OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

年を取るということは変化を体験するということ

2018-10-29 08:54:05 | Weblog
黎明に車で家を出て、対向車を見ると、その車がどれくらいの距離を走ってきたか、大まかに予想ができる。ライトをしっかりと付けていたなら長距離を走ってきたのだな、無灯火なら地域に住まいする人だろう、スモールランプなら近場の人だろうけど几帳面な人じゃないだろうかと想像できる・・・あたっているかどうかは不明だけど(^^;。

それでふと思った。前時代から活動してきた人間は、今までの自分の習慣や常識を改めるのに、自分で決心してスイッチを切り替える要があるけど、新しい時代に育った者は、迷うどころか考える必要すらないんだなって。

前時代を知る者は、望むと望まざるにかかわらず、周りの変化に対応していかざるを得ない・・・という点では大変なのだけど・・・でも、その分、今の当たり前が、決して普遍的な当たり前ではないことを、身をもって知ることができたわけだし・・・何よりも、新しい時代を迎える黎明期の醜さと美しさを目撃できたというのは・・・得難い体験であると思う。

年を取るということ、長く生きるということは、変化を体験するということに他ならない。環境も変われば自分も変わる・・・その面白さと切なさ・・・変化を目撃し、変化を体験する・・・どれだけそれを面白がれるか楽しめるか・・・ふむ・・・決して面白がれない変化もあるけどね・・・

満足の基準はどこまでも上がっていく

2018-10-24 10:58:55 | Weblog
Amazonで雑誌のバックナンバーを二冊注文した。すると、一冊は日本郵便のゆうパケットで、そしてもう一冊は、TMG便での配送だとメールがきた。TMG便?そりゃなんだ?TMG便とやらをまったく知らなかったわたしは、すぐにネット検索してみた。すると、続々と悪評が(^^;。

おいおい何だよ、嫌だよ、ちゃんと届くのかい?と思ったけれど、利用者さんたちの不満をよく読んでみると・・・ふむふむ、そうだねぇ~・・・(^^;。

みなさんの不満はとてもよく分かる。特にお仕事で利用してらっしゃる方は深刻だよね・・・それはとってもよく分かる。ただ・・・ふと思った・・・わたしたちは、あまりにも高いクオリティーのサービスに慣れ過ぎて、それが当たり前だと思っているけど・・・それって全然当たり前じゃなくて、スゴ過ぎることをしてもらっているんじゃないだろうかって。

それは配送サービスの業者さんだけのことじゃない。わたしたちは、ありとあらゆる分野で、とても手厚いサービスをうけていて・・・それが当たり前だと思っている。そして、今までにうけたサービスの中で、もっともレベルが高かったものを基準にして、それに満たないものを全て批判する。それって、もしかしたら、ちょっと奢り過ぎなのかもしれない。少なくても、感謝が足りないことは確かだ。

今わたしは"もっともレベルが高かったものを基準にして"と言ったが・・・それは常に更新されていくことになる。どんどんどんどん満足の基準は引き上げられ・・・それは言い換えれば、どんどんどんどん不満も増すことになる気がする。わたしたちは、してもらった有難さより、してもらえなかった不満でいっぱいになってしまう気がする。それっていいことだろうか・・・幸せなことだろうか・・・

台風で電車が運休になったときなどにも思ったのだけど・・・利用者は確かに困る、困るけど、それって電車を止めた鉄道会社が悪いの?彼らが責められるべきこと?もっと方法があるだろうとか、出来ることがあるだろうとか・・・そりゃああるかもしれないけど、そこはお互いさまで我慢できないものだろうか・・・

何か不都合が起こった時、それに関わる人たちが、等しくその被害や責任を分け合えって負えるのがいいなと思う。会社間の取引で弱い立場の者が全てを被るとか、客はただ文句を言うだけとかじゃなく・・・お互い、一度「仕方ない」ってことを受け入れて、「じゃあこれからどうしようか」と考えられたらいいのにと思う。

とにかく、他人にしてもらうことに対する満足の基準は、そんなに引き上げない方が、自分のために良いのではと、わたしは思う。あの人には簡単にできることも、この人にとってはとっても大変なんだということがあるように・・・ある会社にとっては今や容易にできることであっても、この会社にとってはまだまだそこまで出来ないってこともあるわけで、それを待ってあげるってことも、長い目で見れば回り回って自分の得になる場合もある。

自分の得、自分の楽、自分の快、自分の都合だけで判断しないで、相手の都合とか相手の頑張りを見て待ってあげることも必要なんじゃないかと思う。


追伸
TMG便、ちゃんと予定通りに滞りなく届きましたよ。配達員さんも礼儀正しい方でした。

見る目と見られるモノとの間の距離

2018-10-19 16:12:41 | Weblog
少し前まで、中国の女優さんである范冰冰さんの脱税疑惑というか行方不明事件というか・・・中国の政治情勢とも相まって、日本でもよく取り上げられていましたね。その時・・・なんというか・・・うまく言えないんですが・・・その取り上げ方や表現に、居心地の悪さというか・・・ちょっとした違和感を感じていたんですね。

