OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

どっちが好き?

2021-01-20 10:18:56 | Weblog
さあ、そろそろ終わりにしましょうか(^^;。

えっと・・・毎朝、筆ペン型万年筆で文章を書いているんですが・・・筆先がずいぶんヘタってきて、繊細な線が書きづらくなっているんですよね。昔の女性が書く平仮名文字みたいな、流れるような細い線を目指しても、なかなか無理なんです。じゃあ、筆先を変えればいいだけのことではあるんですが・・・今は、意図しなくても、現代アーティストっぽい太い線になっちゃうという面白みはあるんです(^^;。

で、どうしようかなと・・・というより、こういう場合、どういう考え方でいるのが好いかなと・・・つまり、理想とする形に近づけるために道具などを整えるのか、在るものを活かしそこに生まれる新たな可能性を模索するのか・・・自分自身の生き方みたいなものが問われているぞと・・・ものすごく大袈裟ですけど(笑)。

もちろん、正解はなくて、あんたはどっちが好きなのってだけのことなんですけどね(^^;。

かける言葉などない・・・

2021-01-20 09:34:48 | Weblog
阪神淡路大震災は、1995年1月17日の早朝に起こりました。もうずいぶん、時が経ちましたね。今でも、関西では、この時期になると、メディアが特集したりしていますが、全国的には語られることもなくなってきたのかな。ドラマなどの設定に使われるのも、今ではもっぱら東日本大震災です、当たり前のことですが。

でも、やっぱり、関西に身を置く者にとっては、あまりにも強烈な体験で・・・

この地震で、わたし自身はたいした経験はしていませんが・・・その後、沢山の人から聞いた体験というのは・・・ちょっと言葉に出来ないことばかりで・・・

その時、つくづく思ったのは、言葉というのは、なんとも無力だ・・・ということでした・・・

大丈夫? そんなこと聞けますか? 大丈夫なわけないのに・・・何年たったって何十年たったって大丈夫なわけないのに・・・

よく"前向きに"って言葉も耳にします。乗り越えて前向きに。乗り越えるって何を? ご本人が、この言葉を口にされるなら、それは好ましいことだと思いますが、本人以外の誰も言ってはいけない言葉のように、わたしには感じられます。

それでも何とか支えたい、慰めたい・・・必死で言葉を探す、周りの人たちの苦しい気持ちも、理解はできます。伝えなきゃ、残さなきゃ、その使命感で語る報道の人たちのことも理解しなきゃと思います。

でも、ほんとうは・・・かける言葉などない・・・ですよね・・・いつの場合にも・・・

諦めが人を優しくする

2021-01-20 09:17:38 | Weblog
ではでは、書き溜め大作戦の第二弾『諦めが人を優しくする』です(^^)。

ここ数か月で、母が一気に子どもに戻っていっている気がします。言動が、かなり怪しくなってきていて・・・・でも、意外に、わたし、そんな母に、かなり優しく接することができている気がするんですよね。以前だったら、イライラしてしまって声を荒げてしまっていたような場面でも、「どうしたの」「そうなの」とって、冷静に対応できているように思います。

ただ・・・そんな自分を客観的に見たら「まるで幼い子の相手をしている母親みたいだな」って思ったんですよね。娘の母親に対する態度じゃない・・・「ああ~、わたし、もう、諦めたんだな」って。

働き者で、気が強くって、できるだけ人には頼らない、弱音ははかない、そんな"私の母"はもういないんだ・・・

その現実を受け入れることって、わたしにとって幸せなことなんでしょうか。母にとって幸せなことなんでしょうか。表面上は、とてもいい感じです。母はわたしに叱られることはありませんし、わたしは母の言動にイライラすることもありません。ただ・・・これだと、まるで利用者の介護をしているヘルパーさんと変わらないなって・・・母と娘の関わり方として、これでいいのだろうかと・・・

でも、仕方ありませんよね・・・望まない事でも、受け入れなければならないことがたくさんあります。受け入れて、その中でなんとかしていくしかないことが・・・家族の老いというのも、その一つなのでしょうね・・・


