OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

祖母の五十回忌に、子どもたちに伝えたいこと

2006-11-30 23:53:47 | Weblog
日曜日に、祖母の五十回忌がある。それで、母は、準備に忙しく、かなりカリカリしている(^^;。が、わたしは何も手伝わないので、文句を言う資格はない(爆)。

それにしても・・・五十回忌、たぶん、わたしのは無いだろうな。別に、自分の五十回忌をして欲しくて言っているわけじゃない。自分の子孫に、自分を手厚く祀ってほしい訳じゃないからね。そうじゃなくて、わたしが死んでから五十年を経て、わたしに関わった血縁者が、何人居るんだろうなと・・・そんなことを思ったわけだ。

だって、わたしが、今すぐに死んだとしても、わたしの五十回忌には、わたしの子どもたちは、そこそこの年になっているんだもの・・・わたしが、もう少し長生きして死ねば、娘や息子が、そうとう長生きしなければ、わたしの五十回忌は主催できない。となると、孫がわたしの五十回忌を? まだ、影も形も存在しない孫と、将来、どんな関わり方をするのか分からないけど、孫たちに自分の五十回忌をさせようとは思わないなぁ。

先祖供養のようなことを、子どもたちに、どう伝えればいいか・・・正直、わたしは迷っている。うちの場合、三世代同居の家庭だったから、子どもたちは、祖父ちゃん祖母ちゃんに大変世話になってきた。だから、とりあえず、祖父ちゃん祖母ちゃんのことは、大切にしろと、それは言えるし言っている。それは、生前にこそして欲しいけれど、死後に関しても、気にかけてやって、わたしが居なくなっても、祖父ちゃん祖母ちゃんのことは、祀ってやって欲しいと思っている。

が・・・自分に関しては・・・むしろ、祀るというような行為を、望んでいないんだよな・・・ふうむ。

今自分が在ることの基には、沢山の人がいる。その中には、親も含まれるし、親の親も含まれるし、親の親の親も・・・というような感じ方はして欲しいと思う。が、それが先祖供養という形になるかと言えば・・・わたしの中では、何か少し違うんだよな。だから、その「自分が今在ることの基に、たくさんの人が在る」ということを意識することの大切さを、どのように伝えるか、それと先祖供養を、どのように関わらせるか・・・う~ん、迷うな。

けれど、とりあえず、この五十回忌に参加させることは、彼らにとって、よい経験になると思う。うん・・・きっと、なるだろう。その時には、特に何も感じなくても・・・きっと、何かの形で、心の中に残っていくだろう。だから、そこで何を感じ、感じたことをどうしていくのか・・・それは、彼らに任せようか・・・と、今は、そんな風に考えている。

尽くしたいという気持ちも独占欲かな(^^;

2006-11-29 23:33:19 | Weblog
藍那が熱を出したので、彼女の部屋まで車で迎えに行き、家に連れて帰ってきた。しんどそうな顔をして寝入っている姿を見ると、愛しさが募る。

ふむ・・・この感覚・・・一種の独占欲なんだろうか。一方的に、世話をしたい、尽くしたいというだけの気持ちで、けっして、何かをして欲しいと相手に要求するような要素のない感情のように見えて・・・これも、やっぱり、立派な独占欲なんじゃないかと思った。

そういえば、裕太が骨折をして、上半身にアメフトの装備みたいなギブスをしている時、風呂で頭を洗うなどの世話が、たまらなく楽しかった時にも、これって『ミザリー』的喜びじゃないかと思ったことがあったな。

ちなみに『ミザリー』というのは、キャシー・ベイツ主演の映画。偶然、大ファンだった作家が彼女の家の近所で事故を起こし、彼女のところに助けを求めに来たことから、彼女の甲斐甲斐しいお世話が始まるのだけど・・・最初は、たしかに親切な行為だったのが、彼女にとって最高に喜ばしいその状況を維持する為に、作家を監禁して世話をし続けるようになるという怖ろしい映画だった。

