OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

放置ネタ集

2019-08-10 14:58:38 | Weblog
走り書きのメモ・・・ふと思ったことを書いたりする。そこから色々考えが巡っていったり、そのまま放置されたり・・・今日は、放置されたまま、自分でも何キッカケで思ったことなのか忘れているような小ネタをいくつか(^^;。

夫が出勤前の身支度の時に、時計代わりにしているテレビ画面、そこに映し出される朝の情報番組の占いコーナー。何かあるとすぐに、何もなくてもすぐに、苦情がテレビ局に寄せられる時代だと聞いているけど、この占いに誰も苦情を言ってこないのだろうか。当たらなかったとか、自分に当てはまらない内容だとか、なんだとか。占いにはいくらでも苦情ネタがありそうなんだけど・・・。きっと、誰もが了解しているんだろうな、当たるとか当たらないとか、そういうの求めてないよって。そういう意味では、日本人って上手に占いと付き合ってるのかもしれない。真剣になり過ぎず、日常のちょっとした楽しみにできているのかもしれない・・・のかな。

最近、母の病院、夫の病院と、色んな病院のお世話になり・・・それに伴って、複数の薬局のお世話になっているのだけど・・・そのうちいくつかの薬局では、薬剤師さんが作業してらっしゃる姿が見える建物の構造になっている。で、思ったのだけど・・・薬剤師さんって、とってもゆっくり動かれるんだなぁ~。待つ身としては、ついつい「遅いな、わたしならその二倍の速さで動けるぞ」って思っちゃったりするのだけど・・・ふと思った、これって、職業的な必要事項なのかも。決してミスがあってはいけないお仕事だもの、動作が雑にならないよう、ゆっくりと動く、というより決して焦らないよう、学生の頃から厳しく指導されたのでは?勝手な想像だけど、一人納得してしまった。ちなみに、友人に薬剤師さんがいるけど、チャキチャキっとした女性なので、彼女が職場で、意識してゆっくり動いている姿は想像できないなと思ったのでありました。

所有って何だろうな。わたしたちは、風景を眺めて美しいなぁ~って感動したりする・・・そして、この風景がいつまでもそのままだといいのになって思う。でも、その風景を構成している土地には必ず所有者がいて、それが国有などで保護が決まっている土地じゃない限り、所有者個人あるいは企業の思惑や都合で、いつでも変更が加えられる。所有者にはそれぞれ事情があって、それを非難できないし、ましてや止められない。でも、みんなが愛する風景っていうものがたしかにあって・・・しかもそこかしこにたくさんあって・・・われわれは愛でることはできても、所有はしていないから・・・責任を負わないぶん、口出しすることは出来ず・・・ふむ・・・

悟りと諦めって、ほんとうに全く別物なのかな。似て非なるものか、似ても似つかないものなのか、同じものを違う角度から表現しているのか・・・どうなのかな・・・

噂って怖いですよ・・・思った以上に人を追い詰めたりしますよ・・・

2019-08-06 15:47:40 | Weblog
民生児童委員をしていると、個人情報の保護に関しては、よくよく気を付けるようにと指導される。講習も受けさせられるし、折りに触れて「注意してください」と言われる。でも、そのせいで大切にすべき繋がりが断たれることもあり、役割を果たす上で障害になっていると感じることもある。何んのために何を保護してるんだと言いたくなることもある。ただ、犯罪集団が、個人情報が記載された名簿をもとにターゲットを物色していると聞くと、たいして重要ではないような個人の情報だって、いくらでも悪用されることがあるわけだから、個人情報保護っていうのも必要なのだろうと思う。いつも、個人情報保護の必要性と弊害のはざまで悩んでしまう。

そんな私のもとに、さっき、調査会社の者だと名乗る人物がやってきて、とある人物に関して聞きたいという。民生児童委員の私にではなく、別の肩書の私にだったが・・・ふむ。

調査会社の人によれば、とある人物は、とある出来事の加害者であるようだ。なぜ、このようなことを聞くのかの説明だといって、その出来事について詳しく語ってくれた・・・オイオイ。