范冰冰さんの出演されている映画やドラマはいくつか見ていますが、わたしが亜細亜映画にどっぷりつかっていたのは少し前の時代のことなので、彼女に特別な思い入れがあるつもりはなかったんですが・・・それでもやっぱり、一般的な日本の皆さんよりは、彼女が属している世界に対する気持ちが深いんでしょうね。わたしにとって忘れることなど決してできない張国榮さんが活躍された世界ですからね。

とね・・・やっぱりね・・・なんだかね・・・彼女に関するニュースで使用される言葉のニュアンスとか、そういうのに・・・冷たさ?愛情のなさ?他人事感?・・・よく分からないんですが・・・そうですね、距離感かな・・・そういうのを感じて・・・そんなのだったら、取り上げなきゃいいのに、とか、ちょっと思っちゃったんですよね。

冷静な感覚では「そんなの当たり前じゃん」って思うんですよ。他のニュースだって同じことが起こっている。たとえば、今だとサウジアラビアの記者さんが殺されたんじゃないかって事件とか・・・范冰冰さんの事件よりよほど大変なことだし、当事国じゃない人たちだって大いに興味を持っていることだから、しきりと報道されるけど・・・当然、そこには、他人事感は拭えないですよね。だって、自分にとって近いとは言い難いところで起こっていることですもの。

だから、わたしが日本における范冰冰さんに関するニュースに違和感を感じたのは、わたしが日本人として当たり前の距離感でもって范冰冰にニュースを受け止められなかったからだって・・・それだけのことですよね。

でもね、そのことで思うんですよ。ある出来事に関して、それぞれの人がそれぞれの距離感でもって感じたり考えたりするわけで・・・それは、ほんとうに千差万別なのが当たり前なんだって。皆が同じように感じるなんてあり得ないんだって。

わたし、けっこう歴史好きなんですが・・・ずっとずっと前、どなたかに言われたか、何かで読んだかで、印象的な言葉があるんですね・・・「過去を今で裁いちゃいけません」ってね。出来事との距離って、地理的距離だけでなく、時間的距離もありますよね・・・で、過去の出来事って、けっこう距離がある。だから、今の正義や今の美意識で、過去を断罪しちゃいけないって・・・すごく納得できたんですよね、その言葉。

もちろん、今に生きている、ここで生きているわけですから、そこで養った正義感や美意識は、己の感じ方や判断の基準になりますし、それは当然のことです、それを否定する必要も、捨てる必要もない。だから、それを基準にして、遠くの国の出来事や過去の出来事について考えることは間違っていない。そして、そこからいっぱいのことを学ぶべきだと、そう思います。見習うべき点、反面教師にすべき点、しっかりと受け取るべきだと思います。だけで、それは裁くのとは違う、断罪するのとは違う・・・それは、その出来事からある程度以上距離がある者の役目ではない。

いえ、日本の報道が、范冰冰さんを不当に断罪したっていう話ではないんですよ。范冰冰さんのことは単なるきっかけで、私自身が出来事に対する距離によって感じ方がずいぶん違うんだろうなと実感したという・・・その機会をもらったというだけのことでありまして・・・はい(^^;。

ただね・・やっぱり、外国のことじゃなくても、遠い過去の歴史上のことじゃなくても・・・ほんとうに身近な出来事に関してだって・・・それぞれに違う距離感で物事に接しているわけだから・・・そこには、それぞれの人の感じ方があって・・・共有できる感覚と共に、共有できない感覚もうるんだろうなと・・・そう知っておきたいですよね。

限りなく自由なはずなのに、なぜかとても不自由

2018-10-10 11:33:50 | Weblog
溜めていた既観映画の感想を、映画の感想用のブログに書いていっているのですが・・・ふと気が付くと、ほとんど褒めてないなって思って・・・我ながら「お前、何様だよ」って思いました(^^;。

これは何度も言ってきたと思うのですが・・・若い頃は、小説にしても映画にしても、ほんとうに素直にその世界に入り込んで、感動できていたんですよね。それが、年を取って、なんやかんやと偉そうに文句ばっかり言ってる。創っている人たちの苦労は、若い頃よりよほど理解できるようになっているはずなのに・・・なんでなんでしょうね。

見る目が養われたとか、若い頃には思い至らなかったことも考えてしまうとか、そういうことなら仕方ないと思うのですが・・・いつも言っているように、感性の扉が閉じてしまった、感じる力が衰えてしまったということなら、こんなに悲しいことはありません・・・ほんとに。

もっと無邪気に小説や映画を楽しめる自分になりたいなぁ・・・本気で、そう願っています。そのためには、どうすればいいんでしょうね・・・

ところで・・・そんなことを思った続きで考えたんですが・・・最近の人は、特別な立場や能力がなくても、自分が感じたことや思ったことを、どんどん外に向かって発信できますよね。それはもちろん、インターネットという発信手段を得たからなわけですが・・・発信する"自分の考え"というのが、みなさん一人ひとりにあるっていうことでもありますよね。主張したい自分の意見がある、そういうことですよね。

