OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

「らしさ」の出所

2006-09-30 13:20:41 | Weblog
夏といえば、生命力がスパークしているようなイメージだけれど、動物にしても植物にしても、命あるものたちの様子は、必ずしも元気溌剌ってこともない・・・むしろ、夏枯れの様相だったりする(^^;。

要するに、夏の暑さは、生き物にとって、冬の寒さに負けず劣らず過酷だってことかな。ずっと暑い熱帯地方の動植物は多様で豊富みたいだから、暑さに罪があるわけじゃないのだろうけど・・・四季のある地域の命は、春や秋といった程よい気候を好むんだろうね。

そう・・・そうなの・・・秋も、春に劣らず、けっこう命が元気な季節なんだよね。季節イメージとしては、春の緑に対して秋は茶色だったり、春の新芽に対して、秋は落ち葉だったり、必ずしも活気があるとは言いがたい淋しいものばかりだけど、実際には秋って「実がなる時」だし、春以上に生命力に満ち溢れた季節なんだよね。

とはいっても・・・何故か、春的な生命の息吹を、秋に感じるのを嫌だと思っている自分がいる。たとえば、デジカメをもって散歩にでかけ、花の写真を撮る時に、プランターで咲き誇っている、鮮やかで色とりどりな大輪の花を避けてしまう。理由は、色鮮やかな花は「秋らしくない」からだ。秋には、秋らしい風情が欲しい。それ以外のイメージは、いらないと拒否している。実際に、今咲いているのに、それが春っぽい花や、夏っぽい花だと、見ないことにしてしまう。秋なんだから、あくまでも「秋らしくなきゃ駄目」と、思っている。

でも、じゃぁ、秋らしいって何なんだよってことになるよね。「女は女らしくしろ」なんて言われたりしたら、ものすごい形相で「わたしはわたし。勝手なイメージを押し付けないでっ!!」なんて怒り狂うくせに、せっかく咲いている花に対して「秋らしくないから駄目」って何なんだよ!!ってことになるよね。

今、旬な安倍さん談義でいくなら「日本人らしい」ってことも、何だろうってことだよね。着物着て、ちょんまげ結って、天婦羅と刺身食って、何かあったら腹切りすれば日本人らしいのかよってことだしね。

「らしさ」って、けっこう大切だなとは思ったんだけど・・・本当に大事なのは「らしさ」の出所なんだと思う。どんな土壌が「らしい」と感じられるものたちを産出し、全体的な「○○のイメージ」を形作ったのか・・・出来上がった形より、それを産んだ土壌が、ほんとうの「らしさ」の在り場所なんじゃないかな。それを見ることが出来たら、押しつけにならない「らしさ」が分かるんだろうな。

始まりか、終わりか

2006-09-29 19:52:19 | Weblog
道を歩いている時に・・・あるいは、車で走っている時でも・・・突然、どこかの家の部屋の明かりが消える瞬間を目撃することがある。何故か、とても淋しい気分になる。我が家の明かりではないのに、帰る場所を失ったみたいな、寂しさを感じる。

けれど・・・ふと思う。電灯が消えた瞬間は、何かの終わりとは限らないのではないかと。もしかしたら、何かの始まりかもしれない。

台所で片づけを終えたお母さんが、家族の待つ居間に戻っていくために、台所の電灯を消す・・・電灯が消えた瞬間は、家族団らんの始まりだ。久しぶりに、夫婦で外食する為に、身支度を終えた奥さんが、寝室の電灯を消す・・・電灯が消えた瞬間は、ご夫婦のデートの始まりだ。
宿題を終え、勉強机の電灯を消す・・・電灯が消えた瞬間から、彼の、あるいは彼女の、自由な時間が始まる。

だとすると・・・そっか・・・電灯が消えるって、そんなに淋しいことでもないのだ。なら、これから、どこかのお宅の明かりが消えるのを目撃したら、きっとこれから何か楽しいことが始まるのだと思おう。これで、もう淋しくなくなるぞ(^^)。

