OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

バオバブは駆逐すべき?

2023-10-26 12:32:30 | Weblog
中学一年生の頃から今に至るまで、ずっと親しく付き合ってくれている友人が主催する「青空演劇・朗読くらぶ」の発表会に、ちょこっと参加することになりました。くらぶのメンバーではないのですが、彼女が講師をしている谷崎潤一郎記念館の朗読教室に参加しているご縁からです(^^)。でもって、サン・テグジュペリの『星の王子さま』を朗読する予定なのですが・・・それで改めて『星の王子さま』読んだときに、またまたふと思っちゃったんですよね~。毎度、きっかけである『星の王子さま』とは、ほとんど関係のないことですけど(^^;。

『星の王子さま』で有名なのは、やっぱり象を飲み込んだウワバミノの絵やバオバブの木の絵じゃないですか。本編を読破していない人でも、なんとなくこれらの絵は知っているんじゃないかなと思います。かくいう私も、そうなんですけどね(^^;。で、物語の中で、バオバブの木は、大きくなりすぎるので小さいうちに取り除いておかなければ、王子さまの小さな星は破壊されてしまうと言われているんですよね。もちろん、作者はバオバブそのものを悪い植物だと思っているのではなく、隠喩っていうのかな・・・よく言われるのは、第二次世界大戦の悪者である、ドイツとイタリアと日本を表しているみたいですね。でも、私は、そういうことはよく分からないので・・・単純に『強者生存』の否定みたいなことかなと思っていました。

ただね・・・ここからが、ふと思ったことなんですけど・・・というか・・・雑草が蔓延りまくりで、春にわたしが蒔いた種、植えた球根が、完全に覆い隠された我が家の無残なイングリッシュガーデン候補地とリンクしちゃって思ったことなんですけど・・・

強いことは罪なのかな・・・

誰が見ても美しい綺麗な花を咲かせるデリケートな植物たちは、細やかにお世話してやらないと育ちません。そんな彼&彼女たちを守るため、踏みつけても刈り取ってもまた伸びてくるような雑草連中は駆除しなければなりません。だって、そうしないと、繊細で美しいお花たちが伸び伸びと育てないのだから・・・

でも・・・

もちろん、強者生存でも、適者生存でも、それをただただ受け入れることには抵抗はあります。

弱いことは罪なのか・・・

困ってしまいます。どちらにも思うがまま自分らしく育ってほしい・・・無理なことなのでしょうか・・・

サン・テグジュペリ研究者のように、植物たちのことを人間の社会に置き換えて考えると・・・プーチンのウクライナ侵攻のこともこともありますし・・・どんどん領土を広げていく強い植物を放置することはいけないことに決まっていますよね・・・ほっておいたら絶滅してしまう弱い植物たちをほってはおけない・・・バオバブは小さいうちに摘み取り続けなくちゃいけない・・・

けど・・・

プーチンは止めたいけど、バオバブは・・・

だから、バオバブは隠喩であって、ほんもののバオバブじゃないって・・・

それは分かってるんだけど・・・

それで、我が家のイングリッシュガーデンはどうなるの?

そうそう、「青空演劇・朗読くらぶ」の発表会は、11月11日土曜日の午後3時半から、芦屋のルナホールにて。お近くにお住まいで、お暇な方は、どうぞお越しくださいましね(^^)。

思いがけず、昔を思い出す機会を得て、今更ながら、深く深く反省しています・・・

2023-10-24 16:16:16 | Weblog
副業でフリーのライターをしていた時、とある大手携帯キャリアが提供する観光情報サイトの取材を担当したことがある。

わたしのような個人で請負仕事をしているようなライターだと、発注元から取材先候補のリストを渡され、自分で取材依頼から始めることがほとんど。紙媒体の観光雑誌などだと、記事は添え物で、写真が重視されるため、プロのカメラマンさんと一緒に行動することになるが、たいていは写真も任される。

上記の観光サイトの記事の場合、携帯画面で見るものだということもあり、カメラマンさんは付けてもらえなかったが、そのかわり、その土地に詳しい案内役が手配されていた。アポ取りの必要もなく、まるで観光客のように案内してもらい、一対一で説明してもらい、それをメモして写真をとって、記事にしていた。地方によっては、昼食にと、地元の美味しい料理なども食べさせてもらった。わたしは近畿と中国地方の担当だったけど、楽しくて全国を回りたいものだと思ったものだった(^^;。

けど・・・

先日、テレビで美術系の番組を見たとき、見覚えのある美術館が紹介されていた。作られた意図、経緯などが詳しく説明されていた・・・胸が熱くなった・・・で、思った・・・わたしは、この美術館を、どんな風に記事にしたっけか・・・きっと、ちゃんと伝えられてなかった気がする・・・でも、だって、そんな思いがあったなんて知らなかったんだもん・・・説明、うけてないもん・・・ん?ほんとうにそうだろうか・・・ほんとうに、ちゃんと説明をうけてなかったのか・・・もしそうだとしても、記事を書く者であれば、自分で追加調査などして知っておくべきじゃなかったのか・・・

