OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

老老介護のごとく(^^;

2006-10-21 23:04:20 | Weblog
うぐっ・・・こっ、腰がぁぁ・・・・

うちの愛犬のヘンリーさん・・・老齢の上、この夏の暑さで、肝臓および腎臓をやられてしまいまして、ずいぶん弱ってしまって・・・昨日から、病院で点滴とかしてもらってるんですけど、今朝から、ついに歩けなくなって・・・で、彼は、一応、大型犬なもんですから・・・その介護が、もろ力仕事で・・・恐れてた通りに、わたしの腰がギクッって(爆)。

とはいっても、腰が痛かろうと、疲れていようと、世話をしてあげなければ、食事も出来ない、下の始末も出来ない、ドンドン弱っていくだけの『愛するもの』がそこにいるんだもの・・・するしかないわけです、介護。ああ~、老老介護って、これの何倍も大変なんだ・・・と、ほんの少しだけ、知ることが出来ました。

それと・・・自分の健康とか、自分の元気は、自分の為にだけじゃなく、自分が大切に思うモノたちの為にも、大事なことなんだと思いました。自分が元気じゃなきゃ、いざと言う時、何も出来ない情けなさを味わうことになる・・・悔いなく生きる為には、体を労わるってことが必須なことですね。

何故か、一人ぼっち(^^;

2006-10-20 16:42:21 | Weblog
赤信号で停車している。先頭に停車している。信号が青に変わる。車を発進させる。ブーンと加速する。ふと、バックミラーに目をやると、後続車が遥か後ろに見える。そんなに急発進したつもりはないのに、どうして? とても不安になる。

考えられるのは、たまたま、わたしのスグ後ろの車の運転手さんが、ノンビリ屋さんだったってこと。二車線ある場合だって、隣に止まっていた車と、スグ後ろの後続車、両方の運転手さんが、たまたま揃ってオットリした人だということは、ないこともない。

けど、別のことも考えられる・・・それは、行く先で、何かしらの取り締まりをしていて、わたし以外の人は、それを知っているのかもってこと。これは、そんなに多いことではないけど、実際に、時々あることだし・・・。そうそう、複数車線ある道で、一車線だけ空いている時は、絶対先に何かあるものね。

とにかく・・「みんなの中から、一人、飛び出しちゃった」という状況は、どうも、人を落ち着かなくさせる。それを望んで自分からした結果だとか、望んではいないが覚悟してしたことの結果として孤立してしまうのは、それはもう仕方ないことだけど・・・思いもかけず、一人ぼっちになってしまうと、「エ?エエッ~ッ!!」って感じで、正直、ビビッてしまう(爆)。

自分で望んで孤立に走る場合も少なくないが、何故か、この「えっ?」という経験も豊富なわたしとしては、後者に関しては改善したいと思っている。つまり、自分と言う存在単体の個性だけじゃなく、集団の中にある自分というものが見えるようになりたいと思っている(^^;。

大量の書類を提出させる理由

2006-10-19 18:04:33 | Weblog
昨日は、わたしの個人的定休日だったので、いつもの通り、家でゴロゴロしていたら、あやや、携帯が鳴り出した。なんとなぁ~く、嫌な予感がしつつ電話に出たら、やっぱり事務所からで「市役所から、○○の件で電話ありましたぁ。連絡してくださ~い」とのこと。「はぁ~、なんでまた今日なんよぉ~。手元に、何も資料もないやんかぁ~」と、一人文句を言いながら連絡してみたら、「○○の件で、まだ書類が出ていないようなので、至急よろしく」とのことだった。「ええ~、そんな書類、出さなきゃいかんのぉ~・・・ふうむ、出さなきゃいかんのね・・・仕方ねぇ・・・でも、今日はヤラナイ、明日にする」と、わたしは頭からベットに潜り込んだ。

