OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

独り言

2023-09-27 14:33:14 | Weblog
こういうブログも自己顕示欲を満たすものだと思うけど、SNSもきっとそうだよね。ということは、ほんとうにたくさんの人が、自分を表したいと思っている。自分を知ってほしいと思っている。

けど、"知ってほしくない私"というのもあるんだよね。きっと、誰にだってあるんじゃないのかな。知ってほしいけど、何でもかんでも全部をさらけ出したいわけじゃない。となると、ちょっとズルいかな・・・

知る側の立場から考えると、本人が知ってほしいと思っていることには興味がなくて、知ってほしくないと思うようなことこそ知りたい?それって何故?他人の秘密は蜜の味?それとも真実の追及?どっちにしろ、知られる側には有り難くないことではあるね(^^;。

とはいっても、たいていの人は、他人が知ったところで大して面白い秘密もないと思う。でも、本人にとっては、知られたことが大きな痛手になる。それを考えると、他人が知られたくないと思っていることは、そっとしておいてあげるにこしたことないよね。

そうそう、"知ってほしい私"というのが、その人が思っている"本当の私"である場合と、"他者の期待に応える私"であったり"そうでありたい私"であったりもするよね。知る側は、それをどう受け止めたらいいのかな。わたしは勝手に、どれでもいいというスタンスでいるのがいいと思っているのね。"相手が見せたいと思っているものを見る"・・・よけいな詮索もしないし、よけいな思いも載せない・・・いい意味での"上っ面の関り"が好いんじゃないのかなってね。

でも、好きになるってことは、自分の思いがそこに載っていくことだからね・・・気に入っちゃうと、よけいな思い込み、思い入れ、しちゃうの、当たり前だしね・・・

それにしても、なぜ、人は、自分を知ってほしいと思うのかな・・・そんなに必要なこと?自分を他者に知ってもらうことって・・・ねっ(^^;。

えっと・・・ほんと、余談なんだけど・・・本人が"本当の自分"で"知ってほしい自分"だと思っているものが、どうもそうじゃないように見えること、時々あるよね。本人がそうだと言っているのに、他人が違うというのもなんだとは思うんだけど、どうしても「違うと思うんだけどなぁ~」って思うこと、ときどきあります(^^;。

アライグマに気に入られる我が家(^^;

2023-09-21 09:00:43 | Weblog
この春、我が家の天井裏で、アライグマさんが出産をした。ずいぶんと騒がしくて、こりゃ参ったなと思っていたけど、しばらくしたら一家で引っ越していったようで、ほっとしていた。それがまた、同じアライさん一家か、別の家族かわからないけど、我が家にやってきて、どうやら本格的に住み着くつもりみたいなのだ。大人しく暮らし、排せつを外でしてくれるなら、同居しても構わないと思うのだけど、喧嘩しているのかジャレ合っているのか、はたまたネズミなどを追っているのか、とにかく騒がしい。それに、我がボロ屋の雨漏り後の天井穴から、顔を覗かせたり、手を突き出してきたりするので、いつかうちのニャンコたちと出会って、うちの子たちを傷つけないかが心配でならない。私自身だって、突然天井から舞い降りてこられたらと考えると、正直こわい。

でも、思うのだ・・・きっと、我が家はアライさん一家にとって、居心地のいい家なんだろうなと・・・

我が家の在る地域、かつてはY村とよはれていたY町には6つの地区があって、そのうち北端の我らがN地区は最も貧しい地区で・・・ただ、そのおかげで、どこよりも早く区画整理をし、どこよりも開発に積極的で、外部の人の流入を歓迎したため、一番近代化(大げさだが)が進んだ。だから、N地区には古い家が、もうほとんどない。"地の人"と言われる古くから住んでいる人たちのお宅も、たいてい立派に今風の家に建て替えられている。我が家のような、良く言えば古民家的、悪く言えば時代遅れのボロ屋・・・隙間がいっぱいあって、野生動物さんたちの出入りが自由な建物は、なかなか見当たらない。