怪我をしたり、病気になったり、あるいは辛いことがあって精神的に弱っている相手というのは、ある種「手の中の小鳥」みたいな存在で・・・その相手を世話するという行為は、献身的に尽くす行為でありつつも、どこかに支配あるいは所有の喜びみたいなものを含んでいる気がするんだよなぁ。

そういえば、我が子を、わざと病気にさせて看病することに喜びを感じる、母親特有の精神疾病があると聞いたことがあるけど・・・その場合も、こういう心理が関わっているのかな。

とにかく・・・少なくても相手が自立した人間であるなら、世話しないとか、構わないということの方が、ふさわしい愛情表現になる場合が多々ある。なのに、世話したがるというのは・・・それはもう、愛情ではなく、エゴなんだろう。とはいっても・・・捨てがたいもんですよ、好きな者に構いたい欲望と言うのは(^^;。

ゼロの恐怖、あるいはインパクト

2006-11-28 22:57:21 | Weblog
昨夜、日付が変わったあたりで、このブログにログインした。このブログは、ログインすると、最初の画面にアクセス数を表示する窓があり・・・この時、その表示は「ゼロ」になっていた。それを見た私は、自分でもビックリするほどショックを受けた。

自分では、アクセス数を気にしているつもりはなかった。書く限りは、そして、それを公開している限りは、少しでも多くの人に読んでもらえると嬉しいとは思うが、数字だけが増えれば満足するというような、幻数崇拝の気持ちはないつもりだったので、「ゼロ」という表示を見た時の自分の反応が意外だった。

ただ・・・きっと、これが「1」だったら、こんなショックは無かったと思う。「1」も「ゼロ」に匹敵するほど少ない数だけど、「1」には「ゼロ」のようなインパクトはないのだ。いや、言い方が反対だ・・・・「ゼロ」の方が、他の数字と、まったく違うインパクトを持つのだ。

「ゼロ」と「1」は、数としては「1」しか違わない。「2」と「3」も、数としては「1」しか違わない。けれど、「ゼロ」と「1」の違いと、「2」と「3」の違いは、まったく質が異なる。同じ「1」しか違わなくても、まったく違う異なり方なんだと思う。

結局、さっき、これを書く為にログインしたら、アクセス数は、いつもと変わらない数になっていた・・・なんだか、ショックを受けて、損した気分になった。ん?それは違うんじゃないだろうか・・・そうだよ、損したんじゃなく、得したんだよね、わたしは。だって、そのおかげで「ゼロ」の衝撃を体感できたものね。これは、とっても得なことだよね(^^)。

約束の地を持たぬ者

2006-11-27 23:12:43 | Weblog
頭が真っ白だなぁ・・・いや、心が空洞なのか・・・んん~、んんん~。

この状態と、心が澄んでいるとか、無心というのは、当然、違うんだろうな。でも、どこが、どう違うんだろう。

何にも心が囚われていない状態と、何も心に留まらないことの違いだろうか。

物事が形になる前の混沌という状態もあるよね・・・その時も、何もかもがグチャグチャで・・・先も見えないし・・・一生懸命考えようとしても、何かしようとしても、空回りしてしまう・・・ふうむ。

でも、これって、飛翔の前の助走なんだろうか・・・どっちかっていうと、崖から突き落とされて、何とか飛ぼうと、手足をバタバタさせているみたいな感じたけど・・・地面に叩きつけられる前に、飛べるんだろうか。地面は、もうすぐそこに迫ってるって感じなんだけど(爆)。

案外、自分では気づいてないけど、命綱が付いていて・・・飛べずに地面に着いちゃうんだけど、叩きつけられるわけではなく・・・そこから、自力で再び崖を登りきって、何かを見つけるんだろうか・・・。

とにかく、足場がシッカリしていないというのは、本当に不安定で、落ち着かないんだけど・・・それを可能性と捉えないことには、やってられんからね(^^;。何も、約束はされていないわけだけど・・・それでも、仕方ないね、放棄は出来ないもの。そういう意味じゃぁ、幾ら放浪し続けていても、約束の地を信じられる者は幸せだし、強いな。

でも、強くないことを、信じられないことを、不安で不安定なことを、唯一の武器として生きていくといのもまた、一興さ。ねっ(^^;。

スカスカって、好くない?

