OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

好き嫌いではなく損得で判断するのは必要な社会性なのだ

2020-12-24 08:33:13 | Weblog
今はどうなのかな・・・少し前には、バラエティー番組などで、よくメンタリストと言われる人を見かけました。それに対して別に文句はないんです(^^;。マジックなどと同じように、エンターティメントとして成立していて、多くの人を楽しませてくれるもののようでしたから。ただ、そこから連想してしまう、心理学的人心掌握術みたいなことには、若干の拒否反応があるのであります。

で、そういうことをツラツラ考えていて・・・そういえば昔々、我が子ども博物館で保護者用に実施したカラーコーディネイトの講座に関しても、実は、漠然と違和感を感じていたのを思い出しました。このカラーコーディネイトの講座は、お母さん方にとても好評だった記憶があります。自分に似合う色合いなどが見つかるので、今後のオシャレに役立てられると、とても喜んでいただけたような・・・。でも、私自身はその時、なんともいえない居心地の悪さを感じていたのでした・・・

少し前まで、アメリカの大統領選挙が大きな話題になっていましたが・・・今もアメリカで絶大な人気のある故ケネディ―大統領が、服装などでイメージを演出する先駆者だったと聞いた覚えがあります。なんでもお母様が、息子たちをいつか必ず大統領にしようと考えて、子どもの頃に当時まだ一般的ではなかった歯の矯正をさせていたとか・・・本当か嘘か定かじゃありませんが(^^;。とにかく、多くの人の支持を得るためには見た目をないがしろにしてはいけないと・・・で、今や、大統領だけでなく、ビジネスマンさんでも、どのシーンでどの色のネクタイをするだとかを考えるのは常識なんだと聞いています。

でも、なんというか・・・すごくよく分かるんですが・・・そういうの・・・なんというか・・・やっぱりある種の詐欺ですよね(爆)。

そういえば、大昔、就職活動をしていたとき、リクルートスーツというのに強い反発を感じたのも思い出しました。これから勤めたいと思っている会社に行って「自分はこういう人間です」ってアピールするのに、なんでみんな没個性の服装を選択するんだと。それだと「わたしは決められたことをしっかり守って、ちゃんと型にはまることが出来る人間です」ってアピールしているだけになっちゃうじゃないかと。会社は、そういう人間を雇いたいんだろうかと・・・でも、そう、雇いたいんでしょうね(爆)。

自分の好きな服装で、自分の思うことを発言したら、相手に受け入れられないと思うから、相手が好むだろう人間を装う、好みが分からない時は、より無難な服装と態度をとる、そういうことなのかな・・・切ないなぁ~・・・でも、実際、わたしはどこにも雇ってもらえなかったもんな・・・切ないなぁ~(涙)。

立場の弱いものが、強いものの顔色を窺い、相手の好みに合わせて行動するのは、処世術として致し方ないことではあります。また、対等な立場同士でも、良好な関係を維持するために、ある程度は自分を押さえて、相手に合わせることも悪いことじゃありません。

けど・・・権力をえるために、大きな利益を得るために、人々の心を操る方法として、心理学から学んだセオリーを利用するとしたら・・・それはやっぱり、立派な詐欺でしょ(爆)。

そうそう、企業や有名人の人たちが不祥事を起こして謝罪会見を開いた時、その会見についてなんやかんや言う意見って、たいてい"見せ方"についてですよね。巧い会見、下手な会見・・・しでかしたことや、本人の今の偽らざる心情なんて関係ない・・・いかに上手に"反省してますの体"を演出して傷を最小限で食い止められたか、本人の演技力や組織の仕切り力が評価されるわけですよね・・・なんだかなぁ~・・・

随分前に、電車の中で広告会社の広告を見て吐き気がした話をしたことがあります。羊の群れの写真が大きく使われていたのを、今でもはっきり覚えています。コピーは正確に覚えていませんが、任せてくれれば貴方が望むように大衆の心理を操作しますという意味のことをキャッチ―に現わしていたと思います。まあ、もともと広告とはそういうものなので、広告会社の言いたいことは分かるのですが、それを堂々と電車の吊り広告で、羊である我々大衆に見せているのに驚いて、この人たちは、人の心を操作することに何の罪悪感もないんだと呆れたものでした・・・

その後、仕事として商業ライティングに関わるようになり、多少なりとも、そういう世界に足を踏み入れてからは・・・いつも、その時の羊の姿が頭によぎりました・・・罪悪感を持ちながら仕事している自分は、罪悪感などなく喜びと誇りをもってこの仕事をしている人よりも、よほど卑怯じゃないかと・・・。だから、藍那に、文章を書く仕事にも興味があると言われた時、よくよくこのことを考えて欲しいと伝えましたっけ・・・

えっと・・・何の話でしたっけ・・・年末の慌ただしい時に、うだうだ話す内容でもないんですが・・・

昨年でしたっけ、一昨年でしたっけ、ディズニー映画の"ありのままで"って歌詞の曲が大流行しましたよね。つまり、とても多くの人が、飾らないありのままの自分を受け入れて欲しいと思っているってことですよね。でも、それと同時に、"相手に好かれたい、その為には苦労もいとわない"と思う気持ちや、"周りの人にこう見て欲しい自分"というのがあって、それを実現するためのコーディネートを楽しむという気持ちもあったりするわけですよね・・・だから・・・ん?だから何だ?・・・

いや~・・・イメージ戦略でもって、自分の欲しいものを手に入れるという行為は、対個人でも、対組織でも、対大衆でも、今や当然のことなんだと思いますが・・・なんやかやいっても、その根本は"嘘"だってことは、忘れたくないなと、そう思うのであります・・・はい。

