OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

遺書代わりに自伝を、なんて考えていたのは今は昔(^^;

2018-12-28 15:20:02 | Weblog
朝から雪です。積もってはいないけど、降ったりやんだり・・・ずっとです。MINI君のタイヤを、スタッドレスに交換しました(^^)。

ところで唐突ですが・・・ずっと以前から、もし病気などになって余命宣告されたら、その時は、自分の人生を文章にして残そうと思っていました・・・自伝というよりは、長い遺言という感覚ですね。

でも、今は、その頃の気持ちが完全になくなってしまいました。ブログでは、相変わらず、心の中を含めて個人情報だだ漏れで・・・身近な人の個人情報まで道連れにしてしまっているので・・・そんなお前が何言うとんねんって話ではあるんですが・・・改めて体系的に整えて残すことを意図して書くということは・・・やっぱりそれ相応の覚悟が必要ですよね・・・その覚悟がない・・・覚悟をすっ飛ばして勢いだけで書くとしたら、その勢いもない(^^;。

その一番の原因は、わたしの"自身への興味"、そして執着が消えてしまったからでしょうね。あれほど知りたかった"私"というものが、どんなものであれどうでもいいし・・・そもそも書き残すほどのものなんて何もないと思うし・・・ねっ(^^;。

そして、二つ目の大きな理由は・・・今の自分を形作った生い立ちを綴ると、どうしても両親のことも赤裸々に書かざるをえないわけだけど・・・それを唯一の読者と想定している裕太が読んだら、きっと気分の良いものじゃないだろうなと思うからです。もちろん、微笑ましいエピソードや、ステキなお話もたくさんありますが・・・100の好ましいエピソードが綴られていても、たった一つの聞きたくなかった話で、すべてが台無しになる気がするんですよね。なら、裕太が嬉しくないのが分かっていて、なぜ伝えるのかと・・・それは私個人の経験であって、息子であれ、裕太が知る必要のないことなんじゃないかと・・・ふむ。

プロの小説家さんたちなら、自分の体験を基にして、周りの人たちも傷つけず、読者を楽しませる読み物を創り上げることが出来るんだと思います。それがいわゆる私小説とか伝記的小説ってやつだと思うんですが・・・それは素人にはハードルが高すぎますよね。素人が手を出したら、きっと周りの人を傷つけずにはいられないでしょう・・・少なくても、わたしの書く力では・・・。

ずっと、藍那の為に何が出来るのかと考えていて・・・プロの小説家さんのように力はないけど、それでも他のことに比べれば書くのは得意な方だし、藍那のことを本にしてみるというのはどうかということを考えたこともありました。けど・・・親と言えど他人のわたしが、藍那の何がかけるだろうと・・・ほんとうの藍那が描けるのかと・・・藍那に納得してもらえるものが書ける自信があるのかと・・・自分に問えば問うほど、書けないなと・・・そもそも、書いてもいいかどうか本人に確かめられないわけですからね・・・

なら、幼い頃の藍那ちゃんをモデルにした童話を書くとかならどうだろう・・・とかも考えたんですが・・・ふむ。

そういう意味では、藍那の写真をUPしているブログはどうなんだと、迷わないこともなくて・・・でも、やっぱり、なんというか・・・藍那のことを書きたい、写真もUPしたいという気持ちもあるというのが正直なところで・・・決心がつかない宙ぶらりんなところで、止めもせず続けています・・・・

ん~・・・なんだろうなぁ~・・・自分のことを書くってこと・・・大切な人のことを書くってこと・・・よく分からないなぁ~・・・自分の気持ちが、よく分からないなぁ~・・・何がいいのが、よく分からないなぁ~・・・

濡れ衣(^^;

2018-12-27 15:27:51 | Weblog
少し前に気づいたんですが、脱衣所に設置している私のバスタオル掛けに掛けているバスタオルが、朝になると少し片側に寄っているんですよね。最初は、ニャンコが夜中にジャレてそうなっているのかなと思っていたんですが、毎日だし、どうも違うみたいで・・・ニャンコたちには「ごめんね、濡れ衣だったね」と謝りました(^^;。

単純に考えると、タオル掛けが傾いて取り付けられているんじゃないかということになるんですが・・・このタオル掛けは、我が家が六人家族になってから、わたしがホームセンターで部品を購入して自分で取り付けたものなんですよね。だからもう30年・・・今頃になって傾いてるんじゃないかなんて、気づくのが遅すぎると思いませんか・・・いったいどうしたことなんだろう・・・ほんと不思議です。

