OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

知らなくても愛せる・・・かな

2021-03-31 15:47:47 | Weblog
またテレビ番組からのお話で申し訳ない。以前にも言ったかもしれないけれど、NHKで放送されている『フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿』という番組が好きです。で、今回とりあげられていたのは「愛と絶望の心理学実験」。番組HPの記事をそのまま拝借するなら「愛とは、何か? いかにして生まれ、はぐくまれるのか?世界で初めて"愛"を科学的に実証したアメリカの心理学者ハリー・ハーロウ。キスやハグなどのスキンシップには意味が無く、むしろ有害だとされていた20世紀半ば。を動物実験で明らかにし、常識を覆した。ハーロウの研究成果は、その後の育児にも大きな影響を与えることになる。しかし、その実験は残酷きわまりないものだった…」という内容です。

見ていると、たしかにハーロウ博士が実験で明らかにしたことって、その後の育児とか児童福祉などにとても大きな、しかも良い影響を与えているなって思うんですけど・・・被験動物になった猿の赤ちゃんが、あまりにも可哀想で・・・それはもう、ちょっと直視できないくらいなんですよね。

動物実験の是非というのは、ほんとうに難しいようで・・・番組に出ておられた専門家の先生方も、言葉を選びながら慎重にお話されていました。で、個々の研究者の自制や配慮というのはもちろん必要なことなんだけど・・・そもそもなぜ動物実験をするのかというと、それは決して人間の為に利用する目的だけじゃなくて、その動物を理解し保護するための場合もあると仰っていました。知ることで理解し、愛することが出来るようになるって(言葉は違っているかもしれないけど、たぶんそういうような意味だと思います)。実際、その後、動物保護の気運が高まって、霊長類を対象にした動物実験に関する倫理規定が儲けられるようになったのも、ハーロウ博士の実験によって、猿にも人間に似た感情があることが科学的に証明されたからだって。

と・・・そのお話を聞きながら、知ることと愛することの関係を考えてしまったんですよね。たしかに、相手を知らなきゃ、相手の事を好きになれないっていうのは、その通りのような気がするな、って。しかも、好きになったらなったで、もっともっと知りたいって思うようになるよねって。

でも・・・ん~・・・すごくよく分かるんだけど・・・なんだか、ちょっとだけ、違和感が残るんですよね・・・ん~、ほんとうに、知らなきゃ愛せないのかなって・・・ん~・・・

これはもう、動物実験の話とは別の話になっちゃってるんですけど・・・わたしたちが、誰かを、あるいは何かを愛する時、たしかに相手を知りたいと渇望はするけれど、実際には、相手の全部を知るなんてこと、出来ないじゃないですか。自分のことだってよく分からないところ、いっぱいあるのに、ましてや自分じゃないもののこと、全部理解するなんて、無理なことですよね。じゃあ、わたしたちが感じる愛は不完全なのか・・・そうね、不完全なのかもしれない・・・でも・・・ん~・・・全部知らなくても、たしかに、そこに愛はあると、そう思いませんか・・・

いや~、むしろ、知らないけどそれでも愛する、そこの方が愛することの本道があるような・・・

話は変わりますが、最近、透明性、透明性って、よく言われますよね。何も隠さないことが何よりも大切で尊いことのように。たしかに、取引とか契約においては、透明性って不可欠だと思うんですが、人間関係において透明性って、そんなに重要ではない気がするんですよね。やましくなければ隠す必要ないとかいいますが・・・やましかろうとやましくなかろうと、なにもかも開示する必要はないんじゃないかって。ああ~、最近、よく言われるもう一つの言葉、個人情報保護・・・それとは違いますよ・・・まったく違うわけじゃないけど・・・大切にしたいものが違います、はい。