虎の威を借る狐の多いこと

2006-09-28 17:39:18 | Weblog
昨日の話題のおかげで、今までにあった色んなことを次々に思い出したのですが・・・世に、虎の威を借る狐さんは、うようよ居ますよねぇ~~。

たとえば、「芸能人、急に親戚が増え」なんていう可愛らしいのも、厳しく言うと、一種の「虎の威借り」ですよね。でも、まぁ、わたしなんかも、一・二回一緒に飲んだ程度の人のことを、都合よくネタにさせてもらうこともあり・・・そうすると、その話を聞いた人は、わたしとその人がかなり親しいと思い込むことが多いけど、面倒くさいのであえて訂正もせず、なんてこともしますし・・・この程度は見逃してもらえると嬉しいですな(爆)。

また、女性によくあるのは、ダンナさんや子どもさんが、大きな会社に勤めてらっしゃったり、有名大学を卒業されていたり、たくさんのお金を稼いでらっしゃると、まるでご自分の手柄のように自慢するというのも、やっぱり「虎の威借り」ケースですよね。もちろん、妻として母として、功績がないわけじゃないですけど、せっかくの功労も、自分から威張っちゃうと台無しになるのが、分からないんでしょうかね。

でも、まっ、こういう自慢系は、周りの人にとって愉快ではないにしろ、そんなに罪深くもない程度の「虎の威借り」ですが・・・脅し系になると、不快を越えて、下手したら罪になると、わたしは思いますよ。

たとえば・・・昨日の話にも出てきましたが「弁護士」とか「裁判」って言葉を出して、相手を威圧しようという人、けっこう居るんですよね。でも、そういう人に限って、実際の訴訟事には不慣れな場合が多いです。とはいっても、そう言われた人の方も、ほとんどの場合、訴訟事なんかには不慣れでしょう。だから「弁護士」だとか「裁判」って単語だけで、「どっどっどっ・・・どうしよう」って怯んじゃうんですよね。つまりは、それが相手の付け込みどころなんですけど・・・。

そういう姑息さがムカつくから、ついつい「ほぉ~、そうですか。なら、やってみてください。おもろいことになりそうですね、楽しみやぁ~」と言っちゃうんですけど・・・こっちが、そんな風に強い態度に出ると、大抵は態度を急変させて大人しくなりますよ・・・ほんとうに(爆)。

このパターンは「弁護士」とか「裁判」だけじゃなく、「やーさん」の場合もあるんですが・・・この場合も、簡単にヤクザを引き合いに出す人は、たいてい、虚仮脅かしですよ。実際、何回か、ヤクザをよこすみたいなことを仄めかされたことがあって、「どこの組ですか?神戸?神戸の大きいとこなら、少しは知ってるけど、どこやろぉ~」って言ってやると、一気にその話はなかったことになりましたね。

とにかく・・・こんな風に、自分では何も出来ないくせに、大きな名前を出して、しかも本当は、その名前を使う資格もないくせに勝手に出して、人を脅して優位に立とうとする人・・・多すぎます。よほど切羽詰って、緊急避難的にやむを得ずということなら、情状酌量しますが・・・そうじゃない人たちばかりで、恥を知らないとはこういう人たちのことだと思います。

恥の文化というのは、他人の目ばかり気にして、確たる自分を持たない人たちの社会を指すのではなく、厳しい美意識を自分の内側に持ち、その美意識でもって自分を律することのできる人たちの作る社会のことだと思うのですが・・・そんな美しい恥の文化は、いったいどこに行ってしまったのでしょう。