経年劣化で少しずつ家自体が歪んできている・・・阪神淡路大震災の時の影響が、その後も建物の老朽化と相まってジワジワジワジワ破損個所を悪化させているということもあるので・・・そういうことかなとも思うのですが・・・

もしかしたら、最初から歪んでいたのを、何十年も気にとめないでやってきて、今更気づいたって可能性もなくはなく・・・ある時急に、今まで在るのに見えなかったものが、パッと見えるようになる"気づき"って恐ろしいなぁって思いました。気づくことが恐ろしいのではなく、気づかないで当たり前みたいに過ごしていることが、きっと山のようにあるんだろうなということが、恐ろしく思えました。

けれど、だから暮らしていけるのかもしれません。なにもかもに気づいていたら、落ち着いて生活なんかできないかも・・・ですよね(^^;。

時代は変えるものなのか変わるものなのか

2018-12-26 11:53:05 | Weblog
居間に居たら、外から大きな音が聞こえてきます。なんだろうと窓越しに音のする方を見ても、それらしいものは何もありません。重い腰を上げ、家の中を移動して、あちこちの窓から外を見てみても、音はすれば姿は見えず・・・きっと、音があちこちに反響して、ここまで届いているんでしょうね。外に出て本気で探したら判明するでしょうが・・・そこのでの興味はなく、居間に戻って、またお尻に根を生やしました(^^;。

ところで・・・すごく漠然とした疑問なんですが・・・時代って、実は人が何もしなくても変わっていくものなんでしょうか。それともやっぱり、変えようと思う人たちがいなければ変わらないものなんでしょうか。

いつも思うのは・・・時代なんて大きな規模じゃなくても、個人レベルのことでも、時が満ちてなければ、どんなに努力しても次につながる変化は起こらない気がするってことなんですよね。ましてや、一人のカリスマの登場が歴史を変えるなんて、あり得るのかなと・・・

じゃあ、そのカリスマがいなかったとしても、やっぱり時代は代わっていくのか・・・別のカリスマをキャスティングして・・・あるいは別のフォーマットで・・・変化を促していくものなのか・・・

変化が起こる時、変化の波を増幅させていく人々の力って、絶対に必要だとは思うんですが・・・その変化の核にあるのは、特定の人間の意志なのか・・・人間以外の何かに促されて人間たちが猛然と動き出しているのか・・・

ここで、また一気に、ものすごく身近なところに戻って・・・我が事として変化と言うものを考えたとき・・・経験的に思うのは、やっぱり・・・動くときは動くけど、動かない時は動かない・・・ってことなんですよね。どんなに変化を望んで、それにむかっていろいろ動いてみても、動かない時は動かない・・・結局は一人相撲になってしまって形にできない。でも動き始めて、それにちゃんと乗っかれば、するすると驚くほどスムーズに動き出す・・・。

ただ・・・動きたくないのに動き出して、望まないところに連れていかれる流れもあれば・・・急いで乗っからなければ、取り残される流れもあって・・・変化の流れというのも一様ではないのがヤヤコシイところなのだけど・・・。

でもって、その変化の流れも、山奥の源流のようにちょろちょろ始まり、後になってみれば「あの時が」って気づく密やかなものもあれば、土石流のように突然すべてを薙ぎ倒し流し去ってしまうようなものもあり・・・たぶん、後者の流れは、それ自体に何も生み出す力はなく、その後にどうするかによってその後の景色は違ってくるのだろうな・・・

わたしの個人的な変化に関しては・・・少し前にあった土石流の跡地で、未だ立ち尽くしているような状態で・・・復興しなければという思いはあるけど、心から復興に向かって歩き出そうというところまで至っていないのだろうな・・・

また話が混乱しています・・・歴史の話がしたいのか、自分の心持ちのことを話しているのか・・・ぐちゃぐちゃですね・・・まっ、いっか・・・それこそが、わたしの脳内そのものです(^^;。

安物買いの銭失い

2018-12-25 07:56:09 | Weblog
少し前ですが、長年使っていた掃除機が壊れました。使い終わりに少し焦げ臭いような匂いがしてるなぁ~と思ったのですが、そのまま片付けて、次に出して使おうとしたらウンともスンとも言わなくて・・・ああ~、やっぱり壊れたなと(^^;。