また話が飛びますが、名探偵もののドラマ、わたしが思うに、デヴィッド・スーシェ主演のポワロシリーズが顕著だと思うのですが・・・最後に、名探偵が犯人を名指しする大盛り上がりの場面で、そこに集まった登場人物たち一人ひとりの秘密を全部暴いて、最後の最後に犯人を発表するっていう手順が、ものすごく残酷だなって思うんですよね。犯人とその犯行手口だけを解説すればいいのに、なんで他の人の秘密まで暴露するんだろうって。時には、犯人よりアクドイ人物もいますから、そういう人物に社会的制裁を与えるというのなら理解できますが・・・だれでも、多少は間違ったこと、恥ずかしいこと、してしまっているもので、それはやっぱり内緒にしておきたいものなのに、ぜぇ~んぶ公表されちゃうのは可哀想だなって。

言わぬが花ってこともありますし・・・"知る"ってとても意味あることで、だから"知りたい"という知的好奇心はとても大切なもので・・・でも、知らなくても好いこと、知る必要のないこともたくさんあるし・・・

何より、知らなくても愛することは出来る、それが愛の本質だって・・・そんな風にも思ったりするんですよね。

"ついで"が成立する時間

2021-03-29 17:21:20 | Weblog
使い捨てマスクを有効に使うため、ちょっとした用事は、同じ日にまとめて片付けるようにしている。もちろん、出不精だからというのも大きいのだけど、ちょっとした用事で外に出て、数十分使用しただけのマスクを毎回捨てるのは、どうも勿体ない気がするんだよね・・・金額の問題じゃなくてね(^^;。

で、今日も、あちこち、ちょっとした用事を済ませるため、車で出かけて・・・その時に、久しぶりにラジオを聞いてみたら・・・聞きなれたはずのDJさんの声が、妙に余所余所しく感じられたんですよね。余所余所しいと言うと、相手側に要因があるみたいに聞こえちゃいますね・・・もちろん、そうじゃなくて、しばらく聞かなかったことで、私サイドが勝手に距離を感じてしまったわけです。

でも、たぶん、今の方が普通の感覚なんだと思います。仕事で長時間車移動することが多くて、その間、よくラジオを聞いていた時の感覚が、ちょっと面白いことになっていたんだと思います。勝手に仲間意識というか、身内意識というか・・・そういうのに似た感覚を抱いちゃうんですよね。

でも、それって、わたしだけのことじゃなく、ラジオってものが持つ個性というか、魅力というか、魔力というか(^^)。深夜ラジオのリスナーなんか、よけいにその感覚が強いんじゃないかと・・・ほんと、ラジオって、なかなかに面白い媒体ですよね。きっと、どんなに新しい発信源が生みだされようと、ラジオは生き残るんじゃないかな、なんて思いました。

何て言いながら何ですが・・・今は、ラジオ、聞かなくなりました。家に居て、わざわざラジオ、聞かないです、わたしの場合は(←さっき言ったことと、ずいぶん違うじゃないか)。

だから・・・なんていうか・・・"ついで"が成立する時間って、すごく意味があるというか、貴重だなって思いました。それが目的じゃなく、目的に向かうための時間っていうかのかな・・・通勤、通学、つまり移動時間が、その代表格だと思うんですが・・・"ついで"時間をどうすごすか・・・けっこう大切かなって思います。

別に、何か意味のあることをしなくちゃいけないわけじゃないんですよ。その時間を利用して勉強するとか、仕事の下調べするとか、そういう生産的なことじゃなくて、ただ車窓から外を眺めるというのでも全然かまわない・・・ただ、付録みたいに本来の目的についてくる時間を楽しめたら、それはすごく儲けものな幸せのような気がするんですよね(^^)。

今は、目的もないので、ツイデもオマケもない生活ですから、よけいにそんなことを思うのでありました(爆)。


憧れのモンブラン

2021-03-26 17:00:32 | Weblog
中学生のころから、万年筆が好きでした。といっても、まだ子供ですから、高い万年筆など買えません。学校の購買部で、たぶん数百円程度で買えた玩具みたいな万年筆、それでも結構うれしく使っていた記憶があります。インクをセピア色や緑色など、気分に応じて変えては楽しんでいたように思います。

でも、その学校の中高部長(他校で言うところの校長ですね)だった松本先生が、極太のモンブランを使っていらして、それがすごくカッコよくて・・・わたしも大人になったら、モンブランを使うんだと決めていました。