もちろん、その意見は色んなものに影響を受けていることと思いますよ。自分の周りの身近な人たちやメディアの影響を全く受けないで、自分一人で考えた意見なんて在りえないですからね。でも、たとえそれがメディアが作り出す風潮に乗っかったものであったとしても、最終的には「そうだ」ってその人が思ったわけですから、その人の意見ですよね。だから、みなさん堂々と、色んな出来事に自信をもってコメントできるわけですよね。

で、思ったんですが・・・そういう"自分の意見"って、昔の人もちゃんと持っていたんでしょうか。簡単に自分の意見を発信できる環境がない時代、しかも価値観や美意識が強制されていた時代の人たちは、それでもちゃんと自分の感じ方を大切にして、それを大がかりではなくても発信したいという欲求を持っていたんでしょうか・・・それとも、感じること、考えることすら封じ殺られていたんでしょうか。

ああ・・・風刺とかって、そういう欲求の発露として生まれてきたのか・・・川柳だとか、落書きだとか・・・どんなに封じ頃められても、人々はちゃんと自分で感じ、自分で考え、それを主張しようとしていたのか・・・

今は、表現ということに関しては過渡期というか、ちょっと不思議な時代で・・・限りなく自由なはずなのに、なぜかとても不自由にもなっている気がします。権力をもった人が庶民を押さえつけるという形の不自由さではなく、新しい形の不自由さが生まれています。その不自由さに、どう対応していくのか、どう対処すればいいのか・・・きっと、これからの課題なんでしょうね。

何が幸せなんだろう・・・

2018-10-08 15:08:34 | Weblog
はる坊の好酸球性プラーク、なかなか治りません。主治医の先生情報では、今年は酸球性プラークを発症する子がとても多かったそうですが、こんなに治らない子は、先生が担当する中では、はるともう一人だけだそうです。麻酔をして患部の組織を多めに採取して、好酸球性プラークであるという診断を確定した後、最近ニャンコ用も流通し始めたらしいアレルゲン特定の検査をするというのも、選択肢の一つですといわれたけど・・・それも何だかなぁ~と思っています。検査でアレルゲンが特定できるとは限らないので、病院大嫌いなはるちゃんに負担をかけてまで検査すべきだろうか・・・もし食べ物にアレルギーが出て専用フードにするとしたら、多頭飼いの我が家で食事の制限は難しいだろうなぁ~・・・それにアレルゲンが一つとは限らないし・・・などなど考えると、どうもアレルゲンの特定検査の方向は気が進みません。

かといって、ステロイドを投与し続けるというのも不安です。腎臓病や糖尿病のリスクがあると聞きますし・・・病院からも、連続で飲ませ続けないようにと言われています。今は、一週間飲ませたら一週間休み・・・と、そろそろカイカイが始まるので、また再開して一週間投与、という感じです。真夏は三週間ぐらいなくてもいけたんだけど、油断していたら酷くしちゃって、秋口にはまた抗生物質も一週間飲ませることになりました。

ふむ・・・

はるちゃんの病気を通して、色んなことを考えます。幸せって何だろう・・・はるちゃんにとって幸せな人生って何だろう・・・

わたしは、ついつい失うことを恐れてしまいます。だから、はるちゃんが少しでも長生きできるように・・・と考えてしまいます。そのためなら薬も飲ませるし、好きなおやつも我慢させるし・・・一日でも、一分でも、一秒でも長く、はるちゃんがわたしの傍に居てくれるようにということを基準に判断してしまいます。でも、それで、はるちゃんは幸せだろうか・・・

もちろん、カイカイは嫌だと思います。カイカイがないのは、はるちゃんにとって幸せだと思います。じゃあ、カイカイにならないようにする方法は・・・気を付けながらステロイドを飲ませ続けるのか・・・アレルゲンを特定できるまで検査を続け、アレルゲンを特定出来たら、それらから一切遠ざける生活を送らせるか・・・今のところ、前者を選ぼうという気持ちが強いです。副作用が出るとは限らないし、とにかくよく様子を見てあげることが一番かなと・・・

猫だけじゃありません・・・家族や友達、自分自身に対しても、同じことで迷います。その人にとって何が幸せなのか・・・その人が幸せだと思う生き方を応援したい・・・必ずしも長生きが幸せの基準にはならない・・・でも、やっぱり、一年でも一日でも一分一秒でも長生きして欲しい・・・傍に居て欲しい・・・ううん、傍にいなくていいから、どこででもいいから生きていて欲しい・・・生きていて欲しい・・・

失うことを恐れてばかりいては、大切なことを見失うとは思うのですが・・・やはり、失うことは、とても恐ろしいことだと・・・思います・・・