それで、新しい掃除機を買ったわけですが、コードレスでサイクロン式のものにしました。高いものではないけど、ネットの評判などをみたら、そんなに悪く言われていなかったので、十分だろうと判断しました。家自体が古いですしねぇ~、猫たちもいますしねぇ~、チリ一つない空間なんかハナから期待してませんし・・・手軽に使えるっていうのが一番嬉しいと思って(^^;。

とね・・・あっというまに使えなくなりました。私の長い髪が絡まってローラーっていうんですか?ヘッドのところでクルクルまわっているのがスグに回らなくなるんです。その度にローラーをはずして、絡まった髪を取り除いて、掃除を再開するんですが、また回らなくなる。そしてついに、ローラーの掃除をしても回らなくなってしまいました。
紙パック式より手軽だと思ったサイクロン式も、むしろ手間がかかりましたし・・・こりゃあ、まったくもって、安物買いの銭失いをしてしまったなと思いました。

それで今度は・・・今度も価格的には高くないんですが、紙パック式で、コードありで、音が多少大きくてもいいから吸引力が高いものを選びました。すると・・・いや~、快適快適っ!!これなら掃除機でのお掃除が苦にならないですよっ!!なんでもっと早く出会えなかったのかと、抱きしめて頬ずりしたくなりました(爆)。

買い物上手な人って、経験をつんでそうなったんですかね・・・それとも、これもセンスですかね。わたしがファッションセンスがないというお話をしましたが・・・ファッションセンスのある人って、安いものでも古着でも、オシャレに着こなしますよね・・・でも、わたしのようにセンスのない者が、それを真似すると、必ず大やけどです(涙)。お料理なんかもそうですよね・・・料理センスのある人って、これとこれを組み合わせたらこういう味になるだろうっていうのがイメージできるんですよねぇ~・・・でも、センスのないものがチャレンジすると、たいていとんでもないものを作っちゃう。そうそう、経営センスもそうですよ・・・経営センスのある人は、けっこうギリギリのところを攻めてお金を稼ぎますが、普通の人間がそれを真似するととんでもないことになる・・・センスがないものは大儲けなど考えずに堅実にすべきことをするのが一番なんですよね(^^;。

っと、なんの話でしたっけ・・・掃除機が壊れたって話でしたね(^^;。掃除機に限らず、なんで今までこんなに我慢してたんだろう・・・新しくて良いものに変えたら、こんなにも快適で、こんなにも幸せな気分になるんだぁ~・・・なんでもっと早く、新しくしなかったんだろうと思うことは少なくありませんが・・・今回のように、節約しようと思って、ワンクッション、安物買いの銭失いを挟んでしまうことも少なくない・・・というお話でした(^^;

自分を支配したら、それは自由になったってことなのか・・・

2018-12-13 18:11:02 | Weblog
他人を自分の思うように振る舞わせる・・・それって、支配するってことですよね。じゃあ、他人じゃなく、自分を自分の思うように振る舞わせる・・・自分を支配するってことは・・・ふむ。

あんがい、自分を自由って状態に置いてやると、自分が思わない振る舞いをするかもしれない・・・なんてこと、ないですかね(^^;。

手が嫌がる漢字(^^;

2018-12-07 14:03:44 | Weblog
以前、どこかで「刈」とか「炒」など、いくつかの漢字を、すぐに書き損じてしまう話をしたように思います。「刈」の場合だと注意して書かないと「メ」の部分を無意識にケモノヘンにしてしまうし、「炒」は、ヒヘンが思いつかず、チャーハンは火で調理するからヒヘンだと頭の中で辿って捻りだします。薔薇だとか髑髏だとか、誰が見ても難しい漢字ならともかく、なぜ書きづらい漢字があるのか、何が原因で書きづらいのか、分からなくて戸惑います。

で、最近、書きづらさを実感しているのが「叫」という漢字です。映像ではしっかり見えているのに、手が長短二本の縦線を描くときゴニョゴニョ迷って変な字になってしまったりします。ほんと、これってどうしてなんでしょうね。誰にでも、自分なりの苦手な漢字があるんでしょうか。それとも誰もが苦手とする漢字があるのか・・・ふむ。