その、野生動物さんたちの楽園である我が家・・・人間にとっては、住みづらい・・・ところもある・・・が、わたしは嫌いじゃない。『百年名家』で紹介してもらえるほどの名建築ではないが、一番古いエリアは100年越えの古い建物で、大黒柱や梁は、今の建物では考えられないほど太くで立派だ。縁側の戸や網戸は今時みられない木枠だけど、今も歪みなく、当時の職人さんの技術の高さが偲ばれる。大きな板戸も、手の込んだ組子障子や、障子にはめられた山水の摺り模様のある硝子なども、とても好ましい。中二階はあるが、基本は平屋で階段を使わない暮らしはとても快適だ。

とはいえ、繰り返した改築増築部分が脆弱で、天井は雨漏りのせいでペコペコで、ところどころ穴も開いているし、壁も雨漏りのシミだらけで、あちこち剝がれかけている。床もペコペコで、ガムテープや壁紙材を張って罅割れ部分を補強しているが、いつかどこかを踏み抜いて怪我をしないか心配だ。きっと天井裏はカビだらけ、縁の下はシロアリに食い荒らされたりしてスカスカなのかもしれない。それでも、アライさん一家は気に入ってくれているし・・・わたしも、たまらなく気に入っているのだ。

もうそう長くない余生・・・いろいろ難を抱えていても、このままこの家で最後を迎えられたらと思う。まあ、体が動かなくなったり、認知症になったら、施設で最後を迎えるしかないとは思うが・・・自立して生活できる間は、ここで過ごせればと思う。雨漏りも、シミだらけの壁も、床が抜けそうなのもそのままでいいから(^^;。

ということは・・・アライさんたちや、イタチさんたちとも、共存していくべきなのかな・・・お互い、他にいくべき場所もないのなら・・・(^^;。

私の方が絶対に正しいから・・・

2023-09-20 10:22:41 | Weblog
病院で、看護師さんと話していたら、けっこう高齢者あるあるみたいなのだけど・・・母が、何かとすぐに「寒い」と言い出す。熱中症が警告される真夏にだ!

その傾向は以前からあったが、この春くらいからかなり酷くなっていて・・・朝起きて、様子を見にいったら、押し入れやら箪笥が泥棒がはいったみたいに荒らされ、本人は冬服を何枚も重ね着して寝ている、なんてことが何回もあった。もう、自力で歩くのも大変なくらいなのに、重い箪笥の引き出しは開けられるみたいなのだ。小さい引き出しなどは、引っ張り出されてベットの上や床に散らばっていたこともある。

だから、夏になり、熱中症が警告されるようになっても、クーラーのある部屋に移動させるのは躊躇っていた。元気なころからクーラーは嫌いだったし、絶対に嫌がってどんな行動をとるか分からない。だから、もっぱら扇風機に頼っていたのだけど、真夏となるとさすがにそれでは追いつかない。いろいろ悩んで、スポットクーラーなら寒くなりすぎず、ある程度の暑さは凌げるのではないかと考え、通販で購入して、窓から暑い風を排気するように設置した。

設定温度は28度。布団やシーツを取り換えるような作業をすると汗だくになる温度だが、部屋でじっとしている母には、これでも寒いようで・・・やっぱり何回かは、大嵐冬服祭りを発見する朝が何回かあった・・・

朝晩が、すこし涼しくなってきたこの頃では、もちろんスポットクーラーはしまい、扇風機も使わず、押し入れを引っ掻き回さないように、あらかじめ包まれる布団を渡している。信じられないが、夜はもちろん昼間も、その布団にすっぽり包まっている。どう考えても暑いだろうに・・・

