OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

型にハメるですか(^^;

2014-06-18 09:13:04 | Weblog
ええ、ええ、確かに尖ってましたよ、若い頃は(爆)。

型にハメられるとか
先入観で決めつけられるとか
ほんとうに嫌でしたよ、ハイ。

記憶力には自信がない方なので
あまり具体的なエピソードは覚えていませんが
証拠もあって忘れられないのが、お裁縫箱事件です(^^;。

小学校何年でしたっけ
家庭科で裁縫を習う時期に
学校で生徒たち全員のお裁縫箱を購入してくれたわけです。

男の子は青、女の子はピンク
先生は特に希望も聞かず注文しようとされたんですね
そこでメンドクサイ子が一人ごて始めた
「なんて女はピンクって決めつけるんだ、わたしはピンクなんか嫌だ、青にしてくれ」
それで、クラスの女子で、わたしだけが青のお裁縫箱を購入することになったわけです。
で、その青の裁縫箱が、今も我が家にあるわけです(^^;。

で・・・これは意図してなったわけでなく
偶然、入った学校の方針がそうだったのですが・・・
わたしが中学から十年間通った学校は制服のない学校でした。
全体的に自由っていうか
何でも生徒たちが相談して決めればいいという校風で
校則に締め付けられて反発したというような思い出がほとんどなく・・・
この十年間が、ますますわたしの「型にハメられるの嫌い」気質を助長しましたね(^^;。

だから、我が子に対しても、そのような考えで接してきました。
藍那が校則に反発して
子どもなりの細やかな抵抗を試みているときも
決して頭ごなしに反対はしませんでした。

ただ、まあ、決まりがある以上は
学校に呼び出されて注意されても
うちの子は間違ってませんとかは言わないよとは言い渡していました。

本気で校則が間違っていると思うなら
正面切って交渉して校則を変えようとするのもよし
ゲリラ戦で抵抗するのもよし

それでお母さんが先生に呼び出されたら、一緒に叱られてあげるけど
お母さん自身が校則と闘うことはない・・・それはアナタが自分ですべきことですって。

それが・・・
子どもたちのそんな時期もすぎ・・・
わたしの活動もPTAなどから民生委員といった、ちょっと年配な感じになり・・・
その上で、学校関係者の人たちや警察関係者の人たちの話を聞く機会を得るようになり・・・
ちょっとずつ、考えも変わってきた部分があるんですよね・・・

中でも印象的だった警察の方のお話を一つ・・・

その方が仰るには
車で走っていて、落書きの有無をみると、その地域の犯罪件数がおおよそ分かる、のだそうです。

で、ビックリするのは
地域の方たちに協力してもらって、落書きを消していく(消してもすぐに書かれたら、またすぐに消す)と
自然に犯罪件数も減少するのだそうです。

なんていうか・・・
人だけでなく、地域柄ってものも、襟を正すと自然に品行方正になっていくのかって、ちょっとビックリしました。

そうそう、荒れた学校についても
どうせまた割られるからと、割れた窓ガラスを放置しておくのは絶対にダメ
割られたら、すぐにガラスを新しくする
落書きはみつけたらすぐに消す
鼬ごっこだと感じるかもしれないけど
絶対に必要なことだとも仰っていました。

そういえば、学校だけじゃなく、企業の教育担当の方たちも
服装や言葉づかいで、確実に人の行動は変わると仰ってましたっけ。

あっ・・・ベテラン職人さんは
工具をちゃんと整理できない職人は腕が悪いって仰ってました・・・これは、ちょっと違うか(^^;。

たしかに、わたしだって、服装によって気分は変わります。
スーツのとき、着物のとき、普段着のとき、部屋着のとき・・・気分から表情から言葉づかいから全て変わります。
外側から持っていくって・・・たしかに有効なことなのかもしれません。
本気で、そう思えるようになりました。

けど・・・それでもやっぱり・・・納得できないものを強要されるのは嫌だという気持ちは変わりませんけどね。
だから、他人にも、その人が納得していないことを無理やりさせるのは嫌だと思います・・・たとえそれが、その人をより良い方向に導いてあげようという気持ちからであったとしても・・・なんか気持ち悪いし。

