世に「この国はっ!!」とか「我が国の(あるいは大国の)為政者ときたら!!」と怒る声が溢れている。八つ当たりや責任転嫁のような雑言もあれば、真剣に世を憂いて苦言を呈しているものもあると思うが・・・とにかく、そういう意見が出てこなければ、世の中は良くも悪くも変化していかないのだろうと想像する。
けれど、わたしは、そういう意見を口にするのが苦手だ・・・意外と思われるかもしれないけど(^^;。
それは決して、権力に媚びているからじゃないことは弁解させてほしい。なんというか・・・ただ・・・自分がその立場になったらと考えたら、どんなに無能に見える人の言動を目の当たりにしても、それより正しく、正しくとまではいかなくても適切に対処できるかと考えると、とてもとても無理だなぁ~っと思ってしまって、批判の言葉を飲み込んでしまうのだ。
若い頃に書いていた自分の文章などを振り返ると、常に断定形だったように思う。だって、正しいことというのはたった一つで、それは揺るぎないものだから、自分も含め、誰もがその正しさに従うべきと思っていたから。でも、年を重ねると、正しいことなんて無数にある、というより正しいことなんてないのではないかと思えるようになってくるのだ・・・
そしてある時から、わたしは"選択"という言葉を、よく使うようになった。何が正しいかなんて分からないから、その時々に、何を選ぶか、自分で決めるしかないと思うようになったからだ。そして、困難にあっても果敢に選択し、その選択に責任をもつ大人こそがカッコイイと・・・
でも、それもやがて・・・果敢に選択し責任を持つなんて言葉はかっこいいけど、実際に責任なんて取れないでしょ、と、身もふたもない現実に打ちのめされてしまった・・・
だから・・・他人にも大きな影響を及ぼす決断をする立場にある人たちのことを、とやかくいう勇気がなくなってしまったのだ。何を選択しても、切り捨てられる人、切り捨てるつもりがなくても漏れてしまう人が出てくる。何をしても必ずマイナスの要素はあるし、全員に支持される選択なんてない。みんなが幸せなんて、目指すべき理想であはあるけど、現時点ではあまりにも非現実的だ。特に、社会全体が大き災いの中にある時には、被害を最小限にというのが精いっぱいの方針にならざるを得ない。当然、救われない人がたくさん取り残される。それでも悩みに悩み、罪悪感やら無力感も抱えながらも、決断して多くの人にその決断を実行させる立場の人たちを非難したくないと思ってしまうのだ。
けど、だからといって、決定権を持つ人たちの選択を無批判で受け入れる社会は、絶対に好い方向には向かわない。絶対という言葉は使いたくないが、こればっかりは絶対だと思う。「いやだ!」「違う!」「NO!!」それが言えない集団は、絶対に良くはならない。
批判というのは諸刃の剣だと思う。批判された人を傷つけるだけではなく、批判した人も傷つく。というか・・・そういう批判が、本来の批判だと思う。問題に真剣に向き合っている人の判断を批判する時は、少なくても、相手と同じくらい真剣にその問題に向き合おうという姿勢が必要なのだと思う。その上で、ちゃんと批判ができなきゃいけない。
わたしが批判が苦手なのは、相手が自分より地位が高いからでも、権力やお金を持っているからでもなく、少なくても、自分よりその問題に真剣に向かい合っているだろうと思うから・・・つまり、わたしはその問題に、それほど真剣に向き合ってはいないという後ろめたさからなのだけれど・・・それぞれの人には、それぞれの人の居場所ですべきことがあるのだろうと思う。わたしは、権力の中枢にいないのだから、彼らと同じだけのことをしようと思ったとしてもできない。ならば、自分のいる場所で、せめて違うと思うことは違うと、嫌だと思うことは嫌だと声をあげるというのが、わたしに出来ることなのかもしれない。謙虚さを逃げ口上にして、批判さえもしないというのは、何も考えずわあわあと騒ぎ立てている人よりも卑怯な行為なのかもしれない。