母の「助けて」という言葉・・・

2020-12-22 16:38:51 | Weblog
母が、わたしの部屋にやってきて「今日は何日?」と聞く。「今日は22日、12月22日だよ」と答えると、「植木屋さんが27日に来るんでしょ」と言う。「植木屋さんは一昨日の日曜日20日に来て、もう剪定してくれはったよ」と答えると、「日付が変や」と繰り返す。「どう変なの」と聞くと「なんかオカシイ」とのこと。母の中で、今日は"日付"というのが拘りポイントになっているみたいで、変だ変だ、最近日付が変だと繰り返す。

「日付は気にしなくても大丈夫。勘違いしても何も問題ないよ。気になるなら、この日めくりカレンダーを見たら、今日は何日か分かるし、大丈夫」と、母が食卓に座った時、正面に見えるように掛けてある日めくりカレンダーを指さすと、ぼんやりそれを見ながら「今日は22日。日付がオカシイ」と呟く。そして「わたし、おかしくなってるんやろうか」と・・・

「自分が変かもと思えるうちは大丈夫っていうよ。でも、気になるなら、病院で検査してもらう?」と聞くと、大きな声で「検査はしない。病院は嫌」と言う。わたしの素人判断では、検査してもらえば何かしらの病名はつくかと思うけど、まだまだ初期の段階だと思う。だからこそ、今のうちにお薬でももらえば、もう少し精神的に安定できるのかも、進行も遅らせられるのかも・・・でも、本人が嫌だというのに、無理には連れていけない。実際、今のところ、ときどき変なことを言う程度のことで、大きな日常生活の支障はないことだし・・・

その後も、「日付が変」と繰り返しながら、合間合間に「情けない、おかしくなったんやろか」と言っていたけど・・・ふと黙り込んだかと思うと、ぽつんと「助けてな」と言った。胸が痛くなった・・・

最近の変な言動で印象的だったのが、定期的に通って骨粗鬆症の薬をもらっている整形外科で、ドクターに「今は誰と暮らしているの」と聞かれて「お母さんと」と答えたこと。ドクターが「誰の?」と聞き返すと「わたしのお母さん」と答えたので、わたしが横から「わたしと夫と三人暮らしです」と答えた。母の心は、どんどん子供の頃に帰っていっているのだろうか・・・だんだん、わたしが娘ではなく母親になっていっているのだろうか・・・

母にはずいぶん世話になった。苦労の多い人生だったと思うけど、その苦労は全てわたしのためであったと思う。だから、今、母の世話をすることは、恩返しをさせてもらっているのに他ならない。わたしにとっては有難いことなのだと思う。夫の両親も、わたしの父も、長患いすることなく亡くなった。親の世話をさせてもらう機会がほとんどないまま見送ってきた。もう、恩返しできる相手は母しかいない。

それでも、母の変化に、わたしの気持ちはなかなかついていけない。体のことには比較的対応できる。今まで出来ていたことが出来なくなってきたのをフォローするのは、そんなに難しいことではない。けれど、精神的な変化に、母自身もだし、わたしもなかなか馴染めない・・・

らしい言葉遣い、らしい筆遣い

2020-12-07 13:34:20 | Weblog
TVドラマを見ていて、ふと違和感を感じたんですよね・・・登場人物の使う言葉に「この子が、こんな熟語を使うものかな」って。そう感じること、ここんとこ増えてきました。キャラと一致しない言葉遣いが平気でまかり通っているなぁって。自分が年を取って妙なところに拘りだしたせいか、テレビドラマの脚本の傾向なのか。

現実の生活の中では、人の言葉遣いってそんなに単純じゃなくて、おバカキャラだと思われている人が難しい熟語を適切に使っていることもあるし、高学歴の人が悲しいほど貧相な語彙で喋っていたりもするし、人のバッククラウンドやイメージと言葉遣いの関連性って、意外に複雑だったりするんですが・・・テレビドラマのような場合は、そこに伏線的な仕掛けや、キャラクターの奥行きを表すための意図的な演出でもない限り、単純化した方が観客には親切だと思うんですけどね・・・作っている人たちは、どんな風に考えてらっしゃるんだろうな。

そうそう、以前、テレビドラマや映画の小道具として使われている手紙や日記などの文字に関して、「これは誰が書いているんだろう」って思ったことがありました。若者の恋愛を描いた現代劇なら、小道具さんとかADさんとか、読みやすい字を書ける人がチャチャっと書けばいいのかもしれませんが、時代劇なんかだと、その人物の地位によって字の感じが大いに違ってくるだろうから、素人では書けないんじゃないかと思って。

それを藍那に話したら、知り合いの俳優さんに聞いてくれたんですが、その人はご存じなかったみたいで・・・わたしには、とても気になることなんだけど、現場で働く人でも、そんなに気にかけることではないんだと、ちょっとガッカリしたものでした・・・

字の場合も、現実の生活の中では意外に満ちています。お上品な奥様が酷い悪筆だったり、強面のオジサンが丸文字だったり、話し言葉以上に、イメージとかけ離れた筆遣いの人は多いです。でも、ドラマや映画の中では、そのこと(イメージと乖離していること)に特別な意味付けがあるのでなければ、"らしい"字が使われていると、違和感なく見ることができますよね。

"らしい"・・・ふむ・・・この"らしい"というのも、いわゆるラベリングなんでしょうか。だとしたら、それに囚われている私は・・・ふむ。