この春夏、わたしは何回か、母を叱った。理解できないと分かっているが「熱中症で死にたいの?!」と、何度か怒鳴った。猛暑の中、何枚もの冬服に包まれてミノムシみたいになっている母を見た瞬間、思わず我慢できくなってしまうのだ。けど、すぐに"言っても無駄だ"と気づく。怒鳴ろうが懇願しようが、母はキョトンとしているだけなのだから。なにを言われているのか理解していないのだから。押し入れをや箪笥の引き出しを開けられないようにする・・・本人に、ダメな理由を理解させて止めさせるのは無理なのだから、させたくないのなら、できないように物理的に手をうっておく・・・その責任が、こちらにあるのだから・・・

でも、最近、ふと思うのだ・・・わたしは、自分の判断を微塵も疑っていないけど・・・だって猛暑日に寒いなんてありえないもの・・・けど、母は本当に、ものすごく寒いのかも・・・わたしに"常識に合った"服装をさせられるのは、我慢でしかないのかも・・・でも、文句が言えないから、こっそり自分で対処しようとしているだけなのかも・・・

母のため・・・判断力を失った母のため・・・ちゃんと判断できるわたしが全てを決める・・・母が自分で自分を傷つけないために、わたしが母を守っている・・・なのに母は、わたしに逆らって、愚かなことばかり繰り返す・・・まったくもう・・・

ふむ・・・

わたしは間違っていないと思う。たぶん、間違ってはいないと思う。でも・・・

もし、母の好きにさせて、母の健康に害があったら、それはもちろん母のせいじゃなく、わたしの"保護責任者遺棄"ってことになるわけで・・・

ふむ・・・

ふむ・・・

"思い"にエネルギーはあるか

2023-09-19 08:05:29 | Weblog
NHK番組「コスミックフロント」で、『相対論VS量子論 事象の地平線と"異次元のダンス"』の再放送をしていました。記憶力が絶望的に劣っていて、感動したはずの映画の筋すら忘れる奴ですが、この回は「確かに見た」とハッキリ覚えています(^^;。ほんとうに好みのテーマみたいです。だから、もしかしたら、今からお話しすること、前回見たときに、すでにお話しているかも・・・です(^^;。

内容は、ブラックホールの情報パラドックスについてで・・・正しく理解しているかどうか心もとないのですが・・・ホーキング博士が相対論の視点から"ブラックホールでは情報も消滅する"って仮説を発表して、でも"何かが形を変えるのではなく無になってしまうというのは量子論的にはあり得ない"ということで、両者が大いにぶつかり議論が白熱したけど、最終的には超弦理論でもって説明がついて、ホーキング博士は"情報はなくならない"と納得したと・・・そういう感じだと思います・・・いや、違うかもしれないけど・・・確認は、ご自分で調べてくださいね(爆)。

相対論も量子論も良く分かりませんが・・・他分野から常識を覆すような課題が出されるというのは、もやっとしたタブーというか、マナー違反というか・・・そんな感じだったのかなと思います。というか、他分野の研究者が、トップクラスの専門家すら悩ませる課題を提供できることが、まずありえないんでしょうが、そこはさすがホーキング博士というべきなんでしょうね(^^)。掟破りの大爆弾を投下して・・・結果的には論破されることになっても、その過程で繰り広げられた議論は、とんでもなく有意義で、飛躍的な前進を推し進めることができたわけですね。

なんてことが言いたいわけじゃなくて・・・そういうすごいハイレベルな話を聞きながら、それをちゃんと理解できない私の頭は、ふよふよふよと自分の程度にあった領域に舞い戻ってきて、ふと愚にもつかないことを思いだしたと・・・その愚にもつかないことのお話です(^^;。

何を思い出したかというと・・・十代二十代のころに考えていたこと・・・人の"思い"は科学的に認められる"エネルギー"とは異なるものなのだろうか・・・ということなんですが・・・

そも、"思い"って何なんだと。思っている人が亡くなったら、思いも消えてしまうのなら・・・亡くならなくても、その人が、そう思わなくなったら、消滅して跡形もなくなるのか・・・なら、量子力学的に、"思い"って存在しないものってことになりますよね(^^;。