わたしは、その人物について全く知らないから、そのむねを伝えた。そして「でも、もし知っていても、それはお話しできないでしょう」と言った。

まず、その調査会社の人が、本当に調査会社の人なのか分からない。彼が語った出来事も本当の事かどうか分からない。もしかしたら、彼はストーカーであるかもしれない。そう簡単に、他人の事、べらべら喋れないでしょ。民生児童委員でなくても、守秘義務の縛りがなくても、喋るべきじゃないでしょ、違うかな。

それにね「今、わたしは、あなたからお話を聞いたことによって、その方(住まいも実名も聞かされた)のこと、とっても悪い人だという印象を持ってしまいましたよ。あなたのお話が本当のことであれば、たしかに間違いを犯して正そうとしない人なのかもしれませんが、たとえそうであったとしても、それを全くの第三者に知られてもいいものでしょうか。あなたが、さらにご近所の方たちにその話をしてまわったら、もっと多くの人が、その人に悪い印象を持ちますよ。悪いことをした人なのだから、それは仕方のないことだとお考えなのですか?」と聞きました。

今回の件が、それに該当するかどうかは分かりませんが・・・個人情報の保護だけでなく、なんやかんやの制約で、悪いことをした人のことを探し出せないという問題はあるのかもしれません。悪いことをしておいて逃げ得なんてことが、そこかしこで起こっているのかもしれません。それで困っていく方、悔しい思いをしている方も、たくさんおられるのかもしれません。わたしも多少は、その立場を理解できます。たいしたことではありませんが、似たような経験はなくもないですから。

けど・・・調査会社の人間だという人が、家族や知り合い、職場の人やご近所さんに、「○○さんは、こんな悪いことをしたんですよ」とふれて回るというのは・・・ちょっと考え欲しいと、調査会社の人に伝えました。

被害者の心情や利益が何より優先されるべきだと思います。加害者保護になってしまうようなことは好ましいとは思いませんでも・・・この調査会社の人間だと名乗る人の、詳細な内容を伝えながら近隣へ問い合わせるという行為は、やっぱり危険だと思います。

一番恐ろしいのは、この人物が調査会社の人間でもなんでもなく、名前をあげられた人物には何の落ち度もなく、ただ悪意を持って誰かに貶められていたとしたら・・・それでも、そのことを確かめるすべはなく、ただ、一度聞いたその人の悪い噂だけが多くの人の記憶に残ることになるわけで・・・それが、その人の大切な人間関係や仕事などに悪影響を及ぼすこともあり得るわけですし・・・

調査会社の人は、「あくまでも任意にお伺いしているので、無理に情報を聞き出そうとしているわけじゃないです」「こんなことをお聞きするのに、ちゃんとした理由を正しくお伝えしないわけにはいかないと考えました」と仰っていましたが・・・いや、そういうことじゃなく・・・きっと、分かっていただけないんでしょうね。

いずれ、そこがどこであれ、どこかに流れ着くでしょう・・・(意味なく長文)

2019-08-05 10:33:30 | Weblog
ゴーヤは連作を嫌う植物らしいのですが、居間のグリーンカーテンとして植えているので、場所を変えるというわけにもいかず・・・とりあえず、土を十分に耕し、肥料をし、ゴーヤはゴーヤでも馴染みのある細長いゴーヤではなく、グリーンアップルゴーヤという、丸く育つ種類のゴーヤを植えてみましたが・・・やっぱり、十分には茂ってくれなかったです・・・来年は、プランターで植えてみようかなと思っています。

葉っぱも茂らないのですが、実も、大きくなる前に突然黄色く(夕方まで普通だったのに翌朝見ると真っ黄々)なってしまうものが続出・・・写真は、そんな黄色くなったゴーヤです。中の種の周りのワタは赤くなってますね。美しい色彩ではあるのですが・・・

そんな、夏と植物に関連したお話ですが・・・わたしは、藍那の周りに常にたくさんのお花が咲いていないと嫌なので・・・毎年、この時期(夏場)は大いに苦闘しています。毎朝、すべての花瓶の水を変え、毎回すこし茎を切りそろえ、それでも萎れてしまったら、すぐに新しいものを買い求めたり、庭から手折ってきて新しく元気な花を飾るようにしています。