なんて、かなり緩くて醜い奴が、偉そうに言えた義理でもないのですが・・・ここは、自分の恥を棚上げしてでも、一言言っておかなきゃいかんと思った次第です(^^;。

時効・・・誰を何の為に守ろうとしているのか

2006-09-27 19:38:09 | Weblog
弁当宅配の仕事をしている。

おいおい、お前の職業はいったい何なんだと言われちゃうかな。珈琲屋だって言ってなかったっけ? ヘルパー派遣事業所の運営をしてるとも言ってただろ? 不動産の話もするし、文筆関係の話もする、時には託児所みたいなことも言う。いったい、どれが本当なのかと問われそうだが・・・なぜか全部ホント。そして、弁当宅配の仕事もホント。好い仲間に恵まれたからこそ、こんなに色んなことが同時進行できるのだと思う。仲間たちと家族に、感謝しなきゃね(^^)。

けど・・・今日のお弁当宅配の仕事に絡んだ話は、好い人に巡り合えたというのとは、真逆のお話になる。

わたしたちがやっている弁当宅配は、主に高齢者を対象にしている。一人暮らしの高齢者、あるいは家族と住んでいても、食事時間やメニューの問題、その他諸事情があって、家族が食事の世話の出来ない高齢者の方たちに、家庭料理弁当を作って配達している。となると、料金の支払いが、すこしヤヤコシイ場合もある。高齢者ご本人が支払ってくださる場合は、ややこしくはないが、同居の家族がいても、遠方の身内が支払いをされる場合などもあったりして・・・何事もない場合はいいのだけど、何かあった時には、これが少々面倒なことになる。

去年も、ある利用者の支払いが滞りはじめて・・・催促はすれど数ヶ月の料金が滞納になり、最終的には「引っ越すので契約を解除したい」と電話がかかってきた。我々は、当然、今まで滞ってきた分の料金をまとめて請求したが、結局、その請求金額が支払われることはなく・・・前年度の収支決算では、損金として計上した。

と、先月、またそのお宅から利用したいと連絡が入った。どうやら、お弁当を召し上がってくださっていた高齢者の方が、引越し先から、元のお宅に戻られたようだった。そのお宅の方からの連絡だった。我々としては、当然、先年度に支払ってもらえなかった料金の支払いを求めた。先方は、ひどくビックリしていた。支払われているものと思っていたようだ・・・でなきゃ、再開依頼なんて、してこないだろうから、それは本当に、そう思っていたのだろう。だから、先方は「調べてみる」と言った。我々は、日に二回(昼ごはん用と、晩御飯用)弁当の宅配を続けながら、先方の返事を待った。すると、この月末になって、やっと連絡が入り・・・

「一年を経過している食品の支払いは必要ないと法律に書いてある。どのように考えておられますか?弁護士に相談していく事になりますが…」

だって・・・と、対応したスタッフは溜息をついていた。驚きや怒りや悲しさより、呆れるというか情けないという気持ちになったんだと思う。わたしは、自分の意見として、仲間に「わたしは、集金は諦めて、今後の取引を中止したい。法律云々ではなく『実際、お支払い頂いてないのは認めていただけたわけですね。その上で、法的義務がないから支払わない。それでも支払えというのなら、弁護士を間に入れるということですね。なら、お支払いは、もう結構です。が、お互いに信頼関係も崩れていると思いますので、今月をもってお取引は終了させていただきたいです』というのが、わたしの気持だ」と言った。

数万円の未払い金・・・弁護士に、いくらの相談料を支払って、解決するつもりなんだろう。それ程までして、支払いたくないのだろうか。ほんとに情けない気分で、法律に何が書いてあるのか確かめて反論したり、対策を講じたりする気力も湧かない。もちろん、スタッフが協議して「こんなことは許せない。絶対に回収する」という結論に至れば、最善は尽くすけど、正直、こういう人に対して、労力を使いたくない。

こんな人に対して、逃げ得を許すのか・・・と言われれば、確かに、そこには引っ掛るものはあるが・・・日本には、権利を使わなかった者からは、その権利を剥奪するという法律・・・つまり、請求権にも『時効』があるので、もし相手方が言っていることが正確な情報なら、法的に支払いは強制できないだろうね。