今日の話は・・・というより、今日の話も、ですが、結論はありません(^^;。ただ、不思議だな、どうしてなんだろうってだけの話です(^^;。

ただ・・・音楽で、この音が来たら、次はこういくんだろうなって、無意識に予想している候補音がいくつかあって、それから外れた音が来ると、若干居心地悪く感じるって話をしたことがあるんですが・・・今回の話の漢字も、それと似たようなことなのかなとは思っています。経験的に、こうきたらこういくみたいなことを手が覚えていて、それとは違うレアケースに出会うと、反射的に動く手と、冷静に判断している脳の間で、えっ?なになに?みたいな混乱が起こるのかなと。だから、苦手な漢字でも、書きなれてくると、なんで書きづらかったのかわからないほどスムーズに書けるようになる・・・のかな、とか。

まったくもって、だからどうなの?って話なんですが・・・書こうとした文字が上手く書けずふにゃふにゃってなるたびに、不思議だなって思っていたので、ちょっと呟いてみました(^^;。

真っ白な紙も、罫線のある紙も、どっちも面白い(^^)

2018-12-06 17:12:51 | Weblog
この七年、毎朝かかさず続けていることがあります。そのために、旅行なども極力避けて・・・どうしても出かけなければならなかった時には一泊にさせてもらい、出発の日には出掛ける前の早朝に、次の日はさすがに朝は無理なので帰ってきてから夜に・・・だから、正確に言うと毎朝必ずではなく、毎日必ずってことになりますが・・・まあ、そう、続けていることがあります。

いえいえ全然大層なことではないんですよ。一つは、藍那と母と自分のために珈琲を淹れること(日曜日は夫にも、裕太の帰省中には裕太にも淹れますよ、もちろん(^^))。もう一つは、藍那に向けての思いを、藍那にプレゼントした万年筆で、走り書き程度にちょこっと紙に書くことです。この走り書き、最初の頃はなんやかんやと愚にもつかないことを書いてましたが・・・愚にもつかないのはそのままに、次第に内容が安定してきたというか固定してきたというか・・・最近は、ずっと同じ文言を毎日書いています。もはやメッセージというより写経的な感じですが・・・不思議と落ち着くというか・・・意味はないと分かっていても、何かした気になれているんでしょうね(^^;。

で、そのメッセージを書く紙なんですが・・・そこはそんなに気をつかっていなくて・・・ほとんど在りもので済ませているんですが・・・ずっと真っ白な紙だったのが、ここしばらく罫のある紙を使っています。とね・・・あたりまえですが、きっちりと真っ直ぐに書けるんですよ・・・罫がありますから(^^;。で・・・当たり前のことなんですが・・・無性にスゴイな罫があるってって感心している自分がいます。

なんていうのかな・・・我が家は罫のない紙を評価するような家庭だったんですよ、ずっと。要するに、個性とか自由とか、そういうものに重きを置くというか・・・そういうものを評価する傾向が強いんですよね・・・

で、それが、ずっと藍那を苦しめていた。家族はみんな、真っ白な罫のないノートのような心をもっていて、伸び伸びと自信たっぷりに生きているのに、自分はなんて平凡でつまらないんだって・・・それをコンプレックスに感じてた。でも、大學を卒業し・・・思いっきり悩んだ暗黒時代を経て・・・案外、自分の心にも真っ白なノートがあるって気づいて・・・そこに好きなものを描いていこうという気持ちになっていたんですよね・・・

その頃、よく話していたのは・・・藍那には真っ白なノートの心と、罫線のあるノートの心と両方がある・・・それはものすごく面白いこと、何かしようという時の武器になる・・・真っ白オンリーの天才芸術家の様なタイプの人たちのすることはできないかもしれないけど、真っ白なページも罫線のページも両方あるからこそ分かること出来ることがいっぱいあるはずで・・・それはきっと自分だけでなく他の人とも繋がれる、他の人と他の人を繋ぐことができる、そんな資質なんだと思うって・・・

もちろん、その頃にノートの例えはしていませんよ。その頃は、罫線のあるノートが使いやすいなぁ~なんて風に感じて立ち止まったことないですからね(^^;。でも、まあ、意味はそういうこと、よく話してました・・・はい。

ん・・・何の話だっけかな・・・そうそう・・・罫線のある紙も、真っ白な紙も、それぞれ良さがあるねってことです。その時の気分、使う用途・・・上手く使い分けられたら、面白さが広がりますね(^^)。

レンジ君の隠れた病が判明しました

2018-12-05 14:03:54 | Weblog
少し前のことなんですが、レンジ君が故障しました。車検から一ヵ月で、オイオイって感じではありますが・・・古い型の外国車にのっている人にとっては、あるあると言っていいかもしれません。