と、数時間もしないうちに、また携帯が鳴る。今度はメール。「なんやねん!!」激しく愚痴りながら文面を確認すると。また事務所から「県民局からFAXが届いてます。□□に関しての書類、提出して欲しいとのことです」だって。「おいおい、その書類は、もう半年も前に出したはずやでぇ~」と、今度は首を傾げながら、県民局に電話したら「あれは、あくまでも仮提出で、本提出をしてもらわないと、資格停止になります。もう、期限はとっくに過ぎてますよ」とのこと。なんか、やたらとムカついた(爆)。

細かく文句を言ったらキリなくあるんだけど・・・とにかく、公的機関から提出せよと言われる書類には、無駄に思えるものが多すぎるんだよね。しかも、同じようなものを、いくつもいくつも、こちらの部署ごとに、あちらの部門ごとに提出しなくちゃならないから、ほんとうに無駄感が募っていく。「まったく、何の目的があって、この書類が欲しいっていうんだろう。これが本当に必要なのかどうか、あたしゃ、はなはだ疑問なんだけどさ」と思いつつ書類を作成していて、ふと、子どもたちからの質問を思い出した。

「ねえねえ、これ勉強したら、大人になって役に立つの?」「う~ん、正直に言っちゃうと、あまり直接的な役にはたたないかもしれないね」「なら、どうして、これを勉強しなきゃいけないの?」って質問。

その時、わたしは、どんな風に答えていたっけ・・・たしか・・・「勉強している中身が大切なんじゃなくて、目的をもって勉強という作業を積み重ねていくってことを勉強しているのよ」なんて、ワケの分からんことを言ってたかなぁ(爆)。

でも、要するに・・・今、わたしが書かされている、この大量の書類の山にも、同じような意味があるのかな・・・などと思った。つまり、書類の中身が必要だというより、これくらいの書類が作成できないような事務能力欠如の事務所は認可できないというようなフィルター機能(資格審査的な機能)か、これだけの面倒を乗り越えることによって、重要な責任ある仕事をしているんだぞという意識を持たせようという精神論的な意味合いがあるのか・・・とにかく、書類の中身以外のところに、本当の目的があるのかなと。

ちなみに・・・偶然にも、昨日一日で、同じような内容の連絡を、二箇所から受けたわけだけど、市役所の人の応対は感じヨカッタなぁ。「はい、頑張って、すぐに提出します。連絡ありがとうございましたっ!!」って言えたもん(笑)。けど、県民局は、正直、ムカついた。ほんと、内容的にはそんなに変わらないことなのに、言い方で、こんなにも、こちらの気持ちが変わるんだね。

そういえば、うちの市役所は、たいてい、いつも対応が好い(^^)。けど、すぐ隣の政令指定都市の役所とか県の職員は、はっきり言って高飛車だ。市民や県民として接したら、もしかしたら、そんなことはないのかもしれない。わたしが、県や隣の政令指定都市の役所に連絡するときは、いつも出入り業者としてだから、それであんな上からの態度なのかもしれない。まっ、市民や県民に、ちゃんとサービスしているなら、業者として小突かれるくらいは我慢しようと思うけどさぁ~・・・どうなんだろうねぇ。

親子関係にも、SMはありますね(爆)

2006-10-18 21:23:05 | Weblog
離れて暮らしている娘から、ちょっとした用事を頼まれた。大して手間な用件ではなかったが、まぁ、面倒っちゃぁ面倒な事柄だった。けれど、イソイソと、それを引き受けている自分が居る。しかも、それで娘の顔が少しでも見られるとか、何かご褒美があるわけでもなく、ただ娘の役に立てたかな、フォローになったかなって自己満足するだけ(^^;。つくづく、オイラはMだなと思った(爆)。

そう、恋愛関係だけでなく、親子関係にも、SMな関係はあるのだ。いやいや、職場でもある・・・うんうん、完璧にある。

とはいっても、Sな人は酷いとか、Mな奴は情けないとか、そんな単純なことではないよね。要するに、組み合わせが良ければ良いけど、悪ければお互いにストレスだらけの関わりになって、何も好い事が産み出されないってことだろうね。