商売をしていれば、損金は、予算のうちだし・・・損したお金そのものに関しては「まあ仕方がない、これから気をつけよう」程度に思えるのだとげ・・・仕方がないと思えないのが、自分が支払わなかった料金に関して「一年を経過している食品の支払いは必要ないと法律に書いてある。どのように考えておられますか?弁護士に相談していく事になりますが…」と居直って言える人の心だ。そして、そういう人を後押ししている社会だ。

安倍さん・・・あなたの言う「美しい国、日本」は、こんな言動を法律で後押しする国ですか? わたしの思う「美しさ」とは「法律がどうあれ、自分が利用したサービスの料金は、ちゃんと支払う。支払いが遅れていたなら、詫びの言葉をそえて支払う。支払わないですまそうなんて考えは恥ずかしいと感じる・・・そういう心」のことです。

そういえば、26年前だかに、学校の先生を殺して、時効が成立してから自首した犯人に対して、遺族が訴訟を起こしたけれど、殺害に対する賠償金請求は、時効成立を理由に、棄却されていましたよね。いいのかなぁ~、それで。われわれの社会は、それでいいのかなぁ~。みなさんは、自分たちの暮らしている社会が、そんな風でいいとお思いですか?

相手の意図が分からないの、嫌いだな

2006-09-26 18:09:52 | Weblog
とある物件に関して、最近、妙な動きがある。何年も、ぱったり動きがなかったのに、ここ数ヶ月で数件の問い合わせがあった。が・・・どの接触も、その感触が微妙に奇妙なのだ。どうも、何かありそうな気がするが・・・その何かが何なのか、わたしの知識と経験、また想像力では、まったく分からない。それが、とっても屈辱的で、しかもとっても気持ち悪い。

何かを媒介として、人が接触を求めてきた時、間にあるものがどんなものであれ、その人がどんな人であれ、相手には意図と言うものがある。強欲な意図をもって接触してくるものもあれば、爽やかな意図をもって関わってくれる人もいるし・・・時には、悪意をもって傷つけることを意図して近づいてくるものだってある。が、どれにしても、相手の意図が分かっていれば、対処に迷うことはない。

けれど・・・相手が、何の目的で、本当は何を欲して、今、わたしに、このような形で接触してきているのか、それが読めないのは、何よりも嫌なシチュエイションだな。

今回の場合、損得勘定だけのことでいうなら、いますぐ損を被るような案件ではない。が、簡単に得になるような話でも無さそうだ。とりあえず、大きな損をしないようにだけ注意して、推移を見守るか・・・まったく、こういうハッキリしないのは、嫌いなんだよな・・・仕事でも、プライベートでも(爆)。

広い入口って、いいかも(^^)

2006-09-25 17:02:44 | Weblog
よく、日本の大学に対する批判というか提言として、外国の大学は「入るのは簡単だけど、出るのが難しい」って話が出ますよね。思春期の大事な時期に、他の大切なことを何も経験させず、ただただ勉強を詰め込ませて、その勉強がハカドッタ子だけを入学させる。そしてその後はといったら、受験勉強から解放されてタガが外れたように遊ぶ学生を、ただ野放しにするだけ。そんな大学に、何の意味があるんだって。

たしかにね・・・一年間の受験勉強で、詰め込むだけ詰め込んだ知識が、半年で消えている息子を見ると、その非難もモットモかなと思わないこともないですが・・・(爆)。

ただ、わたし自身が、もう少し早い時期に、同じようなことを経験していて・・・それが、そんなに悪いことでもなかった気がするので・・・意見は保留にしていたんですよね。

わたしの場合ですが、これが中学の頃の話に遡るわけでして・・・わたしが入学した中学は、自分で言うのも何ですが、関西では有数の、阪神間でならトップクラスと言われる名門校だったんですよ。全国規模で有名な男子校の灘校に対して、女子なら神戸女学院と言われるくらい、本来は勉強が出来る女の子を集めた学校なんですよ・・・わたしをご存知の方は、疑わしいとお思いでしょうが、ほんとうに(爆)。

