に出かけた際、道中にあるという人形道祖神のいくつかを探して廻りました。今まで横手市から南の人形道祖神をいくつか見てきましたが、多くがワラで全身が造られた大きな人形道祖神でした。大曲よりも北の地域ではお面だけが飾られており、一部は神社の社殿に、または小さな祠に祀られているとの話。

従来南の方の人形道祖神と同様に全身が造られたようですが、人手不足で手間がかかることや、コンバインの導入でワラが入手困難になってきたことなどから、それまで顔の部分は木のお面を使っていたものを、お面だけ飾って祀るようになったとも考えられているようです。この地域の人形道祖神(お面)はおにょ様と呼ばれているようです。その語源は、御仁王(おにおう)様から来ているとこと。

さて、最初に目指したのは広域農道、みずほの里ロードが白岩地区を過ぎて県道50号線に合流し、玉川を渡る橋の手前、左側の広久内町後という集落。ここにある五社神社にあるとのことでした。

①五社神社のおにょ様 仙北市角館町広久内町後88

秋田神社庁によると、五社神社は創立年代不明だが、1321(元応3)年五社堂に宮殿を建立云々とあり、また近くに五社堂山があり、元々その山頂に社殿があったとされ、現在地に遷されたのは昭和37年とのこと。ここのおにょ様は、社殿正面の両脇に2体ありました。初めて見るお面形の道祖神はシンプルなもので、社殿の軒につけられていることもあり、道祖神という感じではありませんでした。知らなければ、社殿の彫刻の一種と勘違いするようなものでした。

②田之尻のおにょ様(仮称)1~3

五社神社から玉川を下る形で進むと、道沿いにいくつかのおにょ様があるとのことでした。最初に見つけたものは道沿いの民家の脇にあり、小屋掛け、ガラスで扉も付けられていました。2つめのものは民家の近くの木の下にあり、小屋掛けされた中に庚申塔と共に納めてあり、赤い顔をしたおにょ様。3つめは集落の一番端の民家の入口に小さな祠の中に納めてありました。

いずれも賑やかな飾りやお供えの花などがあり、現在でも集落の方に慕われていることが感じられました。大仙市から仙北市にかけては、こうしたお面形の人形道祖神がまだまだ残されているとのことで、時間をみてウロウロすることになりそうです。

のち

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いつもと違って復習に時間がかかる石塔巡り

2025-06-24 22:55:28 | 修験道

今までいろいろなお勉強をしてきました。大体のものは、行く前にどれだけ調べていくかが肝心で、調べたことを再確認に行くという状態。そのためブログ記事になるまでの時間を考えると、予習6、実戦2、復習2という感じで、行ってくれば時間を置かずに記事にすることができます。

今回の石塔巡りでは、事前勉強はどこにありそうかということだけで、そこにどういった石塔があるかまでは、調べることができません。行ってみて、初めてそこにある石塔がなんだかわかりる状態です。庚申塔など一度調べたものはスルーできますが、初見の石塔は、見て来て戻ってから、それがどういった信仰や習慣に基づいて作られたかを調べることになりますので、行って来てからの方がお勉強の時間が長くなるケースが増えてきています。

そのためブログ記事も遅々として進まずに苦労していますが、その分新鮮な発見があったりしますので、これはこれでまた面白いものです。いずれ知識が蓄積されて行けば、戻ってきてからの時間も短くて済むようになるでしょうか。また仏教や神道だけでなく、民間信仰の多いことにも驚きです。記事にしている信仰などは、決してお勧めしているものではありませんので、悪しからず。

のち時々

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横手南西部の石塔巡り⑥ 八柏八幡神社

2025-06-23 22:51:28 | 修験道

①八幡神社 横手市大雄八柏49

先日の横手南西部の石塔巡りは、木下の鹿島様を見た後、帰路につきましたが、戻る道中、以前から脇を通ることが多く、気になっていた八柏の八幡神社に寄り道。この八幡神社は伝承によると1533(天文2)年創建とのこと。当時の横手城主の忠臣、八柏大和守道為が軍神応神天皇を勧請して尊崇したとのこと。御神体として開拓の際に出た石碑が祀られているが、それには応和年間(961-964)と彫られているという。

境内入口の鳥居は立派なもので、さらにそこにつけられているしめ縄もかなり立派なものがつけられていました。隣には境内神社として神明社が合祀されていますが、鳥居が八幡神社と並べてあるのには何か意味がありそうでした。

さて、石塔は境内左と、右側の道を挟んだところにありました。境内左にあった石塔は小さな石祠、青面金剛(?)、八坂神社(明治40)他とあり、特に特徴的だったのが、藁のしめ縄やワラジがかけられていること。しめ縄は、神の居所を示すものや聖域との結界として使われることが多く、境内内の御神木などにもしめ縄が見られることがあるようですが、石塔にかけられているのは初めて見ました。さらにワラジは旅の道中安全祈願などでワラジ自体が道祖神的に扱われることもありますが、ここにあるとは思いませんでした。

境内右側の道を挟んだ先には、出羽三山碑(湯殿山・天保13)、二十三夜塔(安政4)、庚申塔(安政9)、十八夜塔(文政13)などが並び、十八夜塔にはこちらもしめ縄がかけられていました。

ここで初見の十八夜塔は、二十三夜塔と同様の月待信仰と呼ばれるものの一つで、旧暦18日に餅をついて月にお供えするというもの。特に十八夜月待は東北地方で若者によって行われた(二十三夜は女人講)という。特に山形県で多く見られ、15才になると十八夜講に入るのが義務で、成人となる儀式であった地区もあるという。秋田県南部では食文化などでも山形県との共通点が見られますので、そうした影響があったのかもしれません。

ふらりと立ち寄った八幡神社ですが、なかなかの「収穫」となりました。

一時

 

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横手南西部の石塔巡り⑤ 古四王神社その3、妙見信仰

2025-06-21 22:39:31 | 修験道

先日の横手市南西部の人形道祖神巡りの際に立ち寄った古四王神社。参道右手の草むらには妙見大菩薩なる石塔がありました。こちらも初めて見るもの。

戻って調べてみると、妙見信仰とは、妙見菩薩を信仰する仏教のもののようですが、その起源には中国の道教にある北極星(または北斗七星)信仰と習合して日本に伝わったものとのこと。飛鳥時代には渡来人により日本に伝わり、渡来人が朝廷の政策により東国(関東以北)に移住させられたことで東日本にも広まったという。

平安時代になると、北斗七星の関係から軍神として一部の武士が一族の守護神として崇敬されるようになり、中でも千葉氏が氏神としたことや平将門伝説と結びつけたりしたという。江戸時代には平田篤胤が神道における研究をすすめたりしたが、明治維新の神仏分離令により菩薩と公然と祀れなくなったとのこと。

ここの古四王神社に妙見菩薩の石塔があった理由は、正確にはわかりません。考えられるのは、ただ単に近隣の方で日蓮宗と縁があったことから妙見信仰の方がいたのか、江戸時代に妙見菩薩に関して研究した平田篤胤が秋田の人であったからなのか、この地を治めていた大石氏なる方が千葉氏出身の千葉県や聖地とされる大阪の能勢妙見神社に縁があったからなのかはわかりません。

一つの石塔を調べることで、いろいろな縁があり、またその地域について調べることが広がるのは、とても面白いことで、関係のあることが見つかるたびに、フムフム、なるほどと、一人で悦に入っています。

 

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