より深い部分の共感は妄想の中でのみ満たしていくのがよい・・・気がする

2021-01-20 08:36:28 | Weblog
一か月近く、何もものを考えない日が続いて・・・昨日は、一気に、なんやかんやと物思いにふけったりしたのであります。まっ、相変わらず、実のあるようなものじゃないですけど・・・でも、せっかくだから、一気にメモっておこうかと・・・またしばらく、思考が巣ごもりするかもしれませんしね(爆)。

で、その第一弾であります。タイトルは・・・固い(笑)・・・『より深い部分の共感は妄想の中でのみ満たしていくのがよい・・・気がする』。ちなみに、イケイケだった頃のわたしだと「・・・気がする」は書きませんでしたね、とにかく断定形の女でしたから・・・丸くなったもんだ・・・いや弱気になったのか・・・若者はこれを堕落という(^^;。

えっと・・・人にとって"共感"ってとても大切じゃないですか。どんなに大勢の人の中で、たくさんの関わりを持ちながら生活していたとしても、そこに"共感"というものがなければ、あまりにも寂しく虚しいですよね。自分という核が何より大切で、そのための自己表現であったり、自己実現であったりってことを追い求めていくにしても・・・それを支えてくれる他者が存在しなければ、自己表現だって自己実現だって成立しないですからね。

なんて堅苦しくいってしまいましたが、本来"共感"なんてものは、そこここに自然と生まれては消えていくもので・・・同じ体験をしたり、同じ環境にいたりすれば、まったく同じことを感じたり考えたりはしなくても、何かしら重なり合うものは感じ合うものですよね。ただ、そこで、自分以外の人たちが共有しているように見えるものを自分だけが感じられなければ、逆にひどく孤独になってしまったりはするわけですけど・・・。

一番分かりやすく、とても幸せな共感は、「同じものが好き」な者同士の間に生まれる共感のような気がします。これは、明るくて楽しくて・・・とても素敵な共感でありますね(^^)。

あるいは音楽などに出会って「これ、わたしのことを歌っている」「私の気持ち、そのままが歌になってる」と感じる場合の、一種の"解放の共感"もありますよね。これに出会うと、人ってハマっちゃいますよね(^^;。小説などの中には、その作品によって人生が変わったと表現されるような"救済の共感"を得られた人も少なくないみたいです。そういう、けっこう深めの"共感"は、ほんとうに、人の心に大きく影響していきますね・・・

ただ・・・そのどれも、あまり突き詰めちゃうと崩壊するよなって思うんですよ。同じものが好き同士、ほどほどの距離で"好き"を語り合えたりしたら、とっても楽しいんですけど、本気で議論なんかしちゃったら台無しでしょ。大好きな音楽を作り出している人たちや、小説を書いている人・・・その作品を受け取って自分なりに理解している分には素晴らしい出会いなんですが・・・もし実際にあって真剣に語りあっちゃったりしたら、たぶんですけど、あまり幸せな結果にはならないと思うんですよね。

ネットなどで、昭和な時代では物理的に決して出会えなかった人とも対話できる時代が来て・・・今までなら諦めていた"共感"が、もしかしたら手に入かもしれない・・・その可能性は広がったと思うんですよ。でもね・・・"共感"って、あくまでも自分の一部と、相手の一部が触れ合うだけなんですよね。決して、自分と他者とか完全に重なり合うことじゃない。それは絶対にそうで・・・だから、求めすぎるのは厳禁だって思うんですよね。

自分の核は、元来、誰とも重なり合わない、完全に孤独なものでありたいと、わたしは思うんですよね。だからこそ個なんだと。でも、わたしたちには何かしら共通する源みたいなものがあって、時に触れ合い感じ合うことができる・・・そして、それによって癒され、救われる・・・それを拒絶せず、しかし求めすぎず・・・ステキに孤独でありたいと思うんですよね。

恥ずかしい過去シリーズ ~詐欺に引っかかった?~

2021-01-18 08:44:59 | Weblog
気が付けば、一か月近く何も書いていない。少し前から、それが気になって、ふと思いついたことをメモしておいたりしたのだけど、しばらくたつと「こんなこと、書き残すほどのことかい」「また同じようなことばっか言ってる」って、破棄しちゃうんですよね。そもそも書くほどのことなんて書いたことないのにね(爆)。で、久しぶりに、しかも新年を迎えて最初の書き込みで、恥ずかしい過去シリーズを選択する私のセンスってどうなのよ(^^;。