でも、東大合格率が抜群だということで日本中に名を馳せている灘校に比べ、わが母校は、関西地区以外の皆様に、そんなにお馴染みじゃない。その理由は、要するに、有名大学への進学率が高くないからでしょう。そして、その理由は「賢い(あくまでも勉強が出来るって意味で人格的に優れているわけじゃない)子を入れて、馬鹿にして出す」という学校の方針のせいだと、わたしは思います。

聞くところによると、今では、時代の要請によって、かなりシッカリ受験指導もするようになったということですが、わたしの時代には、本当に勉強に対して厳しくない学校でした。しかも、どんな成績でも、必ず10年間(中学一年生から大学四年生まで)は面倒を見ますというのがモットーで・・・実際、信じられないくらい成績の悪かった私でも放りだされることなしに、ちゃんと10年間、お世話になることができました。

制服もないし、校則も緩々だし、生徒会運営は生徒たちだけでやっていたし、運動会や文化祭も生徒主導、部活も生徒中心に運営されていて、先生たちから何かを強制された覚えが、ほとんどないですしね。わたしは、この学校の方針が、とても好きでした。生徒として通っている間もですけど、大人になってからも、この遣り方は好いと思っています。

だから「入ってからはノンビリと」というのは、一概に悪くはない気がして・・・いわゆる西欧風の大学の方針に諸手をあげて賛成するのもなあ・・・と思っていたわけです。日本の大学でも、勉強したい子は、必死に勉強してますからね。二十歳ちかくなって、強制されなきゃ勉強しないような人は、勉強する必要もないと思いますし。

ただね・・・今朝、ガレージを歩いていて・・・感じたんですよ。車の停め方が、少し歪んでいて・・・車と壁の間が平行じゃなかったんですが・・・手前が広くて、先が狭くなっていたんですよね。結局は狭くなってしまうんだということは、はっきりと見えて分かっているわけですけど、視覚的に手前が広いと、ものすごく「進みやすい」んですよ。気分的に、とっても誘われるっていうか・・・行こう!行きたいっ!!って気持ちになるんです。で、このポジティブな心理状態って、いいじゃんと思ったんですよね。

となると・・・入口は広く・・・でも、入ってから、(大学にフルイ分けられるというより)よく知って自分自身が選択していくというスタイルも悪くないかもと思えてきました。学者になりたい人なんて、そう多くないでしょ。大学で学問を究めたいという結論に達する人が少数でも、何の不思議もありません。だから、本当の意味で大学を卒業できる人が少なくても、当然ともいえます。じゃぁ、他の人は・・・自分が欲しいものを手に入れる為に、次に進むべき道や方法や必要な道具が何なのかを見つければいいんじゃないですか。

いや~・・・やっぱり、それを中学校くらいからの六年間でする方がいいかな・・・大学では遅いかな・・・大学では、もっと専門分野に分かれて、実践的に学びたいなぁ・・・やっぱり、受験的勉強に、思春期の数年、下手したら幼い頃からの十数年を費やさせるなんて、無駄っていうか害がありますよ。となると・・・やっぱり、何がいいのか・・・まだ、結論、出ないな(^^;。

安心が欲しいの(^^;

2006-09-24 17:12:57 | Weblog
昨夜遅く・・・いやぁ~、もう一時半だったから、今日になってますよね・・・とにかく、真夜中に、我が家の固定電話が鳴ったんですよ。今時、固定電話って、あまり鳴らないから、ビックリして飛び上がりましたよ。何か、悪い知らせじゃないかと、すごく嫌な気分で受話器をとったら、なんと裕太なんですよね。「おれ」「なにぃ~、どないしたん」「携帯落としたから、利用停止しといて・・・それから、心配せんでええから・・・たのむわ、ほなな」とのこと・・・おいおい(^^;。

で、まっ、電話を切った私は、NTTdocomoに電話をかけ、利用停止の手続きをしたわけですけど・・・その後、思ったんですよね。じゃぁ、これから、彼と連絡を取るには、どうすればいいんだろうって。今時の若者である彼は、携帯電話なしに長くは暮らせないでしょうから、無くしたという携帯電話が見つからなければ、すぐに新しいものを購入するでしょうけど、それまでの連絡は、どうしたらいいんだろうって。彼の部屋には、固定電話はないし・・・まったくっ!!

