新米ペアレントの営業日誌・営業中

2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

横手やきそば食べ歩き 「一銭洋食」

2024-02-10 23:37:03 | 食文化

本日から3連休で、今日は西木の紙風船、刈和野の綱引き、湯沢の犬っこ祭りと冬祭り前半のピークですが、当YHは静かなものです。暖かくなったら一所懸命働きましょうと割り切って、今日は在宅で粉モノのお勉強。

関東育ちですので、粉モノにはそんなに馴染みがありませんが、関西から九州にかけては、粉モノは文化と云えるほど奥が深いようです。ちょうどお勉強していたのが、焼きそばが生まれる前段階の業界全般の話で、文字(もんじゃ)焼からどんどん焼きが生まれ、それがお好み焼きになるタイミング。時代的には明治後半から大正、昭和前半(戦争前)の時代。

先に書いたようにウスターソースが日本でも作られ、大正デモクラシーの中、カフェブームが来たり、一見華やかな時代。しかし世相は日露戦争(1904-05)で成金が生まれたものの、その反動による経済恐慌(1920)や戦地支援で物資を大量に送ったことなどによる米騒動(1917)、関東大震災(1923)などもあり、経済的に不安定な時代。また明治後半から八幡製鉄所開設(1901)に始まる重工業拡充策が計られて、東京や大阪が都市化する一方、地方から出稼ぎや人口流入が始まり、大きな経済格差が出来た時代でもあったようです。

こうした時代に、東京で現在のお好み焼きの芽が出て、また日本中にどんどん焼きが広がり、関西以西ではこれが「一銭洋食」という名前で大流行。デパート(百貨店)が生まれ(1906白木屋)、三越の食堂(1930)でお子様ランチ(30銭)が人気になる一方、生活困窮者救済のための(公設)簡易食堂が生まれ(1920-)定食10銭で提供されていた時代で、一銭で「洋食」が食べられると云うのはありがたかったのでしょう。

粉モノやB級グルメのマニアのサイトを見てみると、東北にはどんどん焼きとして残っている場所は複数あるようですが、関西や九州には、この時代に提供されていたものに近い状態で今も販売されているものがあるようで粉モノの奥深さを垣間見てしまいました。

(写真は山形のどんどん焼き、過去のものです)

のち一時

コメント
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