ええ~、写真は、我が家の床の間にかかっているお軸です。物心ついた時から、ずっとかかっているので、そこそこ古いものではありますが、値の張るものかどうかは・・・我が家は旧家でもありませんし、ご先祖に芸術に造詣の深い人がいたという話も聞きませんから、たぶんイワユル紛い物でありましよう。でも、子どもの頃から、わたしは好きでした、このお軸。今も好きです。波を描いた油絵の時にも話したと思いますが・・・誰に評価されていなくても、わたしが好きならそれでいいんです、そういうもんですよね、絵って(^^)。

で・・・本題の詐欺の話ですが・・・お正月の時期って、けっこう芸術系のテレビ番組が多くて・・・ぼんやりそういう番組を見ていて、ふと、わたしの恥ずかしい過去を思い出したんですよね(^^;。

あれは・・・山猫軒を、子ども博物館の同窓会館にもなるようにとオープンしてから暫くした頃・・・半地下のスペースを、もっと有効に使えないかと模索していて・・・ふとある新聞広告が目に入ってきたんですよね。それは「絵画を貸し出しますから、お店などに展示してください。そして、その絵画が売れたら、代金の中から手数料をお払いします」みたいなのだったと記憶しています。

こりゃあいいなと。自己資金はそんなに必要ないし、売れなくても損はしないわけだし、山猫軒の雰囲気は私の好みのものになるし、何も悪いことはないじゃないかと。で、その業者に連絡して、大阪の事務所まで話を聞きに行って、かなりその気で話を進めていたんですよね。でも、誰だっけかな・・・夫かな・・・よく覚えてないんですが、どなたかに「その業者のことをちゃんと調べた方がいい」って注意されたんです。で、神戸の企業専門の調査会社に調べてもらったところ・・・実績がない会社で、取引はお勧めできないって言われたんです。調査会社としては「詐欺だからやめなさい」とは言わないけれど、「お勧めできない」って。で、すぐにその業者に電話をして、契約はしないとお伝えしました。すると、当然ながらずいぶん説得されました。それから何故急に止める気になったのかとかなりシツコク理由を追及されました。最後には、貴方が乗り気だったから、もう準備を進めていて、いま止められると大きな損害が出る、その責任はどうとってくれるんだと言われて・・・それまでは多少なりとも後ろ髪惹かれる思いや申し訳ない気持ちがあったのが一気に吹き飛び、「契約前ですよね。なのに準備始めていて損害がでるってそっちの先走りのせいですよね。契約の意味、よく考えてください」と、少し声を荒げて終わりにしました(^^;。もし、あのまま進めていたら、私、詐欺被害者になっていたのかな・・・。

それにしても・・・夫は今、任されているお店で、ちゃんとしたギャラリーを運営して、アーティストの皆さんに喜んでいただいているみたいだし・・・藍那は、女子大卒業後、芸大に入りなおしてキュレーター的なお仕事の勉強もしていたし・・・我が家の者はみんな、嫌いじゃないんだよなぁ~、こっち方面のことが。ただ、わたしだけは、パチものでお茶を濁そうとして失敗したんだな、トホホ。ああ~、じゃあ、裕太はどうなんだろう・・・彼は、芸術というより、芸事好きな我が家の血を色濃く受け継いでいるかな・・・成功してくれると嬉しいけど・・・成功しなくても、納得できる生き方をしてくれるといいな(^^)。

とにかく・・・自分では、詐欺になんか引っかからないと思っているけど、今まで、けっこう、ちょろちょろ危なっかしいことしてるんですよね。油断禁物であります。なんていうか・・・自分が損をしたり、信頼を裏切られたりするのは、もちろんとても嫌だけど・・・それよりもっと、人を騙して得をしようとする人を儲けさせてしまうっていうのが腹立たしく悔しいんですよね。子どもっぽい言い方ですが、正直者がバカを見るような世の中は、やっぱり嫌なのであります。

ああ、そうだ・・・わたしは正直者とまではいえませんが、そんなに悪い人間だとも思っていないので、ついつい自分を被害者の立場においてものを考えてしまいますが、詐欺って、気が付けば自分が加害者になっているようなことも起こり得るので・・・それはほんとうにほんとうに要注意だと思うのでありました。