ちなみに、心理学的に判断すると、Sの人を育てたいときは、煽てた方がいいのかな、厳しく叱った方がいいのかな。Sの人は、煽てた方が気分良く過ごすとは思うけど、叱られると反発して頑張る気もする。反対に、Mな人は、煽てられると居心地が悪いような気もするけど、叱り続けると、本気で自分は駄目だと思い込みそうな気が・・・。

一昔前だと、女性を育てるときは煽てて育て、男性を育てるときは叱って育てろっと言われていたけど・・・当時の男女のイメージから考えると、男性はS的で、女性がM的だったわけだから・・・ふうむ。

ちなみに・・・いつも言っているように、わたしのMは、勝手Mで・・・自分がMポジションが好きだから、そこに居るだけで・・・相手が調子に乗って、マジでSスタンスを取ると、作用反作用的に反撃してしまうから・・・真性Sの人とは、相性が悪いはずなんだよね(爆)。となると、わたしを育てるのには、叱るほうがいい?煽てるほうがいい?

って感じで・・・SだMだっていっても、そんなに単純なSやMの人って、そんなに居ないでしょ。結局、煽てたり、叱ったり・・・その時の状況に応じて、使い分けなくちゃいけないんだよね。ただ、その人の傾向が分かった上で接するのと、やみくもに、こちらのやり方を押し付けるのとでは、効果が大いに変わってくるだろうから・・・相手の個性を知ろうとすることは、悪いことじゃないよね・・・ねっ。

必要な時間、必要な手間を、端折らない方がいいと思うな

2006-10-17 21:07:29 | Weblog
稲を刈り取った後の田んぼを耕して、今、我が家の畑には、野菜がたくさん植わっている。レタスにキャベツに・・・といっても、これら葉が巻いて始めて売り物になるタイプの野菜は、まだまだ皆さんの知っているレタスやキャベツの姿にはなってなくて・・・ご覧になっても、もしかしたら、何なのかお分かりにならないかもしれない。

けれど・・・まだまだ、売り物にはならないけれど、この時期のレタスやキャベツは、葉っぱが伸び伸び広がっていて・・・なんていうか・・・幼い子どもたちのようで、とても可愛らしい(^^)。

もちろん、農家としては、早くチャンと葉が巻いてくれて、立派なレタスやキャベツになってくれて、それが売れてお金になってくれなきゃ困るわけだけど・・・いくら焦っても、人の都合で、野菜は育たない。葉には延びる時期、巻き始める時期というのがあり、人は、それをジッと待たなきゃいけない。

もちろん、温室栽培など、人が手を加えて、野菜の時間感覚を狂わせて、早く成長させる方法もあるけれど・・・それは、本来、あるべき姿ではない。

けど・・・思うのは・・・この人工的な成長促進・・・野菜よりも人に対して顕著だよね。それを、科学と言うのかな・・それを先進的文化というのかな・・・もしくは、成熟した社会というのかな。

何事に関しても、時間を短縮することが良しとされてきたことに対する反動からか、何かしらの警告を感じてのことか、スローライフとか、ロハスなんて考え方も出てきているようだけど・・・わたしのような田舎者からすると、それもまた、とっても人工的な臭いがする。もちろん、そういう意識が生まれてきたことは、大いに好かったとは思うけどね(^^)。

必要な作業、必要な時間・・・それを、端折るってことは、わたしたちが思っている以上に危険なことだと思うよ。そんなことないかな。

つゆ草が枯れるのを見て、共生を考える

2006-10-16 16:36:23 | Weblog
この季節、道端を見ると、つゆ草が、いっぱい枯れています。つい先日まで、あんなに瑞々しく、あんなに可憐に花を咲かせていた露草が、赤黄色くなって・・・はっきりいって、綺麗ではありません。むしろ、景観を損ねています。

けど・・・これが、自然の姿なんですよね。壮大であったり、雄大であったり、鮮烈であったり・・・美しいばかりが自然の姿じゃない。枯れていくものの姿も、朽ちていくものの姿も、やっぱり自然の姿なんですよね。

