OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

心を掴む作品ほど、イメージを固定化させるんだよね・・・

2021-09-24 13:49:25 | Weblog
若い頃はね(←最近、こればっかり)、人に影響を与えられるような人間になりたかったのね。すごく世俗的な言い方をすれば、大物ってことなのかな(^^;。本人としてはものすごく純粋に、かつ真剣に・・・世界を救う人っていうのかな・・・世の中の悪いところを治して善い方に導ける人間にね、なりたいと思っていたの・・・すげえ夢だ(^^;。

少しは成長し、世の中の複雑さとか、何よりも自分の器ってものが分かってきても、自分なりに何か人に影響を与えられるようなことが出来るといいなってね・・・そういう思いは捨てきれなかった。まっ、自己意識がめちゃくちゃ強いからね・・・なかなか"我が我が"って気持ちは捨てられないのよ(^^;。

あっ、それから思春期に、ずっとお芝居(演じる方)に夢中だった経験も大きいかな。舞台で演じながら、自分を見つめてくれる人たちの視線を感じる・・・そして、自分の創りだす感情と見る人の感情が共振した時の感動・・・あの体験したら、自己顕示欲とはまったく別の部分で、"人に働きかける作業"の魅力に取りつかれても仕方ないと思うんだよね(^^;。

まっ、大人な言い方をしたら、人に影響を与えない人も、人に影響を受けない人もいないんだから、一人ひとりがそれぞれの場所で誠実に生きていたら、誰もが人に好い影響を与える人になれるし、わたしの子どもの頃の壮大な夢、世界を救う人にだってなっているわけだけど・・・まあ、そういう立派すぎる理屈はおいておいておきましょう(^^;。

で、結局、何がいいたいのかというと・・・"人に影響を与える"にも色々あるけど、創作作品で人に感動を与えるってのが、カッコよくて素敵だなと、憧れるなと、そう思うわけです(^^;。で、創作作品っていうのは、絵でも音楽でも文章でも、共通するのは・・・イメージを形に出来てるっていうのが凄いんですよね。元になるものを捉えるセンス、それを形にする技術・・・ああ~、ほんとスゴイっ!!憧れますっ!!!

イメージという本来形のないものが形になると、それを他者と共有することができる・・・すると、そこから新たに生み出されるものがたくさんある・・・ん~・・・ほんと、凄すぎます・・・

ただね・・・そうやって形になり共感を得て定着化したイメージって、次は矮小化に向かい、偏見そして疎外に向かうことになりがちですよね。大勢の人に支持された"形になったイメージ"は、それ以外の姿を拒否しがちというか・・・

いやいやいやいや、イメージを形にすることを否定する気持ちは、これっぽっちも、ほんとこれっぽっちもないんですよ。ただ受け手として、どんなに絶対的に感じられるイメージに対しても、それに固執しないでいたいなっていうか・・・共感や共有は、全部じゃなくて一部にしておくのがいいよねって思うというか・・・

うまく言えないんですけど・・・程よく他者と重なり合い、ほどよく孤独な感性をもちたいなと・・・そんな感じですかね・・・ん?タイトルから随分ズレてるって?いつものことです(^^;。

感じるにも考えるにもエネルギーが必要

2021-09-21 15:59:49 | Weblog
老いた母と暮らしていて、自分の老後の暮らし方に選択肢はあるのだろうか、と考えてしまう。今の私の年齢は「加齢で失うものは多いけど、まだまだ得てきたものも多いじゃないか」と自分を慰められるギリギリのところではないかと思う。もう少しすると、あまりにも急激に、得たはずのものすら奪われていく。その時に「自分の生き方」なんてものを考えられるだろうか・・・正直言って無理だ・・・残念ながら無理だとしか言えない・・・それはもう、気力とか意志とかそんなことでどうにかなるレベルの問題じゃないんだ・・・否応なしに、自分が自分だと思っていたものが押し流されて消えていってしまうのだから・・・

いやいや、今でもずいぶん、自分が自分だと思っていたものがどこかに行ってしまったなぁ~・・・それが一時的なものなのか、もう戻らないものなのか分からないけど・・・後者だとしたら、ほんと、これから私は、どうしていけばいいのだろうと思う・・・思ってもどうしようもないのだけど・・・どう折り合いをつけて受け入れていけばいいのか・・・受け入れられるだろうか・・・

基本的に、容姿の美しさにはそれほど拘りはないので、白髪が増えただ、皺が増えただ、頬が垂れてブルドックになってきただ、そういうことは・・・もちろん残念で悲しくはあるけど・・・比較的簡単に仕方ないと受け入れている(^^;。問題は、感じる力、考える力の衰えだ・・・

感じること、考えること、なんて言うのは、呼吸と一緒で、だれもが当たり前にしていること、というか生きるとイコールで、自動的にしていることだと思っていた。でも違うんだなぁ~・・・近頃は、感じること、考えることが、とても多くのエネルギーを消費しながら成り立っていることなんだと感じる。でもって、そのエネルギーが、わたしにはあまり残っていないとも感じている。何かを考えると、文字通りの息切れをおこしてしまうんだもの(涙)。

でも・・・それなしの老後って・・・感じることも考えることもできないで生きるって・・・悩ましいなぁ~・・・

永遠の否定・・・でも終焉への恐怖

2021-09-13 16:00:16 | Weblog
まったくの余談ですが、最近、カラスを見かけません。一時は、あっちでもこっちでもカアカアと五月蠅く鳴いて、週に二回の燃えるごみの収集日の朝には、ゴミステーションを荒らして大変だったカラスたちが、どこかに行ってしまいました。カラスが消えると地震が起こるなんていうのを、そのまま信じてはいませんが・・・いつもいたものが居ないと、なんだか落ち着かないものですね。荒らされた生ごみを掃除する手間が省けるのは、とっても嬉しいことなんですが・・・

ところで・・・"永遠"って基本、肯定的なイメージをもつ言葉ですよね。"永遠の愛"なんていうと、この世で最も尊いもののように感じます(^^)。けど、八百比丘尼の悲劇のように、自分の周りの大切な人たちがどんどん亡くなっていくのに自分だけが老いもせず死にもしない。新しく関係を築いても、その人たちもまたいずれはいなくなってしまう。自分はいつも見送るしか出来ることがない。権力者が"永遠の命"を得るために秘薬を求めたなんて話はよく聞きますが、実際に"永遠の命"を手に入れても、いいことなんか何もない、むしろ最も非情な地獄の始まりだよ・・・今は、そう考えるのが一般的なんじゃないでしょうか。

けど・・・地球の未来とか、太陽系の終わりとか、宇宙の終焉とか・・・そういうことを思う時、何故か"終わり"ってことが、とても恐ろしく感じられるんですよね。いやいや、ぜんぜん現実的じゃないですよ。少なくても、わたしが生きている間に宇宙が終わりを迎えることはない、わたしの子どもたち、孫やひ孫の世代になったとしても、まだまだありえないことですよ、宇宙の終わりなんて。でも、そんな信じられないほど先の"終わり"ってことに、なぜか言い様のない不安を感じるんですよね・・・これって、いったいどういうことなんでしょうか・・・我ながら、不思議で仕方ありません・・・・(^^;。