で・・・たしか、伯父の選挙の手伝いをして、初めて自分でお金を稼いだ時、そのバイト代で憧れのモンブランを買ったのではなかったかと思います。それが、写真の万年筆です。

それ以来、ずっと使っていて・・・それを知っていた藍那が「わたし、形見分けにはこれ貰うことにした」なんて言っていて・・・それが、すごく嬉しかったものです・・・もちろん「こんなものでいいの」なんて軽く受け流すような返事をしていましたが、内心は、とっても嬉しかった・・・です。

でも、それを使っている最中に落としてしまって、ペン軸が割れてしまったんです。焦ったわたしは、何とかしなくちゃと瞬間接着剤でくっつけたりしたんですが・・・冷静に考えたらありえない処置ですよね。もちろん、書けなくなってしまいました。それでも捨てられずに、ずっと大切においていたのですが・・・

ふと思いついて、ネットで「万年筆 修理」と検索してみたら・・・けっこう、取り扱っているところ、あるんですね。さっそく、大阪の専門店に問い合わせたら、直せるかどうかは見てみないとわからないけど、送ってくださいと返事を頂きました。うれしいっ!!!!

なにせ、わたしがとんでもないことをしちゃってるし・・・直せたとしても、費用がかかるかもしれないんだけど・・・とんでもない額じゃなければ、直せると嬉しいなって思っています。

願いを込めて、明日、送ってみます('^^)。

声を出してみよう(^^)

2021-03-25 16:34:42 | Weblog
"親友"って何だと、学生時代、友人たちと議論になったことがあったっけ。友達とはどうちがうんだ・・・じゃあ、そもそも友達と知り合いの違いは、とか・・・今考えると、青いというか、バカバカしくも可愛い議論だったと思う(^^)。

で・・・たぶん、わたしにとって紛れもなく親友と呼べる友人の一人が、芦屋の谷崎潤一郎記念館が開催している朗読講座の講師をしているので、今期から参加してみようかと思っている。それで、他の親友たちにも声をかけた、一緒に参加してみないかと。

受講生に、講師の知り合いの割合が増えると、他の受講者の方たちや、講師本人が、居心地悪くなってしまわないかと心配だが、そこは、わたしたちがちゃんと分をわきまえて、礼儀正しく参加すればなんとかなると・・・思います(^^)。

自分でいうのもなんだけど、精神的にかなり煮詰まっているのでね(爆)・・・なにか方向性の違う行動をとってみれば、現状打破につながるのではないかと・・・そんな期待もあるのですよ(^^)。

声を出す・・・うんうん・・・いい方向性かもしれない・・・(^^)。

ということで、関西圏にお住まいで、文学好きの方、あるいは声による表現に興味のある方、よかったらご参加ください・・・わたしにも会えますよ(笑)。


芦屋市谷崎潤一郎記念館の講座チラシは以下です
https://www.tanizakikan.com/pdf/clameisaku.pdf

アートか社会福祉、あるいは経済活動・・・ん~

2021-03-19 09:12:19 | Weblog
自宅の隣に、打ちっぱなし二階建ての建物がある。もともとは、「結婚し母になっても自身が興味を持ったことに夢中になる時間をもちたい女性たちのため」の施設を目指して作ったものだ。実際には、就園前児の預かり施設のようになってしまったが、もともとはそういう志で作ったものだった。(そのあたりの経緯は愚著に詳しく書いているので、読みたいと思ってくださった方はご連絡ください。進呈いたします。) それが、仲間たちと立ち上げたヘルパー派遣事業所を営むNPO法人の事務所になり、その次は、障がい者就労支援組織に使ってもらうことになり・・・そして今は、もろもろの事情から空きビルになっている。

で、また、今度、障がい者用グループホームにどうかという話が浮上している。ふむ・・・

とはいえ、この話が成る可能性は低いと思っている。何をするにも資金ゼロで始めるので、銀行との折衝やらなんやら、毎回けっこう大変で、今回だってハードルが高いのだ。もちろん、わたしが経営するわけではないのだが・・・いろいろと資金は必要になるのだよね・・・相手方の審査もあるしね・・・