それにしても・・・つゆ草たちが見せてくれる、自然界の「時(季節)の住み分け」って、植物たちの知恵ですよね。地域の住み分けもありますが、わたし的には、この「時の住み分け」っていうのには、本当に感心させられます。だって、限られた土地の中で、沢山の植物たちが生きていくのに、最高に適した方法じゃないですか。

人もね・・・植物と同じように、サイクルを持っているでしょう。前世に現世に来世みたいなことじゃなく・・・一つの人生の中での浮き沈みって、あるじゃないですか。なんていうかな・・・「調子の良い時」とか「上手くいかない時」みたいなもの。だとしたらね・・・うまく行かない時は、上手くいっている人に場所を譲って、自分は少し休んでいるってことが出来るといいですね。年がら年中、同じ花ばかりが咲き誇って、他の花に養分も水分も太陽の光も分けてあげないなんてことしないで、いろんな花が、順繰りに咲いていくようなことになると、いいと思いませんか?それが、再チャレンジできる世の中ってことじゃないのかな。季節は巡る・・・どの人にも同じように、冬の時もあれば夏の時もある・・・そういう公平さがあるとイイですね。もちろん、そんな単純にはいきませんけどね(爆)。

叔父の葬儀にて・・・ある三姉妹の姿

2006-10-15 23:15:24 | Weblog
今日は、叔父の葬儀だった・・・

今日、見送った叔父は、母の姉のダンナさん。母には、兄が3人(?)、姉が2人、妹が1人いるのだけれど、二番目の姉のダンナさんだった。

ちなみに、父には、異母兄が2人(?)、異父兄が2人(?)、父母とも同じ姉が1人いたけれど、みなさん、すでに他界されている。2人の叔父は、わたしが生まれたときには、すでに他界されており、あとのお2人も、わたしが小学生の頃に亡くなった。叔母も数年前に亡くなり・・・叔父叔母の連れ合いの方たちも、みなさん亡くなっているので、父方の叔父叔母で存命の人は、いなくなってしまった。父は、末っ子なので、仕方がないことかとは思うけれど・・・父は、淋しいだろうなと思う。

それに比べて、母の兄姉妹は、幼くしてなくなったと聞く兄と、一番上の姉、数年前に亡くなった兄以外は、みな、それなりに元気にしている。今日も、屋根から落ちケガをして入院している長兄を除く全員が、夫と子どもたち(といっても、皆、もうイイ歳だ(^^;)を連れて、参列していた。

もちろん、叔母の身内だけではなく、亡くなった叔父の親戚や近所の方たちなども、大勢集まってくださり、かなり華やかな葬儀だったが・・・未亡人になった叔母と、母と、母の妹にあたる叔母、姉妹三人が並んで話している姿に、わたしは、なんとも言えないものを感じた。葬儀の席には、相応しくない形容詞かもしれないが、微笑ましいというか、どっしり安定しているというか・・・これが、血と時の太い絆かな、などと思った。

となると・・・いつも言っていることだが・・・藍那と裕太の世代になって、ガクンと濃い親戚関係の人たちがいなくなるのが、何気に不安だったりする。とにかく、わたしが一人っ子だし、うちの子たちには、従兄弟従姉妹が1人もいないのだ。

とはいっても、じゃぁ、わたしにとって、従兄弟従姉妹が、そんなに大きな存在かと言われれば、まるでそんなことはない。今日でも、顔を見ても、お互い全く分からないこと甚だしいって感じだった(爆)。叔父や叔母たちにしても、子どもの頃は、正直、ただただウザイ人たちだと思っていた。この人たちは、たまに合うだけなのに、叔父だ叔母だというだけで、なんでこんなに当たり前な顔をして、わたしに干渉してくるんだろうと嫌っていた。従姉妹従兄弟たちにしても、騒がしい奴らだと思い、大人たちに「一緒に遊べ」と言われても、迷惑なことだと思っていた。

けど・・・たとえ、付き合いがなくても、たとえ顔すらわからなくても、従兄弟従姉妹が、こんなにも大勢(母方たぶん15人、父方は現在5人かな)いるということは、ものすごく幸せなことなんじゃないかと思った。子どもの頃には、反発も感じたけど、叔父や叔母たちがいてくれることも。

人付き合いが思いっきり苦手人間としては、こういう集まりのあとは、薬なくしては頭痛が酷くて寝むれないという困った現実もあるのだけど・・・こういうストレスも含めて、親戚があるというのは、ある種の財産なのじゃないかと思った。そう、母たち三姉妹の姿を見て、そう思った。

ギャルと、おばちゃん、どっちが分厚い?