2006-11-26 15:42:11 | Weblog
ネットで購入したプリンターのインクが届いた。中身に釣り合わない、やけにデッカイ箱に入れられて届いた。中で、インクがカタカタ揺れないように、その大きな箱には、厚手の紙が、クシャクシャにされて入れられていた。

その紙が、少し光沢のあるキレイな青色だったせいか、わたしは、それを捨てるのが勿体無く感じられた。手で、紙の皺を伸ばし、幾重にか畳んで、取り置くことにした。きっと、使うことは無いだろうにね(^^;。

で・・・その、紙の皺を伸ばしている時に思ったこと・・・

キレイに折りたためば、僅かな体積にしかならないこの紙が、くしゃくしゃにされることによって、本来の自分の体積の何倍もの空間を満たすんだなあ~。けど、それを違う角度から見ると・・・スカスカってことで・・・なんだか、箱に詰められていたこの紙の様子は、まるでワタシの脳みそのようだなと。

けどね・・・この紙の場合、そのスカスカが役に立ってたわけだよね。スカスカだから、インクを守るクッションになれたわけだよね。スカスカって、かなり「守る」力を持っているよなぁ。

なんだかね・・・教育に熱心な人たちの話を聞いていると、彼らって、絶対に、このスカスカを許さないでしょう。みっちりギッチリ無駄なく詰まっているってことだけを良しとしているんだよね。けど・・・そんなことないんじゃないかな・・・脳でも、心でも、生き方でも、スカスカな部分が必要なんじゃないかな。もちろん、全部がスカスカじゃぁ、ちょっと困っちゃうけどね(^^;。

ネット世界で思う・・・毒を食らわば皿まで

2006-11-25 20:00:56 | Weblog
仕事で、一日に百を越えるブログを閲覧している。で、気づいたのだが、トラックバックを拒否している人が、非常に多い。

拒否の理由は、当然のことながら、望まぬトラバが付くのを避けたいからだと思う。具体的に言えば、エロ系のトラバはイヤなんだということでしょ。あとは、その他の営業トラバ。とにかく、彼らの機動力というのは凄いもの。ほっておいたら、あっという間に、続々と彼らからのトラバが付く。

けど、そういう望まぬトラバ以外のトラバなら、付いても構わないと思っている人は、少なくないんじゃないだろうか。エロ系じゃなくても、営業じゃなくても、知らない人とは、一切の関わりを持ちたくないんだという人なら、そもそもブログ開設なんかしないだろうしね。

もちろん、一般の人からのトラバでも、こちらの記事をチャンと読んで、何かしらの共感を感じて、それでトラバを付けるという人は、非常に少ないという現実がある。内容に共感した人なら、トラバではなく、コメントを付けることが多いし、結局は、個人のトラバでも、営業と同じく、自ブログへの誘導が目的なんだとは思うけど・・・それでも、トラバには、ネットワークシステムとしての利点はあると思う。だから、それが、機能しづらくなっている現状が、勿体無いなぁと思わずにいられない。

けど・・・それも仕方ないのかな。人の利己的な欲というのは、確かに醜くてイヤなんだけど、それでも頑として在るものなわけだし・・・ならば、それらの持つ異常なほどのパワーを逆手にとって、自らの推進力に出来るようにする方がいいんだろうね。でも、それには、それだけの度量と技量がいるわけだけど・・・どうだろうね・・・今のネット社会、そして、そこに参加している我々には、それを御すだけの器があるようには思えないな。操っているつもりが操られている・・・振り回されているよね。

だからといって、拒否って閉じこもってても、事態は何も好転しないわけだし・・・毒を食らわば皿までの姿勢の方が、まだ未来はあるかな。あっ、これは、トラバを拒否るなって意味ではないですよ・・・トラバを拒否らせるモノにたいする、わたし自身の取り組みの姿勢(そんな大げさなものでもないけど)の問題としてね(^^;。

カラスが木の実を啄ばむを見て・・・

2006-11-24 21:56:29 | Weblog
カラスが木に宿って、木の実を食べていた。一生懸命食べていた。細い枝に、大きなカラス・・・カラスが、実を毟り取るたび、枝が大きく揺れていた。

