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2005年3月1日に秋田県大仙市にオープンした大曲ユースホステルのペアレント(経営者)が日々の出来事を送ります。

秋田の食べ物-きりたんぽ① 発祥と歴史

2023-12-24 23:09:47 | 食文化

クリスマスイブだと云うのに静かなYHです。ということで、先日開始した秋田の食べ物のお勉強開始。まずはどんなものがあるのか、並べて分類。その中から最初は、「秋田と云えば。。。」の後に続く言葉で最も多く答えが出るきりたんぽ。

きりたんぽは、炊いたお米を荒くつぶして(半殺しにして)、杉の棒に巻き付けて伸ばしてちくわ状にし、表面を炙ったもので、元々は「たんぽ焼き」と呼ばれるものでした。これを鍋に入れるために切ったので「切り」たんぼと呼ばれます。

きりたんぽの発祥は諸説あるようです。このうち、鹿角周辺の木こりが山に入る際に米を持っていき、焚火で温めるために木の棒につけて焼いたのが始まりというのが一番理屈に合っているようです。ある意味、自然発生的なもので、飛騨地方を発祥とする「五平餅」も同様のようです。

江戸時代の紀行家、菅江真澄の記録にもこの形で残されており、これに山椒味噌やクルミ味噌などを付けていたとのこと。この形を残しているのが「みそ(つけ)たんぽ」と呼ばれる食べ方。

江戸時代終盤頃には、たんぽ焼きを切って鍋に入れて食べるようになったとみられ、これが現在のきりたんぽ鍋の原型と云えるが、この時代にはまだ「醤油」が貴重品で、鍋の味付けは塩か味噌味だったと云われており、具材や出汁も鶏の他にウサギやヤマドリなども用いられていたと。明治初期にはきりたんぽ鍋として、鹿角では家庭料理、大館では収穫時期などハレの日の振舞料理として一般市民でも食べるようになったそうです。

きりたんぽ鍋が醤油味になったのは、鉱山景気で賑わう花輪に1872年(明治5)浅利佐助商店が醤油醸造を開始したこと。これにより高価だった醤油が身近になり、この頃にきりたんぽ鍋が醤油味に移行したとみられる。

明治20年代になると、「料亭みどり」や「一二三軒」「掬翠楼」といった花輪の料亭でもきりたんぽ鍋が来客用の接待料理で提供されており、中頃に大館の料亭「北秋倶楽部」の主人がこれを習って大館で料亭料理として形を整えたと云われています。

秋田市できりたんぽ鍋が料亭料理として供されるようになったのは明治の終わり頃のようで、秋田市の料亭「浜乃家」でも花輪の「一二三軒」で習ったと1934年(昭和9)のラジオ放送で紹介しています。

県内の一般家庭にきりたんぽ鍋が広まったのは戦後の昭和20年代後半。特に秋田の郷土料理として知名度を高めたのが、1961年(昭和36)の秋田国体で、この時に民泊が活用され、秋田の郷土料理としてきりたんぽ鍋が提供されたことがきっかけとなりました。

この後、秋田市の料亭「浜乃家」の声掛けで、秋田市内の料亭12軒がメニューに加えることで結束し、それまで「タンポ鍋」や「名物きりたんぽ」などバラバラな名称だったものを「郷土料理きりたんぽ」の鍋料理として定着させたと云われています。

一段と知名度が上がったのは昭和60年代。流通の大転換で宅配便が現れ、全国に配送することが可能となったため、秋田の郷土料理と云えば「きりたんぽ鍋」ということが知られるようになったとも。

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