それになにより・・・実は、わたしは、隣の建物を"創作の拠点"みたいに使いたいと思っている・・・人には貸したくない・・・それが本心なのですよ。

理想を言えば、自分自身が、あるいは家族が、あるいは本当に親しい人が、創作の為のアトリエとして使ってくれたら嬉しいのだけど・・・残念ながら、肝心の私に、芸術的センスが皆無で・・・使いたくても使えないのだ(涙、涙、涙)。

それでも、完全に、この望みを捨て去っていたわけではないのだけど・・・未だに、この建物を建てたときの借入が残っているし、誰も使わないまま放置しておくなら、多少でも収益の上がるプランを検討すべきかなと・・・理性は、そう、わたしに告げるのであります。それが、障がい者用グループホームとなれば、意味のあることかもしれないし・・・って。

だから、相手方から、あるいは銀行から、断られたらホッとするのだけど・・・と、とても後ろ向きなことを思いながらも、結局どうなるにせよ、ちゃんと君のこと、考えなきゃねって、隣の建物に向かって、語り掛けています。

ちなみに、子ども博物館時代、スタッフが何人も、この建物で、この世のものではないものに出会っています。階下では幼い子どもにあったという人が多く、二階では年配の男性にあったという人が多かったです。わたしは、深夜遅くまで一人で作業したりもしていましたが、誰にも出会ったことがありません。皆が言うには、向こうが貴方を避けているようだとか・・・オイオイ(^^;。でも、みんなが気にするので、私は一度、心で強く見えない者たちに語り掛けました。「ここは私たちの場所だからお前たちは消えろなんて言うのは、わたしたちのエゴですよね。私たちのルールの下では、私たちの場所かもしれないけど、あなたたちのルールからしたら、あなたたちの場所なのかもしれない。でも、少なくても、わたしにとって、ここは大切な城です。ここに集う人たちも大切な人たちです。ですから、共存できないなら、わたしは闘います。どうですか?お互いを尊重し合いなら、共存しませんか」。それが理解されたのかどうか分かりませんが、何も悪いことは起こらなかったです(^^)。

で・・・今、その時、語り掛けた人たちが、まだそこに居たら、わたしに対して、何を思うかなって思うんですよね。「大切だなんていってたけど、放置したままじゃないか」って。恥ずかしいなって・・・

ふむ・・・自分自身をどうしたらいいか分からなくて悩んでますが・・・自分だけじゃないんですよね、なんとかしなくちゃいけないことって・・・

神の不在に打ちのめされる・・・?

2021-03-18 09:31:16 | Weblog
昨日、"この10年"の話をしましたが・・・

この10年、それまで毎日UPしていたブログの記事も、まばらにしかUPできなくなっていますが・・・そのまばらな記事の中で、何回も話題にしてきたのが、わたしの無気力の原因です(^^;。

たぶん・・・わたしの記憶が確かなら・・・わたしはその原因を「自分に興味をもてなくなったから」と分析しているのではないかと思います。それまでのわたしは、「わたしの究極的関心事は自分自身」と言ってはばかりませんでした。ちなみに、"究極的関心事(ultimate concern)"とは、わたしが卒論のテーマにさせてもらったパウル・ティリッヒが、神を表現するのに使った言葉です。

でも・・・今、思うんです・・・わたしが興味を失ったのは・・・まさにそのティリッヒのいう所の"究極的関心事"、つまり"神"、言い換えれば"絶対的なもの"の存在なのではないかと。

普通なら、自分ではどうしようもない出来事に遭遇した人は、むしろ自分の力など及びもつかない大きな力の存在を感じるのではないかと思います。その非情さに打ちのめされ恨みに思うのか・・・その先に何かしらの救いを見つけるのか・・・人によって感じること、辿り着く先は異なるでしょうが・・・