が・・・木にとって、これは好ましいことなんだよなぁ。鳥が、実を食べる。外側は体内で消化されるが、硬い種が糞に混じって、どこか離れた場所に落とされ、やがて、そこで新しい芽を出す・・・その可能性が芽生えたわけだから。

でも・・・そういう知恵は、誰が考え、木に授けたのだろう。木自身が考え、努力して身につけたとは思えない。だって、木には、脳もなければ、心もないのだもの・・・ないのだもの・・・わたしは、そう習った。

けど、誰かが意図し、誰かが企まなければ、「都合よく変化する」なんて、有り得なくないだろうか。それを、自然淘汰だと認めたとしても、その自然淘汰を意図したのは、いったい誰なんだろう。

それが神だなどと、わたしは言うつもりはない。けれど・・・たしかに・・・この世界には、一つの意志が働いている・・・それは「努力して生きよ」というメッセージとなって、生き物たちの在り方に現れている。

けれど、なぜ、それほどまでにして、われわれは生きなければならないのか・・・命を繋ぎ、生き続けなければならないのか・・・それを意志したものの、意図が読めない。

ふむ・・・しかし、とにかく、今は・・・カラスよ、実を啄ばめ。そして、自分の命を繋ぎ、木の命を繋げ。それが是であるか、非であるか、判断がつかぬうちは、とにかく、そうしていくしかないだろう。

考え事に最適な場所

2006-11-23 22:28:36 | Weblog
考え事に最適な場所は、なんといっても車の中。次が、お風呂。つまり、ほどよい広さのある個室。やっぱり、ものを考えるのには、閉鎖空間が必要なのかな。

そういえば、泣くのも、車の中か、お風呂。ここでは、声を出して泣くことも許されるよね・・・。閉鎖空間って、マトリョーシカみたいな感じで、自分の外側に、もう一つ自分の枠が出来上がるって感じかな(^^;。

けど、だからといって、その閉鎖空間に、じっと閉じこもっていても、何も考えられないんだけどね。外に出て、色んなことを感じて・・・それを持ち帰って、籠もらないとね(爆)。

つまり、精神状態と同じ空間環境が、必要なんだなぁ~・・・きっと。広い世界に出たときには、心も出来るだけオープンに・・・そこで感じたことを、自分の中に取り込んでいく時には、ドアを閉めて一人静かに・・・そういうことなんだろうな。

けど、実際には、外に出ていても心を閉ざしたままで、内省しなければならないときには孤独に徹しきれず・・・中途半端なんだよなぁ~・・・オイラは。

吐っ・・・吐きたい・・・(^^;

2006-11-22 20:24:53 | Weblog
別に、乗り物に酔ったわけでも、酒に酔ったわけでもないんですけど・・・何か、胸のあたりがモヤモヤするっていうか、ムカムカするっていうか・・・何を吐き出せばスッキリするのか、その何かが分からないんだけど、とにかく何かを吐き出したいと・・・何かを自分の内側から外にひりだしたいと・・・そんな風に感じている今日この頃です(^^;。

あっ・・・今、ひらめいたけど・・・夢枕獏さんの小説『陰陽師』で、悪霊系のモノ(爬虫類とか両生類とかの姿のことが多いかな)が、人の体の中で蠢く描写があるじゃないですか・・・あの感じ!あの感じっ!!うん、まさに、あんな感じなのです。だから、そのモゴモゴ蠢く連中を、何とか自分の内側から外に出したい感じ。

この表現が、精神状態を譬えたものではなく、肉体レベルで認識されてるってことなんです・・・そうそう、そうなんだわ。

ただ、とは言っても、ほら、吐き出したい何かの正体が分からないわけでしょ。わたしの傍には、安倍清明さんも居ないことだし・・・自分で、その正体を見つけなきゃ、吐き出すことも出来ないわけです。だから、その為に、現代では精神科学があるのかな。あるいは、各種カウンセラーさんたちや、細木数子さんみたいな人たちや・・・そういう系統の人たちもいるのかな。けど、わたしは、そういうの、苦手だから・・・なんとか自分で、自分の中の爬虫&両生類を、外にひり出したいわけです。たぶん、今、こうして、これを書いているのも、その為の行為の一つなんだろうし・・・