2006-10-14 15:19:38 | Weblog
ど厚かましいと言えば、おばちゃん。それに「大阪の」が付いたら、厚かましさイメージも無敵になるわけだけれど(^^;・・・とにかく、おばちゃんと言えば、傍若無人の代名詞だ。

けれど・・・おっちゃんだって、かなり大きな顔して、勝手な振る舞いをする人が多いし・・・若者だって、かなり厚顔で身勝手で恥知らずな振る舞いが目立つ。

なら、若者でもなく、年配でもなく・・・そうさなぁ~、二十代の後半から三十代あたりの人は、一番常識的な振る舞いが出来る年代なのかな・・・う~ん、そう言われてみれば、そうかもしれない。もちろん、一部例外はあるにしても。

けれど、この最も礼儀正しい言動が出来そうな年代の人たちでも、プライベートで何人かが集まると、かなりの確立で、迷惑集団に変貌したりする。つまり・・・結局は、どの年代でも『人はツルムと気分が大きくなる』あるいは『周りを気にしなくなる』のかもしれない(^^;。

となると・・・一人でいても、ちゃんと傍若無人で居られる人こそ、『キング・オブ・ど厚かましい奴』ってことになるかな。だとしたら・・・うん、やっぱり、おばちゃんが一番っ!! おばちゃんは、たった一人で居ても、立派にド厚かましく振舞える人が多い。筋金入りの、本物の分厚い奴ら・・・それが、おばちゃん、特に大阪のおばちゃんなのだ。

けど・・・そう考えると、おばちゃんの分厚さは、立派だと思わない? 数を頼んで増長しているのではなく、どんな状況におかれても、あくまでも自分らしく振舞っているだけなんだもん・・・これは、むしろ清清しくないかな(^^;。

遊び下手・・・(涙)

2006-10-13 17:53:24 | Weblog
世の中には『遊び上手』な人というのがいる。

要するに、提供される娯楽というものを、徹底的に楽しめる人たちだ。女性に多いのは・・・いわゆる、グルメであったり、コスメであったり、ファッションであったりというものを、情報を上手く活用しながら、味わいつくす人たち。

まったく方向は違って見えるけど、男性に多いゲームやアニメに夢中になる人たちというのも、やっぱり「提供される娯楽」を、上手に楽しんでいる人たちということになるだろう。

それプラス、自分のアイデアや、自分の手足を使って、オリジナルに楽しめる人たちもいる。グルメでも自分が料理を創作して楽しむ人、ファッション好きでも自分で作ったり工夫したりするのが楽しい人、ゲームやアニメでも、自分が製作者になって楽しむ人は、この要素を持っている人なんだろう。そうそう・・・タレントの所ジョージさんは、既存のものをコレクションしながら、それを使ってオリジナルの楽しみ方をしてらっしゃるようで・・・まさに、このタイプの人なのかな。

それから、人工的な提供物ではないけれど、自然から与えられたものを楽しむ人もいる。花を育てたり、生き物を観察したり、釣りをしたり、山に登ったり、キャンプを楽しんだり。こういう人たちも、立派な『遊び上手』な人たちと言えるだろう。

けど・・・わたしは、そのどれもが苦手だ。いったい、わたしは、何をすれば楽しいんだろう・・・我ながら、それがまったく分からない。

そういえば、小学校の時、同じ年頃の子どもたちの遊ぶ様子に感心していたのを思い出す。田舎なので、川に下りて、魚取りやザリガニ取りをしているかと思えば、あっというまに山に行き、猿のように木々の間を飛び回って遊んでいる子どもたち。女の子でも、スカートの裾を、パンツに突っ込んで、ガンガンに遊んでいた。けど、そんな彼らに、わたしは全く付いていけず、結局トボトボと一人で家に戻るはめになっていた。