それに、彼も、自宅の電話番号しか覚えてないみたいなんですよね。家族一人一人の携帯番号なんて、覚えてない・・・ということは、彼の方から私に連絡したい場合でも、わたしが自宅にいなければ、電話に出られない・・・これは、マズイじゃないですか!!

冷静に考えれば、今までから、一週間や二週間、平気で音沙汰ない人なわけだし・・・特に何か急ぎの連絡なんて、たぶん無いとは思うんですが・・・もしもの時に連絡がつかないなんて・・・そんなの駄目です。絶対に駄目です。あぁ~、心配の虫が蠢き始めた(^^;。

携帯電話のない頃・・・いやぁ~、電話がない頃ってのも、そんなに昔ではなくあるわけで・・・すぐに連絡が取れ合うなんて今の状況の方が凄いことなんですけど・・・とにかく、昔の親は、どんなにか離れて暮らす子どものことが心配だったでしょうね。親元を離れて暮らしてらっしゃる皆さん、どうか、この機会に(どの機会だろう(^^;)、おうちに電話でもして声を聞かせてあげてくださいよ。どんなモノをもらうより、親は喜びますよ、はい。

それにしても、財布だ携帯だ何だと、よくモノを落とす奴だなぁ・・・光熱費などの払い込みも滞らせるタイプだし、そんなので一人暮らし(ぜんぜん一人じゃなさそうですが(爆))が出来るのかねとは思うけど、そんなのだからこそ、親元から出すべきなのかもね(涙)・・・です。

とにかく・・・携帯電話というホットラインを失って、つくづく思うことは「いつでも連絡がとれる」という安心感は、ものすごく大きいものだということです。実際に連絡し合わなくても、連絡できると思えるだけで、安心が得られるんです。

で・・・思うんですが・・・これは、機械を媒体にした、具体的な結びつきの話ですが・・・もっと漠然とした、人と人との心の関係においても、大切な人たちには、この「いつでも連絡がとれる」という安心感を感じさせてあげて欲しいですよね。つまりは、信頼ってことになるかな・・・相手と自分の間に、ちゃんと通じ合っているものがあると、そう信じられるようにしてあげてほしいですね。恋人同士でも、ご夫婦でも、親子でも、お友だちや仕事のパートナーでも・・・ねっ。

余談ですが・・・男の子って、電話をかけてきた時、自分の名前、言いませんね。女の子は「わたし」とは言わないで、ちゃんと名前を言うでしょ。でも、男の子は「おれ」って、一言ですませますよね。オレオレ詐欺が成立するの、少し分かる気がしました(笑)。

奇跡! 人懐っこい私(爆)

2006-09-23 12:27:13 | Weblog
居直りに聞こえるかもしれないが、わたしは人付き合いが苦手だ(爆)。

とりあえず、人ごみに長く居ると、吐き気と頭痛がしてくる。だから、都会での買い物では、つねに「早く」を心がけている。長年の経験から、ウルトラマンのカラータイマーのように、限界が近づくとピコピコと警報を鳴らしてくれるセンサーを身につけられるようになって、最近では家に帰ってから寝込むなんてことはなくなったが、二十代前半までは、マジ悲惨な状態だった。

それから、電話も苦手だ。親しい人とでも、用件がすめば、すぐに切ろうとしてしまう。雑談を楽しむなんて、とんでもない話だったりする。ましてや、親しくない人とは、簡単な連絡の為の電話でも、動悸が激しくなるほど、プレッシャーを感じてしまう。これも、最近は、ずいぶん緩和されてきたけど、基本は変わっていない。