けどね・・・もし、わたしという存在が、そのままパンドラの箱だとしたら・・・なんてことも、思わなくはないんですよね。蓋をあけて、中にあるものを全て放出してしまったら・・・わたしは、ただの空箱になってしまうんじゃないかと。

もし、お前がパンドラなら、邪悪なものだけ解き放ち、最後の希望だけを残せばいいじゃないかと言われるかもしれないけど・・・希望だけのこして、何の意味があるんだろうと、捻くれ者は思うんですよね。おーる・おあ・なっしんぐ・・・全部を引き受けるか、全部を放棄するか・・・悪いものだけ捨てて、希望だけ残しても、その希望を現実にするためのアイテムが、何も残ってないわけだし・・・ということは、ん? 希望を現実のものにするために必要な道具って、自分の中の邪悪なものたちって事なんだろうか・・・邪悪なものたちだけじゃないだろうけど、きっと邪悪なものも含めてなんだろうな、やっぱり。

えっ?じゃぁ、わたしは、このモジャモジャを吐いてしまっちゃ、いけないのかな。この爬虫両生類を飼いならし、自分の味方にしなくちゃいけないのかな。あれ?参ったな(^^;。

最近、考えれば考えるほど、迷いが深くなるね。書き始めた時の気持ちと、書き終わる頃の気持ちが、全然違ってきちゃってるし(爆)。書き手が、そんなんじゃ、読み手は、混乱しますよね・・・ごめんなさい。でも、まっ、これもまた一興ということで・・・・よろしくお願いします(^^)。

お金儲けには、すぐ飽きる(涙)

2006-11-21 22:02:26 | Weblog
お金はイイ。お金があれば、たくさんのものが手に入る。反対に、お金がないと、我慢しなければならないことや、諦めないといけないことが、たくさん出来る。だから、お金はイイ。わたしは、お金が欲しいと思う。

となると、なんらかの形で、お金を得る方法を持たなければならない。つまり、なにかしらの方法で、お金を「稼ぐ」ということを、しなければならないわけだが・・・お金同様、この行為にも、人を惑わせる魔力があるようだ。人は、稼ぐお金そのものにも惹かれるが、稼ぐという行為にも取り付かれているのではないかと思える時がある。自分の行為が金に結びついていく・・・より高額な金に形を変えていく・・・そのことの魔力に、抗えなくなっているのではないかと思う人が、世の中には、たくさんいる。

と言うか・・・そも、我々の社会では、そのことに抗うことを薦めてはいない。むしろ、その魔力に絡め取られることを奨励しているように思えることがあるしね。

かくいう私も、お金同様、自分の行為が換金されていくことに、快感を覚える。自分のしたことがお金に換わる瞬間、その行為、ひいては私自身が、何か価値のあるものになった気分がするし・・・いや、もっと単純に、自分の持ち点が上がっていく、その数字の上昇にゲーム感覚で興奮する。

が・・・わたしの場合、それが長続きしてくれない。かならず、すぐに、その興奮から醒めてしまう。と、当然、その稼ぐ行為が苦痛になってしまう。ただ、必要な金を稼ぐために、我慢して続けることになる。

もちろん、その行為が苦痛にならない場合もある。むしろ、特別な感情、つまり愛情のようなものを持てるようになる場合もある。でも、そうなったらそうなったで、よけいに面倒なことになる。わたしの場合、何故だか、自分が大事に思うことから収入をえることに罪悪感を感じてしまうのだ。独占欲も絡んでいるのかもしれない。とにかく、大事なものを、金で他人に売り渡すような、悔しさと悲しさと情けなさと申し訳なさを感じてしまうのだ。まったく、そんなこと、思う必要も無いのに。

はぁ~・・・一生、金持ちにはなれないなぁ(爆)。それはまあ、いいんだけど・・・勤勉にもなれない、それが問題なんだよなぁ(激爆)。