誰かが"思い"を形にしたら、そのモノは残りますが、それはモノが残っているだけで"思い"が残っていることにはならない・・・

誰かの強い"思い"が、人(本人も含む)を突き動かすことはあるけど、それを"思い"のもつエネルギーと表現するのは文学的であって科学的ではないのか・・・

人が、怨霊だとか霊魂だとかを畏怖するのは、"思い"というものに対する"思い"があるからだと思うんですよね。我々人間という生き物は、"思い"というものを、とても重要視している証拠だと・・・それには、きっと、うまく説明できなくても、ちゃんと理由があるんじゃないでしょうか・・・

いったい"思い"とはなんなんだ・・・宿主である人がいなくなれば、消滅してあとかたもなくなるようなものなんだろうか・・・

相対論も量子論も理解できないレベルの脳の持ち主は、ブラックホールの情報パラドックスなんていう超ハイレベルのお話を聞きながら、こんなことを思案していたのでありました(^^;。


姉妹の絆

2023-09-07 07:52:31 | Weblog
毎日、母に、自分の名前を言わせる。「お名前はなんですか」。ちゃんと答えられるときもあるし、答えられないときもある。答えられた日には、わたしの名前も聞いてみる。顔を指さしながら「この人は誰ですか」。「ひ・・・」高い確率で「ひ」はでるが、ちゃんと答えられることは稀だ。もちろん、娘だという認識はない。「お子さんのお名前は」と聞くと「ない」と答えるし、「お孫さんのお名前は」と聞いても「ない」と答える。「旦那さんのお名前は」なんて、答えられた試しがない(^^;。

が、自分の名前が言えたときに、「お姉さんのお名前は」と聞くと「◇◇◇」と、ちゃんと答える。「妹さんのお名前は」と聞くと「△△△」と、これまたちゃんと正しく答える。でも「お兄さんのお名前は」と聞くと、沈黙してしまう。ちなみに、「お母さんのお名前は」と聞くと、答えるのだが、わたしがおばあちゃんの名前を正確に覚えてなくて・・・たしかそんな名前だったようなって感じです(^^;。で、お父さんの名前も答えられない。

つまり・・・母が一番最後まで名前を憶えているのは、自分の名前以外では、きっと姉と妹(もしかしたら母親も)だろうということです。溺愛してきた最愛の娘と孫たちの名前、その存在すら忘れても、姉と妹のことは覚えているのだなぁ~・・・・感心しました。

それはきっと、今に近い方から記憶がなくなっているからなんじゃないかと言われそうですが・・・たぶん、それもあると思いますが・・・兄の名前は答えられないことを考えると、やはり"姉妹の絆"が強いというのは間違いないのではないでしょうか。

一人っ子の私には、兄弟姉妹の情というのが、まったく理解できません。親子の情と、友情とだったら、やっぱり血縁だから親子の情に近いのかな・・・って、想像するくらいです。子供のころ、よく「一人だと寂しいね、兄弟、欲しいでしょ」って言われましたが、「いた人がいなくなれば寂しいだろうけど、もともといない人のことを思ったりはしない、変な質問をする人たちだ。きっと、兄弟姉妹がいることが、とても幸せな人たちなんだろうな。それで、一人っ子が可哀そうだと思うんだろうな」と思っていました。

ちなみに、母に「お姉さんのことが好きですか」と聞いたら「好きです」と答えました。「仲はよかったです」と、過去形で答えたのは、伯母がすでに他界していることを、漠然とでも覚えているのでしょうか・・・

姉妹関係に限らず、人間関係なんて千差万別。人の数だけ、その関わり方は違っているでしょうから、"姉妹の絆は何よりも強い"なんて言い切ることはできませんが・・・結婚してしまえば、冠婚葬祭で会う程度で、一緒に買い物したり旅行したりなんて時間を過ごすこともなく半世紀以上を過ごしていても・・・それでもやっぱり、姉妹の間には"何かがある"のかもなぁ~と思ったのでありました。