我が家のレンジ君は、セカンドと分類されるタイプで・・・中古で購入しました。新車のレンジローバーは、我が家の経済状況で手に入る価格ではないわけですが・・・本気でレンジローバーが欲しいと思い、購入を考えたときには、セカンドの生産は終わっていて、サードの販売が開始されていました。サードでも初期のものは、なんとか許容できるデザインであったように記憶していますが・・・根源的な価格の問題がドォ~んと立ちふさがるので、本当に好きなセカンドを中古で買うことを選択しました。そうですね~・・・一般的な(高級車ではない)国産乗用車くらいの価格だったと記憶しています・・・頑張りました(^^;。

購入先は、神戸にあるレンジローバーの中古車を専門に扱うオシャレな会社でした。若い人たちが中心に経営している会社なようで・・・この人たちもレンジ君が大好きなんだなっ!!って頼もしく思いました。でも・・・いざ乗り始めたら、次々に不具合がでて・・・ついに何回かの修理に出した時、預けたレンジ君ごと、連中は姿を消してしまいました。修理に出して持ち逃げされた場合、保険会社は介入してくれず、出来ることは警察に被害届を出すことだけでした。神戸のあそこで見かけた人がいる・・・なんて目撃情報だけを聞かされて、何度かその地域を探して回ったりもしたのですが見つからず・・・諦めていたところ犯人が逮捕され、レンジ君は戻ってきました。奇跡的なことだと言われました。ほとんどの場合、こういったケースで被害者は泣き寝入りなんだそうです。レンジ君には、乗り回された跡(大勢で遠出を楽しんだような雑誌や小物や食べ物カスなどが車内に放置されていました)があったので・・・他の車は処分されたのかもしれないけど、うちのレンジ君だけは犯人たちが手放さず自分たちで使っていたんですね・・・すっごく悔しいけど、それで無事に戻ってくることが出来たのかと思うと・・・レンジ君、偉かったね、よく頑張ったね、と褒めてやりました。でも、連中は、修理依頼個所を修理せず乗り回していたんだすよね・・・せめてそれくらい直しておけよっ!!いっそう腹がたちました。

その後は、レンジローバーの正規ディーラーで車検も修理もしてもらうことにしました。幸い、藍那のMINI君を購入したディーラーさんが、MINIとレンジローバーの両方の正規ディーラーさんだったので、事情を話してお世話になることにしました。

で、さすが正規ディーラーさん・・・故障するたびに、ちゃんと直して戻してくださって・・・レンジ君は、相変わらず定期的に故障はするけれど、故障の度に状態は良くなっていくように感じていました。けど・・・一点だけ、どうもも不具合の原因がよく分からないところがあったんですよね。バッテリーがすぐにダメになるというか・・・バッテリーを新しくしたのに、何ヵ月か後にはバッテリーが不具合を起こす。バッテリーの検査をしても悪くないのに・・・何でだろう何でだろう・・・そういうことがずっと続いていました。

で、このディーラーさんがレンジローバーの正規ディーラーでなくなり、紹介された別の正規ディーラーさんで診てもらうようになっても、やっぱりこのバッテリーの不安は続いていたのですが・・・今回の故障で、ついに原因が判明しました。バッテリーではなく発電機がダメだったみたいなんです。今までは、ちょっとずつダメになっていく途中だったために、バッテリーにしか注意が剥けられなかったけど、ついにとことんダメになって発電機だということが判明したんでしょうね・・・ああ、また一つ、レンジ君の体調が整いましたっ!!

新車で買った方なら、ここが悪くなった、ここも悪くなったと、不具合の度に不満に感じられるでしょうが、最悪の業者から購入して、いろいろ病気を抱えているのに直してもらえてないところからの出発ですから、悪いところが表に出る度、一つ一つ直していって、どんどん体調が整っていくじゃないかっ!!という喜びの方が勝りますっ!!中古で購入したオーナーの心理的メリットでしょうかね。不便もありますし、お金もかかってしまいますけど・・・可愛いレンジ君が、どんどん健康になっていくのが、今はとっても嬉しいです(^^)。

とね・・・思ったんですよね・・・人間の病気も同じだよなって。専門家(人間の場合はお医者さん)だって見えないこと、分からないこと、いっぱいあって当たり前だよねって。人間の場合は、命に関わることもあるので、ついついお医者さんのことを恨んだり責めたりしちゃうこともあると思いますが・・・いや~、大変ですよ、悪いところを見つけるのって。