当然のように、ずっとそうしてきたのですが・・・今年になって、ふと、そんな作業をしている時の自分の顔が、鬼のようだなと感じたんですよね。で、それでいいのかなと・・・わたしは何のために、これらの花を飾っているのかなと・・・

藍那の為のはずなのに・・・自分の為になっているんじゃないかと・・・まあ、そう、藍那の為というのは、最初から偽善というか、慰めというか、結局は自分の為だと、どこかで承知はしているので、百歩譲って、藍那の為じゃなく自分の気が済むようにやっている行為だとしても・・・なんか余計な意地を張っていないかと・・・ただムキになっているだけじゃないかと・・・なんじゃそれはと・・・本来の意図や意味とは、かけ離れてしまっているじゃないかと・・・

藍那と一緒に季節の花を楽しもうじゃないか・・・ね・・・それが本来ですよね。花の数や量、見た目どれほど豪華に飾り立てるか、そんなことに拘っていたら、一番大切にしたいものを置き去りにしちゃいますよね・・・

ちょっと話は飛躍しますが・・・付き物が落ちたように自己への拘りが薄くなってから、見える景色が、ずいぶんと違ってきたんですよね・・・

以前はね、己の内部に真摯に向き合う行為というのは、より高次な人間の営みだと思っていて、そこに拘る人は素晴らしいけれど、世俗的な成功だけを追い求める人たちは下劣だ低俗だと思う傾向が強かったんですが・・・

以前は、あれほど素敵に見えた、自己にこだわって制作活動をしている創作活動家の人たちの言動を、今のわたしが見ると、どうも幼いと感じてしまうというか、未発達な人のようにも思えてきて・・・以前のように憧れたり、羨んだり、ましてや尊敬したりと言った感情は湧いてこなくなりました・・・むしろ、己のない人に強く惹かれるようになってきました・・・

よく自分に自信がないから、グループの一員でいることに必死になるとか、誰かに支配されることで安心するとかってことがあると聞きますが、そういうことではないですよ。そういう人にも、ちゃんと守りたい自己というものがあって、それに拘っているからこそ、そうなっちやうわけですからね・・・ね。

で、なんの話でしたっけ・・・そう、自己への拘りが薄くなったとはいえ、花を飾るというような些細な日常の中で、相変わらず、自己中心的な発想でもって、自分を縛り付けて苦しくなっちゃってるなって・・・そういう話なんですが・・・

話しているうちに、つくづく、わたしって芸術家というか、創作者にはなれないなと実感しています。

かなり熱心な文学少女だった私が、わたしも小説を書きたいと思わなかったのは、思春期になっても自分にエロスの要素があまりにも希薄だと感じたからなんですよね。文学には、それをメインにするしないは別にしても、性的な感受性が重要だと感じていたので。それは役者さんという職業でも同じで・・・演劇は好きだったけど、エロスの感受性があまりにも希薄なわたしは、役者さんになっても決して大成しないだろうなと思っていました。

それは、他の全ての創作活動にも通じることではあると思うので・・・アーティストとかクリエイターだとかいうものには、決してなれないと、そう思っていました。だって、人間が分からないんですもの・・・人間にとって重要な愛とか恋とかの複雑な心の動き・・・機微って言うんですか・・・心の襞みたいなものが分からないんですもの・・・

ただ、わたしには強い自己への拘りがあり・・・何度も言ってきましたが、ずっと「究極的関心事は自分という存在」だっだわけで・・・そこは誰にも負けないという自負があったので・・・男女のあれやこれやの感情にほとんど興味が持てないから、小説家にも役者にもなれないけど、この自身への強い拘りから何かが生みだせるのではないかと・・・一縷の望みを抱いていたのですが・・・それすら手放してしまった今・・・いったい、わたしって、どうなってしまうのかなぁ~・・・・(^^;

まっ、いっか・・・ね・・・まっ、いっかですよ・・・いずれ、そこがどこであれ、どこかに流れ着くでしょう・・・