とはいってもなぁ~・・・やっぱり、批判するというのは苦手だな。少なくても、代案の一つくらいは添えて批判したいものだけど、それが出来ないからなぁ~。考えすぎはよくないというのは、まさに、今の、わたしの状態なのだと思う・・・・
けれど、わたしは、そういう意見を口にするのが苦手だ・・・意外と思われるかもしれないけど(^^;。
それは決して、権力に媚びているからじゃないことは弁解させてほしい。なんというか・・・ただ・・・自分がその立場になったらと考えたら、どんなに無能に見える人の言動を目の当たりにしても、それより正しく、正しくとまではいかなくても適切に対処できるかと考えると、とてもとても無理だなぁ~っと思ってしまって、批判の言葉を飲み込んでしまうのだ。
若い頃に書いていた自分の文章などを振り返ると、常に断定形だったように思う。だって、正しいことというのはたった一つで、それは揺るぎないものだから、自分も含め、誰もがその正しさに従うべきと思っていたから。でも、年を重ねると、正しいことなんて無数にある、というより正しいことなんてないのではないかと思えるようになってくるのだ・・・
そしてある時から、わたしは"選択"という言葉を、よく使うようになった。何が正しいかなんて分からないから、その時々に、何を選ぶか、自分で決めるしかないと思うようになったからだ。そして、困難にあっても果敢に選択し、その選択に責任をもつ大人こそがカッコイイと・・・
でも、それもやがて・・・果敢に選択し責任を持つなんて言葉はかっこいいけど、実際に責任なんて取れないでしょ、と、身もふたもない現実に打ちのめされてしまった・・・
だから・・・他人にも大きな影響を及ぼす決断をする立場にある人たちのことを、とやかくいう勇気がなくなってしまったのだ。何を選択しても、切り捨てられる人、切り捨てるつもりがなくても漏れてしまう人が出てくる。何をしても必ずマイナスの要素はあるし、全員に支持される選択なんてない。みんなが幸せなんて、目指すべき理想であはあるけど、現時点ではあまりにも非現実的だ。特に、社会全体が大き災いの中にある時には、被害を最小限にというのが精いっぱいの方針にならざるを得ない。当然、救われない人がたくさん取り残される。それでも悩みに悩み、罪悪感やら無力感も抱えながらも、決断して多くの人にその決断を実行させる立場の人たちを非難したくないと思ってしまうのだ。
けど、だからといって、決定権を持つ人たちの選択を無批判で受け入れる社会は、絶対に好い方向には向かわない。絶対という言葉は使いたくないが、こればっかりは絶対だと思う。「いやだ!」「違う!」「NO!!」それが言えない集団は、絶対に良くはならない。
批判というのは諸刃の剣だと思う。批判された人を傷つけるだけではなく、批判した人も傷つく。というか・・・そういう批判が、本来の批判だと思う。問題に真剣に向き合っている人の判断を批判する時は、少なくても、相手と同じくらい真剣にその問題に向き合おうという姿勢が必要なのだと思う。その上で、ちゃんと批判ができなきゃいけない。
わたしが批判が苦手なのは、相手が自分より地位が高いからでも、権力やお金を持っているからでもなく、少なくても、自分よりその問題に真剣に向かい合っているだろうと思うから・・・つまり、わたしはその問題に、それほど真剣に向き合ってはいないという後ろめたさからなのだけれど・・・それぞれの人には、それぞれの人の居場所ですべきことがあるのだろうと思う。わたしは、権力の中枢にいないのだから、彼らと同じだけのことをしようと思ったとしてもできない。ならば、自分のいる場所で、せめて違うと思うことは違うと、嫌だと思うことは嫌だと声をあげるというのが、わたしに出来ることなのかもしれない。謙虚さを逃げ口上にして、批判さえもしないというのは、何も考えずわあわあと騒ぎ立てている人よりも卑怯な行為なのかもしれない。
とはいってもなぁ~・・・やっぱり、批判するというのは苦手だな。少なくても、代案の一つくらいは添えて批判したいものだけど、それが出来ないからなぁ~。考えすぎはよくないというのは、まさに、今の、わたしの状態なのだと思う・・・・