けれど、わたしは・・・ああ、なにもないのだなと・・・空なりだなと・・・

"空なり"などと表現すると、キリスト教的な考え方から仏教的な考え方になったみたいですが、決してそうではなくて・・・ただただ虚しいと、そういうことなんですけど・・・(^^;

以前のわたしが、他の人にとっては何の意味もないにもかかわらず、懸命に毎日なに事かを発信していたのは・・・自分という存在に対する興味であったのは間違いないのですが・・・その向こうに、絶対的なものに対する挑戦という・・・えらく無謀な企みがあったのだと思います・・・

そもそもSF小説が好きだったのも、SF小説には、その要素が大いにあったからですからね・・・(^^)

あまりにも相手が大きすぎて、まるで子どもの反抗期みたいなものですが・・・本人にとっては、高い山に挑む登山家のような気分だったのでしょう(^^;

なのに・・・反抗する主体である自分自身を失い、反抗する相手である絶対的な存在も感じられなくなり・・・どう書けば、何を書けば・・・

けど・・・やっぱり、わたしにはこれしかないんですよね・・・

今まで苦手で諦めていた楽器の演奏を勉強してみようかな、もともと好きだった書道を習いなおしてみようかな、藍那にお付き合いしてちょこっとやったことのある油絵を本格的に始めて見ようかな、ブリティシュガーデンはぜひ作ってみたいんだけど・・・などなど、なんとか夢中になれるものを探さなきゃと、生活の中にハリをもたせるものを見つけなきゃと、いろいろと考えてみるんですが・・・無理やり頑張ってみてもね・・・(^^;。

やっぱり、自分の性根みたいなものは変わりませんからね・・・

ただ、その性根の性根を見失っている状態で・・・何を書くかなぁ・・・とりあえずは、なんとなく続けて、時を待つしかないのかな・・・時、来るのかな(爆)。


十年という歳月

2021-03-17 07:41:39 | Weblog
東日本大震災から10年ということで、色んなメディアで様々な特集が組まれていましたね。そういうの、しっかりと見ておかなければならないと分かってはいるのですが、どうも苦手で、向き合うことから逃げてしまいます。当事者でもないくせに逃げるって、単なる無関心と何も変わらないので、罪は重いなって思うんですが・・・

それでも、目に入ってきたいくつかのニュースで・・・幼くして被災した若者"この10年"の頑張りに、恥じ入るしかない気持ちになりました。わたしが過ごした"この10年"の、なんと無為無策であったことかと・・・

もちろん、十代二十代の人にとっての10年と、還暦近くになった人間の10年は、まったく別ものだとは思います。特に何がなくても激動の時期である十代二十代の若者と自分を比べるなんて、意味のないことだと・・・

けれど、人生において苛烈すぎる特別な出来事を経験してから生きた10年という意味で・・・ニュースで見た若者の生きた10年と、わたしの無為無策の10年が、あまりにもかけ離れていて・・・ほんとうに、ただただ恥じ入るばかりなのでした・・・

けれど、だからといって・・・これからのわたしに何ができるのかと考えても・・・やっぱり"この10年"と同じような無為無策の"これからの10年"を過ごしそうです。ある時、一念発起して、何かに励むようにならないとは言い切れませんが・・・

ああ・・・"これからの10年"かぁ・・・むしろ、とても怖いです、老いることが・・・

昨夜、また母が、ペットボトルのキャップを、ガスコンロの火に炙ろうとしていました。慌てて止めましたけど、きっとまたやるでしょうから、コンロにはロックをかけて、母には使えないようにすることにしました。テレビがつけられないとか、水を出しっぱなしにするとか、そういうことはいいんですが、やっぱり火は危ないですからね。

老いるということ・・・本音で話すと、やっぱり嬉しくありません。自分の現時点程度の老いなら、まだなんやかんやと理屈をつけて肯定的に考えることが出来ます。「たしかに老いて失ったものは多いけど、老いる過程で得てきたものも多い」とか、いろいろと老いをフォローすることも可能です。でも、自分より一世代上の母の姿を見ていると、「年を取ったら今の母のようになりたい」とは、決して思えないです。