けど・・・時には、本人の意志を無視しても強制することが、その人のためにも必要だってこともあるのかな・・・わたしの言っていることって、結局は責任逃れっていうか、他者と本気で向き合おうとしてないだけなのかな・・・

集団として有事に当たる時などは、個々の人が独自に判断していては動けないということもあるから・・・構成員に何も考えさせず、組織の判断に従わせることが必要な時もあっていうし・・・

ああ~、でも、やっぱり、そういうの嫌だな・・・なら、そういう状況を作り出さなきゃいいのか・・・でも、それも難しいことなんだろうな・・・

若い頃は、一つの正義、一つの真実に従って、ツンツンに尖っていられたけど・・・年をとると、いろいろ考えちゃいますね。正面突破ではなく、遠回りすることや、待つことや、時には何かを諦めて絶対に譲れないものを確実に手に入れというような妥協や、ちよっと騙し討ち的な策を考えるようにもなりますしね。そして、自分や他人を型にハメて、手っ取り早く大きな効果を得るのだ、みたいなことも受け入れられるようになっちゃうんですね・・・これを若者は、堕落と呼ぶのでしょうか・・・う~ん(^^;。

楽しく暮らす資格、あるいは才能、あるいは・・・

2014-06-06 08:49:32 | Weblog
楽しい・・・って、すごく主観的なものだから
はっきり言って、本人の気持ちしだいですよね、楽しいも楽しくないも

あぁ~、こういう書き方をすると
お金がなくても暇がなくても
自分次第でいくらでも楽しく過ごすことはできますよ的な
そんな話に聞こえちゃいますね

でも、そうじゃなくて・・・
いや、まっ、そうとも言えるか・・・
いやいや、そうなんだけど、それを真逆から言ってるっていうか・・・
まっ、どっちでもいいけど(^^;
っていうか、自分でも、何を言いたいのか良く分かってないんですが・・・

とにかく

お金の問題じゃなく
自由になる時間の問題でもなく
楽しく過ごしたいという気持ちがあったとしても
楽しくないってことかある・・・と思うわけです

好きなことというか
少なくても今まで好きだったことや
やる気をもって行ってきたことに関わっていると
まったく楽しくないわけではないんですが
なんだか・・・ん~・・・

となると
楽しいって気持ちに絶対に必要な要素ってものがあるのかな・・・とか、思うわけです。

単純に考えれば、それは欲望ってやつて・・・
すごくストレートな食欲とか性欲なんてものが満たされる感覚は楽しさにつながると思うし
消費とか所有とか虚栄とか、そういう欲が満たされるときも楽しいと感じると思うし
知識欲とか向上心とか、そういう欲が満たされていくのも楽しさを産むだろうし
好きとか愛とか、そういう感情が満たされて行くときも、確実に楽しいという感情が伴うと思うんですが

要するに、なんていうか・・・
心の中に、何かで満たしたい、また満杯じゃないスペースがあるってことが
人が楽しいと感じるために、絶対に必要なことなのかなと・・・

だから
たぶん、そんな人はいないでしょうが
欲しいものがすべて手に入ってしまった完璧に幸せな人って
案外、もう楽しさを感じられないのかも

でもって
空のスペースはあるけれど
それを満たすべきものが
もう絶対に手に入らないことを理解している人間もまた
楽しいという感情から無縁になってしまうのかもしれませんね。

ずっと
どんなことでも何とかなるって思っていました。
期待した形では実現しなくても
姿を変え、なにかしら成っていくものだって。
だから、諦めるのではなく、頭や気持ちを切り替えて、求め続ければいいって。

けれど
どう頑張ってもどうにもならないことがあり
ただ諦めるしかないことがあると知りました。

それは・・・命です。

魂は永遠だとか
輪廻転生するのだとか
人の心の中で生き続けるだとか

命だって、姿を変え、形を変え、あり続けるのだという救済案は
素晴らしい先人の知恵だとは思いますが
今は、その知恵が、かえって小賢しく虚しく感じられます。

その虚を受け入れて生きれば
楽しくはないけれど穏やかに暮らせるのかも
もしかしたら、楽しささえ感じられるようになるのかも

けれど、そんな楽しさなら欲しくはない・・・かな。