家の中の遊びでも、女の子たちは、綺麗な布や包装紙、お菓子の空箱、あるいはボタンやオハジキなどを使って、買って貰った人形の家や家具を作ったり、洋服を作ったり・・・文房具もオリジナルにデコレイトしたりしていた。が、わたしには、そんなアイデアも感性も、手先の器用さもなく・・・ただ、それを感心しながら見ていたっけ。

人工的なものであろうと、自然のものであろうと、どっちでも構わないが、とにかく自分の周りにあるものから楽しみを貰うってことは、生活する上で、いや生きる上で、とっても大切なのに・・・ああ、なんて、わたしは遊び下手なのだろう。

そうそう、知り合いに、わたしのようなタイプの男性が数人いるが、彼らには、いずれも、とっても遊び上手な奥さんが付いている。彼らのことは、とっても羨ましい。どうも、女性の方に、遊び上手な人が多いようで・・・家族を楽しませるのは、どちらかというと女性に適した役割なのかもしれない。ふうむ・・・ということは、うちの家族は、わたしのせいで、かなり可哀相だったかも。子どもたちは、もう、自分で遊べる歳になり・・・幸いなことに、母親の遊び下手の影響も少なかったようで、今は毎日、楽しく遊び暮らしているようだが(爆)・・・そうなると、可哀相なのは、我が夫ということなのかな・・・とほほ(^^;。

外見に、惑わされます(爆)

2006-10-12 17:31:38 | Weblog
わたしの住まいする地域は、田舎と都会の境目あたりに位置する。わたしが子どもの頃には、間違いなくド田舎だったけれど、どんどんと開発が進み、みるみる人口が増え、そこそこ華やかな街の様相を呈するようになったという感じの地域だ。

だから、神戸や大阪といった、かけねなしの都会とは逆の方向に少し進むと、十数年前の我が地域と見まごうような、純粋な田舎が広がっている。そして、そういう地域では、意外に多くの公共事業が展開されている。

というわけで・・・我が地域には、『飯場』と呼ばれる、土木建築関係の会社が、本社や支社とは別に、現場近くに作る仮の事務所&作業員の宿舎となる施設が、たくさんある。中には『飯場』だったはずが、いつのまにか立派な建物になって、支社規模になったものもある。

が・・・こういう『飯場』は、地元の住民には、あまり歓迎されないのが一般的だ。住民たちの意識には、かなり偏見による差別的なものがあるとは思うが・・・やはり、定住者ではない者に対する警戒心というのは、ある程度、あっても仕方がないかなと思う。

なのだが・・・我が地域の『飯場』に、いつも掃除がビシッと行き届いている、めちゃくちゃキレイ好きな事務所が一つだけある。と・・・これは、かなり好感度が高くなる。掃除が行き届いているから、そこの人たちは人格者の集まりだとか、優しい人ばかりの会社だとは限らないのだけど・・・・なんだが「ちゃんとしている」=「大丈夫(トラブルを起こす人たちじゃない)」と思えてしまうのだ。

それにくらべて、草はボウボウ、ゴミは散らかしっぱなし、洗濯物がダラシナク干してある『飯場』の人は、実は、とっても好い人たちかもしれないけど、どうしても胡散臭く見えてしまう。

ちなみに、夕方に、いつも掃除が完璧に行届いていている『飯場』の外の道を通ると、美味しい夕飯の臭いと共に、作業員さんたちの談笑する声が聞こえてきて、ものすごくアットホームで幸せそうな状況が目に浮かぶのだ。しかも、食堂らしき建物の横の、事務所らしき所では「只今戻りました」「はい、ご苦労様でした」と、とても礼儀正しい挨拶が交わされていたりして・・・まさに模範的な会社像を見せられた気分になる。

こういう体験をすると・・・無駄と思えるような校則の厳守に躍起になっている先生たちの意見も、一概に否定できないかなと思ったりするなぁ(爆)。