よほど親しい友だちとでも、ベッタリ一緒にいることが苦手で・・・無理して一緒に居ると、どんどん相手を憎悪してしまうので、そんな迷惑をかけないように、失礼にならない程度に距離をおくように心がけていたりする。

一方では大勢の人前で話すことに、まったくプレッシャーを感じなかったり、仕事上の折衝ごとや、大きな組織へ抗議するような行為も、平気で出来るところがあって・・・そういう姿を見ている人からすれば、ずいぶん強い人に見えるようだけど・・・そんな反面、対人恐怖症を抱えているのも、ほんとうに偽らざる私の姿なのだ。

ということは、親戚付き合いや、近所付き合いも、正直苦手だ。相手から、人懐っこく話しかけてもらうと、それに助けられて対応することは出来るのだけど、相手が大人しい人だと、心も体も固まってしまって、どうしても自分から愛想よくしたり出来ない。

十代の頃は「それで何が悪いのだ」くらいに尖っていたけど、今は丸くなって・・・というか、多少ものが見えるようになって、「なんとかしなくちゃ」という気持ちが芽生えてしまっただけに、自分的には、かえって苦しくなっている。

そんなわたしにとって、毎日の犬の散歩というのは・・・かなりな試練だったりする。愛犬が若く元気な頃は、すれ違う人とのんびり話をする余裕がなく、ほとんどジョギング状態だったので助かっていたのだが、愛犬が老犬になった今、出遭う人出合う人とゆっくり話が出来る状況になってしまったものだから・・・(爆)。

とはいっても、やっぱり自分からは、気軽に話しかけたりはできない。だから「おはよーございます」「ずいぶん涼しくなったねぇ」あるいは「大きなワンちゃんですね」とか「あら~、ずいぶん歳とったねぇ~」と、挨拶や愛犬のことをネタに話しかけてくれる人とは、挨拶を返したり「ええ~、そうなんですぅ~」程度の返事をかえせるけど、相手も人見知りな人だと、お互いに気まずい無言のまますれちがうことになる。これは、ほんとに気づつない。声をかけるべきなのに・・・挨拶くらい、すべきなのに・・・と思いつつ、じりじり近づき、じりじり離れていく時間は、まるで拷問のようだ。それほど苦しいなら「こんにちわ」の一言ぐらい言えばいいようなものなのだけど、それが出来ないのが人見知りの人見知りたる由縁だし(^^;。

でもね・・・今朝のわたしは、なんだか様子が全く違っていて・・・家の前で、花の世話をしていた奥さんに「珍しい花ですね」なんて、自分から話しかけたのだっ!!本当に珍しい花が咲いていたから、思わず・・・ではあったのだけど、それにしても、わたしが自分から、知らないオバサンに話しかけるなんて、誰よりも私自身がビックリ仰天!!

こうして、人って、少しずつホグレていく・・・っていうか、成長していくのかなぁ。わたしが、おばあさんになったころには、もしかしたら、人間大好きな人懐っこい可愛いお婆ちゃんになれているかな・・・それはないやろ(爆)。

格差社会という発想

2006-09-22 18:19:46 | Weblog
今日は、ちょっと固めのお話を・・・

介護関係の事業所を運営している関係上、正直、最近の政府の福祉関連の政策には、失望している・・・というか怒りを感じてます。困っている人に、どんどん冷たくなっていっているというのは、肌で感じますから。

また、金融関係との折衝でも、金持ちには異常なほど便宜を図るくせに、貧乏人にはケンモホロロな態度だなと感じますし、それを助長させているのも政府方針だと思います。

これらのことに対しては、このままじゃ納得できないと思いますし、方向を是正しなきゃと思います。

けれど・・・それを「格差社会」と表現して非難されると、わたしは、どうも違和感があるんですよね。「勝ち組・負け組」ってのも、同様です。なんていうかなぁ~、そういう表現をしている人たちのモノの考え方や価値観って、結局は政府と同じじゃないかなと思ってしまうんですけど、違うんでしょうか。