だからといって、頑張って子どもを育て上げ、それぞれの場所で自分なりに社会に貢献してきた年配者が、家族や社会に疎まれていいとは思いません。尊敬され、正当な待遇を受けるべきだと思います。

ただ、そこに向かっていく自分が、それまでの時間をどう過ごすのか、母の年齢になった時、母のような状況になった時、自分は・・・

運動能力が落ち、認識力が落ち、他者の助けが必要になった母を世話することの苦労より、自分がそうなっていく過程のこれからの年月・・・

むしろ、まだ動ける、まだ考えることができる、"これからの10年"は、激動の若者の"これからの10年"より考え処かもしれません・・・

各世代が活きているドラマはイイねぇ~

2021-03-01 10:13:21 | Weblog
わたしの場合は、まったくコロナのせいではなく、自身の問題として、奥行きゼロの隠遁生活を送っています。購入したまま未読の電子書籍も溜まり、購入したまま未聴のオーディオブックも溜まり、録画したまま未観の映画も溜まり、暇があれば整えたいと思っていた家の中の細々とした仕事も先送りにし・・・つまり、決してやることがないわけではないのだけど、何もする気になれず・・・。で、そんな無気力人間の強い味方が、テレビなのであります(^^;。

だものだから、ここのところ、もっぱらテレビ番組に関することしか書いてないなぁ~と、自分でも情けなくなるんですが・・・今回もまた、どストレートにテレビドラマの話であります(^^;。

年をとってきたら誰もがそうなるわけではないようで・・・年輩の女性でも、若いイケメンくんを熱心に応援しているという楽しげな話はよく聞くのですが、残念ながら、わたしはダメですね。イケメンであろうとなかろうと、若い人達中心のドラマや映画は、どうにも楽しめない。それが恋愛ものとなれば(ほとんどの場合、恋愛ものですが)、まったく関心がもてない。となると、ほんとうに、楽しめるドラマなんて限られてしまうんですが・・・

少し前に、久しぶりに『琅琊榜(ろうやぼう)~麒麟の才子、風雲起こす~』という中国ドラマにはまり、しばらくの間は楽しませてもらったんですが、今度また、やっぱり中国ドラマの『九州縹緲緑』というのが面白くて、一週間に一度、しばし浮世を忘れて楽しませてもらっています(^^)。

でね・・・このドラマの何が私をそんなに引き付けるのかなと、ふと考えたんですが・・・とね、やっぱりベテランがいいんですよ。でも、中堅も好い具合に活躍しているし・・・いやいや、若手だって生き生きしているなと・・・つまり、全世代がもれなく好い存在感をもって、ドラマの中で生きているんですよ。うんうん、これだよやっぱ・・・って思いました(^^;。

極め付きは張豊毅(チャン・フォンイー)ですかね。基本的には、わたしにとって彼は、いつまでたっても蝶衣を傷つけた憎き小楼なんですが、それでも彼が出ていると映画でもドラマでも、特別な思いをもって見てしまいますかね(^^;。もちろん、『九州縹緲緑』では、他にもベテランたちが、少ない出番でも、それぞれにさすがの存在感を放っていて、かれらがしっかりと世界を構築してくれているから、中堅や若者たちがその中で真剣に生き抜けるんだと思います。ほんと、ドラマの理想形だなって思います(^^)。

ちなみに『九州縹緲緑』で主人公を演じている若手の劉昊然(リウ・ハオラン)くんは『琅琊榜②』でも主要キャストなんですが、『琅琊榜②』は『琅琊榜』に比べて、わたし的にはかなり魅力がなくなっているんですよね。その原因が、キャストが若すぎる、全体的にライトになり過ぎてる感じがしたからなんですよね。そうそう、劉昊然くん主演のコメディー映画『僕はチャイナタウンの名探偵』の第三弾の舞台が日本で、日本の有名俳優さんたちが多数出演されてると聞きました。すごく面白そうなんですが、これまでの作品は日本未公開なのだとか・・・いや~、これはもったいないですよ。CSでもいいから、放送して欲しいな(^^)。