お医者さんに限らず、われわれは専門家なら何でも分かって当然、なんでもできて当然と思っちゃいますよね。とくに、出来る専門家が一人でもいれば、出来ない人は皆ダメだって思っちゃいますよね。でも・・・なかなか分からないこと、いっぱいありますよ・・・できないこともいっぱいありますよ・・・間違いだってありますよ・・・それはもう人間だもの。

してもらえなかったことを責めるより、してもらえたことを感謝できるといいんですけど・・・まあ、大切なものが関わってくると、なかなかそうは思えなくなりますけどね。

人の感情が複雑になるのは進化というより拗らせてるって感じじゃない?

2018-12-03 09:49:23 | Weblog
頭の良い人に憧れます。全般的な良さはもちろんですが、今言っているのは勉強が出来る系の頭の良さです。特に理系のお勉強ができるタイプの頭の良さです。自分で言うのもなんですが、そこそこお勉強は得意です・・・というかでした(^^;。でも、中途半端なんですよね・・・それを自慢できるほどには良くないし、ましてやそれで身をたてるなんてとんでもない話です(涙)。

で、なぜ理系のお勉強が得意な人に憧れるかというと・・・そういう人たちは森羅万象のHOWを突き止めるからです。宇宙の成り立ちとか、生命の有り様とか・・・とんでもなくミクロなことから、どんでもなくマクロなことまで・・・なんでそんなことが分かるんだっ!!ってことを突き止めて、わたしたちに教えてくれるからです。すごいなぁ~、すごいなぁ~、かなわないなぁ~・・・憧れざるをえません(^^)。

ただ・・・ときどき語ってしまっていますが・・・わたしが本当に問わずにはいられないのは、HOWではなくWHYです。どのように宇宙は生まれたのかではなく、なぜ宇宙は生まれたのか・・・どのように命は生まれたのかではなく、なぜ命が生まれたのか・・・

それを問い、答えを提示した先人たちは沢山います。いわゆる文系のスゴイ人たちです。哲学者、神学者、一部の文学者たちも・・・。でもなぁ・・・それって・・・いくらそれらしくはあっても、ほんとうにそうだという確信を持たせてくれるものじゃないんだよなぁ~・・・そけが文系の悲しさであり・・・まあ面白さでもあるなだけど・・・

中でも、意志と言うものに注目し、神と言うものを生み出した人たちには、ほんとうに感心します。何かが望んだから生まれた・・・理性は納得しなくても、感情がたまらなく納得したがる発想ですっ!!神という形は、自分たち人間の枠から外には出られなかったんだねっていう限界を感じるけど、だからこそ人間の間で広く深く受け入れられたわけで・・・これまた人の心理の核を掴んだ発想だなって思います。そもそもこの問い自体が、人の心が渇望するものだから、人の心に沿った回答というのは、正しい正しくないの前に、適切なんですよね、うん。

というような話は、今まで何度かしてきたと思うのですが・・・今回は、もう少し身近な"感情は何故生まれたんだろう"ってことに引っかかってもがいてます。

感情って命とセットで生まれたのではなく、もっともっと後から引っ付いてくるようになってものですよね。人間以外の生き物にもあるみたいだけど・・・人間のそれはかなり複雑で厄介。この厄介なほど複雑な感情って、なんで生まれたんでしょう・・・WHYもだけど、HOWも知りたいですよね、ほんと。

人間以外の生き物の感情を見ていると、いわゆる種の保存的なことなのかなと思えます。次の世代をちゃんと産み育て、生き残らせるために"愛"というものが生まれたのかな。色んな危険を察知し、食料やよりよい環境を確保するために向上心的なものが備わったのかなと。

けど・・・そういう感情が進化したと言っていいのか・・・愛は、嫉妬や独占欲やなんやかんやとウットオシイものを次から次へと吐き出しはじめ・・・向上心的なものも、劣等感とか差別とか権謀術数を巡らせて他者蹴落として快感を得るような反吐がでるような感情にどんどん変形していくし・・・いや~、この複雑化は、絶対に進化ではなく、拗れとか、灰汁だとか・・・そんな良くない方向へ展開が進んでいっているんじゃないのかな・・・

悪いものが生まれたら、その分、良い方の新しい感情も生まれている気はするので・・・それが希望の光ではあるけど・・・人類が滅びるとしたら、それはきっと、感情がらみのような気はするなぁ・・・ねっ。