弁解するなら、この取材は、完全に地域自治体の広報さんに乗っかった取材で、あらかじめどこを取材するかなどは知らされてなかった。当日、広報さんが厳選した取材先を回っていくというやり方だった。だから、行く先々で歓迎してもらい、いつもの取材なら会わせてもらえないような人に話を聞かせてもらえたり、一般観光客なら入れないところも見せてもらえたりしたれど、事前に自分で情報収集するというようなことはできなかった。また、記事の納期もタイトで、たしか取材して数日で納品していたし、そもそも携帯で見る記事なので文字数も限られており、そんなにつっこんだ話は求められていなかったので、後からじっくり調べるというようなこともしなかった・・・

でもって・・・一度もクライアントからダメ出しはなかったし、ある自治体の観光課の方には、とても喜んでもらって、「参考にしてパンフレットを作ろうかと思っているけどいいか」と言ってもらえたりしたんだよ・・・

けど・・・今になって思う・・・恥ずかしい仕事ぶりだった・・・

他のクライアントの仕事などからも、十分に思い知っていた。掘り下げた記事など望まれていないと。限られた文字数で書くべきなのは、きっちりともれなく基本情報が伝わる記事。そこに、取材相手であれ、書き手であれ、だれかの思いを乗せている余地はない。文字通り、物理的余地はないのだ。

けど・・・この情報サイトの取材で出会った案内人の方たちは、みなさん地域への思いがとても強くて、自分たちの町の素晴らしさを多くの人に知ってほしいという熱意があった。それにちゃんと応えられていたかと思うと・・・今は、申し訳なさしかない。

それに、この地方自治体の取材では、ゆく先々で、案内人さんとは別に、それぞの専門家と言われる方たちに説明をしていただいて・・・もし、わたしが事前にちゃんと下調べをして、しっかりとした知識と興味をもって臨んでいたら、たとえ記事には出来なくても、もっともっとお話を聞かせてもらえたはずだと思う。専門家の方たちは、話しながら、わたしの勉強不足を感じ取っていたはずで・・・きっととても残念な思いをしながら、仕方なく付き合ってくださっていたと思う・・・恥ずかしいし、何より、なんて勿体ないことをしたんだと悔しい。

ライターの請負仕事をやめて何年もたつし、ライター時代のことはほとんど思い出すこともなかったけど・・・思いがけず、昔を思い出す機会を得て・・・今更ながら、深く深く反省しているのでありました・・・

真逆からたどり着く無の境地・・・なんて希望を持つのは哀しいぞ

2023-10-20 08:04:44 | Weblog
右足が、しびれた様な感じで痛くなった。よくあることで、原因は座った時の姿勢の悪さだと自覚している。なので、背筋を伸ばし、胡坐もどき(ちゃんとした胡坐はできない)をして、座禅ぽく時間をすごしてみる。

とね、意外にそれらしく、瞑想もどきの時間がやってくるんだけど・・・そのときに、ふと思いついて・・・認知症の人の頭の中を疑似体験できないだろうかとチャレンジしてみた。っていっても、そも認知症の人の頭の中なんて分からないんだけどね(^^;。

なんていうのか・・・認知症が進んだ人の状態って、認知症じゃない人からすると受け入れがたいものなんだと思うのね。だから、その両者が併存する認知症初期には、本人がとても苦しむ。それは確か。だから、認知症じゃない人の価値観からすると、それはとても苦しく悲しい、まったく幸せではない状態なんだと思う。けど、認知症が進行していくと、だんだん楽になっていく。拒否する自分がどんどんいなくなってしまうから・・・

その拒否する自分がいなくなってからの自分・・・認知症じゃない頃の自分が消えて、どっぷり認知症である自分・・・傍から見れば、食べて出して寝て、それ以外は何もないように見える・・・ほんとうに植物のようになっているのか・・・赤ちゃん返りとはよく言うけれど、生命の起源に逆進化していくような感じなのか・・・それとも、ずっと夢の中にいるような感じなのか・・・残念ながら、それはないだろうな・・・

悩んだり苦しんだりしなくなるのは救いだと思うけど・・・それは、悩んだり苦しんだりする能力を失ったからということなのか・・・どこか別の意識レベルのようなものがあるのか・・・それは"無の境地"とは別のモノなのか・・・真逆からたどり着く、同じ場所だったりするのかも・・・たぶん、違うと思うけど・・・

今、漠然と思ってしまう・・・死に至るような体の病に侵されるのは幸せだなと・・・認知症になる前に自死ではなく死ねるのは幸せだと・・・

けど、すごく痛いならそれも相当につらいな・・・病気で長く寝たきりということも大いにある、それは認知症よりつらいかも・・・ああ、全国に"ぽっくり寺"と呼ばれるお寺が多くあるのは、とてもよく分かることだと・・・

楽に生きるのは難しいことだけど・・・楽に死ぬというのも、ほんとうに難しいことのように思える・・・楽に生きたい、そして楽に死にたい・・・なんの志も気概もない怠け者のわたしは、日々をそう思いながら過ごしている・・・