だって、すべてを経済で見てるでしょ。つまり、お金で全てを測っているじゃないですか。お金持ちが勝ち組で立派で幸せで、貧乏人は負け組みで駄目な奴らで可哀相で・・・って、マスコミも我々庶民も皆が、物事の判断基準にお金を採用しちゃっているんだから、政府が経済オンリーの発想になるのも当然でしょうね。

もちろん、お金は大切ですよ。だから、経済の安定は、政府の仕事の中でも、最も大切なものの一つなのは間違いないでしょう。でも、大事なものは一つじゃない、お金も大事だけど、お金以外にも人を幸せにするものは沢山あって、それを充実させなきゃ「豊かな生活」は出来ないと、日本の国民が思っていなければ、政府も経済のことしか考えなくなりますよね。

だから、今の政府は、福祉問題にしても、教育問題にしても、少子化対策にしても、数字の帳尻ばかり合わせようとするでしょ。それに、あとから綺麗ごとの理由付けをする。まったく、醜いったらないですよ。

人が幸せになる為には、ある程度のお金は必要です。けど、そんなに沢山は必要ないんですよ。多ければ多いほど、幸せも大きくなるなんてことはないんです。そのことが分かれば、一人で沢山のお金を独占したいと思う人は減るでしょ。そうしたら、最低限必要なお金にさえ困っている人のところにお金が回っていくでしょ。

もちろん、その代わり、お金を使わないで幸せになる色んな方法を広めていく必要もありますよ。無駄遣いの金額を幸せのバロメーターにするんじゃなく、もっともっと自分という素材、自分が生きている環境という素材を活かして楽しむ活き方をアピールしていきたいですよね。そう思いませんか?

だんご虫、襲撃!!

2006-09-21 15:35:38 | Weblog
今朝は、山猫軒の周りの草むしりをした。アスファルトでコーティングされている場所でも、ど根性雑草くんたちが、ブキブキと茎を伸ばしているからね(^^;。根性を発揮して頑張ってるのを、こちらの都合でムシッてしまうのは申し訳ないんだけど、客商売をしている立場としては、玄関前に雑草が繁っているというのは、ひどくウラブレタ感じになってしまって好ましくないものだから・・・どうか勘弁して欲しい。

というわけで、どっこいしょと雑草を引き抜いたららば・・・モゴモゴモゾモゾウゴウゴと何かが大量に蠢いている。なっ、なんだょぉ~~・・・へっぴり腰になりながら、恐る恐る見てみたらば、だんご虫の群れだ。あいや~~、君たちの住まいだったのか・・・一族郎党そろって寛いでいたのに、大地震が起こったみたいなものだね・・・申し訳ない(^^;。

ではではと、次の雑草を、どっこいしょ・・・うわっ、ここもだ!! この後は、ご想像通り、雑草を抜くごとに、だんご虫の一家を大慌てさせてしまった。それにしても、よくもまぁ、こんなに大量のだんご虫(^^;。

けど・・・蟻ん子さん撃退の時にも思うことだけど・・・人間って勝手だよね。人間にとっては、決して生き死に関わるほどの重大事じゃない些細なことを理由に、彼らの生活を踏みにじるんだよね。見た目が悪いってだけで、彼らの住まいを潰して回るんだよね。まったく、なんて非道な生き物なんだろうと思うよ。

そういえば・・・今朝、空を飛んでいる鳥を見て「彼らは、気もちイイなぁ~なんて思いながら飛んでいるんだろうか」と考えた。動物や植物、命があると言われているもの達は、それぞれに、どれほどのことを感じたり考えたりしてるんだろうって。

わたしが、蟻さんやダンゴ虫さんに感情移入するのはいいけど・・・それも結局、独善的感情なのかな。けど、昨日も言ったように・・・独善も偽善と一緒で、悪い面もあるけど、良い使い方もなくはないわけで・・・わたしが草むしりをして感じる、だんご虫への罪悪感も、良い具合に使えればいいのだけどね・・・。